長老候補──。
 この世界《ミディアミルド》では、それは、一国に於いて、導者《どうしゃ》・巫女《みこ》・予言者といった聖職者達の束ね役を担う長老の、いわば後継予定者である。
 神官の長《ちょう》たる長老は、多くの国では単に、聖職者の束ねでしかない。しかし、レーナの場合は、文官の長たる宰相・武官の長たる主席将軍と並ぶ、王の相談役。故に、特にレーナの長老候補は、おいそれと遠出も出来ない長老の代わりに各地に赴くことが他国の長老候補よりも多いという。
 そんな訳で、マーナ暦《れき》デリーラ六年の仲冬《ちゅうとう》二の月、此度、近国レーナで長老候補の任に在るという青年が、マーナの第一王女ルディーナ・クアラ・オーディルの婚礼──但し、初婚ではなく再婚──祝賀の席に、レーナの文武官の代表と共に派されてきたのだが──
 マーナ王ララド・ゾーン・オーディルは、奇妙なことに、以前何処かでこの青年に出会っているような気がしてならずにいた。
 青年は、まだ若い。確か、十六だと言っていたか。少年と言っても差し支えない年齢かもしれない。だが、不思議に、幼いという印象はなかった。見目形が割に落ち着いた端整さを有しているせいもあっただろう。
(……リュウ・シェンブルグが此処にいた頃に、近従として付いていた……というわけでも、なさそうだが)
 数年前までマーナに“勉学の為に”──つまりは人質として──滞在し、今はレーナに戻って王位に即いている、当時のレーナ王子のことを思い返してみる。しかし、あの頃リュウに付いていた近従達は、皆、あの当時で十代ばよりも上の年齢だった筈だ。この青年は、当時リュウの近従だったにしては、余りに若過ぎる。
 とは、いえ。
 長老候補に選ばれて一年ほどとのことだが、王族や文武百官が臨席する異国の宴に臆するところもなく、かと言って変に背伸びをしたり虚勢を張ろうとしたりするところもない。ごく自然に、宴席を……より正確に言えば、宴席に招かれている女性達の間を主として経巡って、嫌みのない愛嬌を振り撒いている。いつもなら、このような席での女性あしらいの目立ちっぷりは“ノーラ家の不良息子”こと近衛副長ノーマン・ティルムズ・ノーラのほぼ独壇場なのだが、遠来の客に対する物珍しさや好奇心も手伝ってか、マーナの貴婦人達の人気は、今のところはこの、何処かさらり[#「さらり」に傍点]とした明るさを持つ年若い異国の長老候補の上に集まっているようだった。
 さぞかしノーマンは面白くなかろうな、と口中に呟くと、ララドは、玉座から腰を上げた。御退出か、と動きかけた近従ふたりを手で留めておいて、玉座の前の階《きざはし》を軽々とした足取りで降りる。
「ルディーナの祝いの席だ。久方振りに、皆とも踊りたい。王太子の昔に戻ってな。──楽士達に、次の曲にカーリダー・ガダリカナを、と伝えよ」

「……あれが、レーナの長老候補か」
 いつものように宴席の片隅に腰を据え、踊るでもなく酒を飲むでもなく料理を頬張るでもなく、ただクァイ水《すい》──基本、水に柑橘の果汁を垂らして拵える、わずかに甘酸っぱい、無色透明の飲み物──の杯《はい》を傾けながら人模様の傍観を決め込んでいた青年将校は、かなり興味深そうに、異国から来た黒褐色の髪の長老候補の姿を目で追っていた。
「諸人に若い若いと言われている私よりも随分と若いのに、なかなか女性のあしらいに長けているようだな。話す女性話す女性が皆、楽しそうにしていて、笑いが絶えない」
「何処ぞの何方様かが、さぞかし面白くない思いをなさっておいででしょう」
 まだ年幼いようでありながらも大人びた印象を与える美貌を持つ侍者《じしゃ》の端整な唇から、刺《とげ》の潜んだ呟きが洩れる。青年将校は、「それは、どうかな」と小さく笑って、陽光の流れ落ちるような輝きを纏う金髪に縁取られた頭を軽く左に傾けた。
「どうしたところで所詮は他国の使節、この日限りのことと、堪《こら》えておいでなのではないかな。これが何年も“勉学の為に”滞在する相手であるなら、心穏やかではいられまいが。……おや」
 寛いだ姿勢でクァイ水の杯を卓上に戻した青年将校は、武官の儀礼用正装を身に纏った亜麻色の髪の女性武人が青年侍者を伴い歩み寄ってきたことに気付いて、慌てたとは取られない程度の素早さで姿勢を正した。
「これは、デフィラ一等士官《いっとうしかん》。お立ち寄りいただき光栄です」
「相変わらずだな、ケーデル一等上士官《いっとうじょうしかん》。このような隅の席に引っ込んで物見を決め込むとは」
 青年侍者がさりげなく引いた椅子に腰を下ろしたデフィラ・ターニャ・セドリックは、やや腰を浮かせて会釈する青年将校に穏やかな笑みを向けた後で、手にしていたメリア酒《しゅ》──ミディアミルドで広く愛飲されている、アルコール度の比較的低い赤い果実酒──の杯を傾けた。
「貴官ほどの地位に在れば、もっと積極的に色々な文武官と話して人脈を広げておいても良かろうに」
「残念ながら、幾ら地位があっても、何も実績を持たない私では、相手にされませんよ。有難いことにマーナは、血筋や家柄以上に実力や実績が重んじられる国ですから。……アル、済まないが、また、そろそろ頼む」
 ケーデル・サート・フェグラム青年は、傍らの侍者にクァイ水のおかわりを貰ってきてくれるよう頼むと、澄み切った碧眼を広間に戻した。
「あのレーナの長老候補は、レーナでは名門であるレグ家の出とのことですね」
「貴官のフェグラム家がクデンでそうであるようにな。建国の時から仕えているという意味で」
「レグ家からは今迄聖職者が出たことはないと覚えていますが……確か、元々は主に外交筋の文官を輩出していたとか」
「貴官の情報通は、いつもながら、余人の及ぶところではないな」
 デフィラは苦笑しつつ、内心でだけ呟いた。
(……この青年、己の出自に話が及ぶと、必ず身を躱《かわ》そうとするのだな)
 二年前、ナーヴィッツでの戦の後に出会って興味を持ち、呼び止めて言葉を交わした時にも、クデンの名家フェグラム家の出か、と問うたデフィラに、この青年は、無言の微笑みしか返さなかった。その後も、幾度か話す機会を得たが、彼は、己の出自の話になると、全く乗ろうとしない。否定も肯定もせずに黙っているか、さりげなく話をそこから引き離すかの、いずれかなのだ。決して恥じるような家の出ではない筈なのだが、彼自身ではそうは思っていないのかもしれない。
(まあ、どんな名家でも、大なり小なり問題を抱えているものだ。外から見ている者にはわからぬこともある。わかるものなら、自ずとわかる日も来るだろう。下手な詮索はせぬが賢明か)
 ケーデル青年の横顔は、容易には他《た》に感情を窺わせない。だが、ひたすら異国の長老候補に目を向けているその横顔を見れば、デフィラには却って悟られるのである。この年若い将校が、更に何か自分の家柄について問われるのではないかと警戒し、決して気を抜いてはいないことが。
「……おや、珍しい。陛下が踊りの輪に加わられているとは」
 話題を変えるに丁度良い出来事に気付き、デフィラは、敢えて声に出して独りごちた。ケーデル青年は、ちら[#「ちら」に傍点]とデフィラの表情に目を向けたが、すぐに今度は、デフィラの視線が向いている辺りに視線を転じた。
「曲が、カーリダー・ガダリカナに変わりましたね。やっと武官の自分が本領発揮で輝く出番だぞと張り切る御仁が、此処ぞとばかりに早速デフィラ一等士官をお誘いに来ることでしょう」
「……貴官、言う時は言うのだな」
 何げなさそうに発された青年将校の皮肉混じりの言葉に苦笑したデフィラは、だが、不意に横合から掛けられた声に振り返り、左右で青に緑と色の異なる目を思わず円くした。
 一瞬遅れて気付いたケーデル青年も、咄嗟には反応出来なかったようで、ただぱちぱちと目をしばたく。
「ええと、セドリック家のデフィラ嬢でいらっしゃいますよね」
 邪気の乏しい笑顔で声を掛けてきたのは、いつの間に寄ってきていたのか、あのレーナの長老候補だったのである。
「レーナの長老候補、ソフィア・カデラ・レグと申します。もし宜しければ、私とガダリカナを踊っていただけませんか」
「なっ……」
 少しだけ離れた所から、引き攣り気味の呻きが届く。デフィラは敢えてそちらには目を遣らず、ソフィアと名乗った黒褐色の髪の青年が差し出す右手を眺めた。
「……お受けしても良いが、小さな筆胝《ふでだこ》しかない手では、ガダリカナは踊り通せまいに」
「踊り通せないのは百も承知です。ですが、ガダリカナでなければデフィラ・セドリック嬢は踊ってくださらない、との話を、皆様から伺いましたので……前奏を耳にして大急ぎで駆け付けた次第です」
「……それは、どうしても私とは踊っておきたかった、という意味か」
「そうです。実は別の目論見もあるのですが、説明していたら前奏が終わってしまいますので、それはまた踊りながらでも」
「こら、ちょっと待て」
 先程の呻きの主が、遅れ馳せながら割って入る。黒ひと色の服《ドージョ》に純白のマント《マイルコープ》そして腰には細身剣《ディラン》という武官の儀礼用正装に身を包んだ、黒髪の青年。年の頃は二十代後半、それなりに日に焼けた肌と相俟って鍛え抜かれているという印象はあるが、過ぎた無骨さは窺えない体格。恐らく、腕の立つ武官なのであろう。ただ、己の感情を隠すことは随分と不得手らしい。普段は割に整って精悍なのだろうその顔は、不本意な状況に放り込まれて明らかに引き攣っている。
「踊り通せもしないくせにガダリカナの名手を誘うとはいい度胸だな、レーナの長老候補とやら」
「はい、国許でも時々言われます。顔の割に大胆不敵な奴だなとは」
 レーナの青年長老候補は、並の男なら怯んだかもしれない相手の睨み据えに遭っても、黒褐色の瞳にわずかに悪戯めいた笑みを浮かべただけで、応えた風もなかった。
「当の本人は至って慎重なつもりで、勇気を出さなければいけない時だけしか、出していないつもりなんですけど。……黒のドージョに銀縁の白マイルコープをお召しということは、貴殿が噂のノーマン・ノーラ近衛副長閣下ですね。デフィラ嬢と並ぶガダリカナの名手とは伺っております。大変失礼しました。でも、今は私の方が先にデフィラ嬢をお誘いしたんですから、まずは私に答を伺う権利がありますし、それに……」
 そこで言葉を切ったソフィア青年は、何げない様子で広間の方を見遣った。
「……マーナ王ララド陛下が自ら踊っていらっしゃる時に、近衛副長閣下がそれ以上に見事に踊られて陛下よりも目立ってしまうのは、近衛兵としては如何なものでしょう」
 ぐっ、と言葉に詰まった近衛副長閣下は、デフィラの洩らしたくすくす[#「くすくす」に傍点]笑いに、更にむくれ顔となった。……まあ、むくれ顔程度で済んだのは、近衛副長閣下がこの時に、珍しくも肩を震わせるほどに声を殺して笑いを堪《こら》えている今ひとりの人物の存在に、全く気付いていなかったから……ではあった。
「御心配なく、閣下。情けない話ですが、途中で息切れすることは保証しますから。踊り切れなくなったら、すぐにこちらへ戻って、デフィラ嬢はお返しします。……それに多分、別のガダリカナが、後でまた演奏されますよ。皆さん、おふたりのガダリカナは、デラビダで催される宴で一番の名物だと話されてましたから。見ずには終われない、と仰せの方も多数いらっしゃいましたし。私も楽しみです」
「光栄なことだ。……ノーマン近衛副長、済まぬが、今は堪《こら》えてもらえまいか。この長老候補殿が言うことにも理がある。貴殿とは、陛下が玉座に戻られてから踊ろう」
「あ、では、お受けいただけるのですね。有難うございます。それでは」
 軽やかに広間へ出てゆく二名を半ば茫然と見送っていたノーマン・ノーラは、ふて腐れた表情を隠そうともせず「……くそ[#「くそ」に傍点]生意気な」と呟くと、直前までデフィラが座っていた椅子にどさっと腰を下ろした。
 やや乱暴に卓上に片肘突いたところで初めて、この円卓の先客に気付く。
「──い、いつからいたっ」
 のけぞりそうになりながらも、ノーマンは辛うじて、腰を浮かせずに済んだ。両肘突き、絡み合わせた両手指に額を乗せて殆ど顔を隠すようにしていた青年将校が、問われてようやく顔を上げる。一見、冷静そのものの表情で……しかし、よくよく見れば、唇の端で笑いを堪《こら》えている顔で。
「デフィラ一等士官が此処にお見えになる前から、おりましたよ」
 ノーマンは唸ったが、それ以上には文句を言わなかった。彼が蛇蝎《だかつ》の如く嫌っている“青二才”ケーデルが座っていた場所は、此処へ来る前にノーマンが立っていた場所からは大きな鉢植えの木の陰になっていて、すわ[#「すわ」に傍点]ガダリカナとデフィラを誘いに飛び出した時には死角だったことは確かだ。しかし、近付いてからも気付かなかったのは、自分の不注意である。レーナの「くそ[#「くそ」に傍点]生意気な」長老候補に気を取られていたからとは、言い訳にもならぬ。
「……あのレーナの長老候補、ただ単に女性好きであちこちの女性達と語らっていたわけではなく、色々とこちらの話を仕入れていたようですね。……意識してやっているなら、侮れない。無意識でやっているなら、末恐ろしい。前者であることを願いたいものです」
 誰に向かって言うとでもなく、ケーデルが呟く。
 ノーマンは黙ってそっぽを向いていたが、耳は傾けていた。彼は、容易に腹の底を見せない人間、特にケーデルのような、目の前で悪し様に罵られても腹の中に押し込めて平然と笑顔で受け流すような男は大嫌いだと本人の面前で堂々公言してのける男ではあったが、嫌悪の念はそれとして、ケーデルが有していると噂される分析力や洞察力までをも軽視していたわけではなかったのである。
「ミン殿は、今の青年、どう見ましたか」
「……そうですね……人目に対する平衡感覚が強い人物ではないかと、見受けました」
 急に話を振られた恰好になったデフィラの侍者ミン・フォウ・ディアヴェナ青年は、若干戸惑いながらも答を返した。
「人目に対する平衡感覚、ですか」
「はい。……元は剣舞のガダリカナであるにも拘らず男である自分の方が途中で先に脱落する羽目になると承知で、デフィラ様に声を掛けた。男として情けないと思われかねない姿を敢えて晒そうとするのは、人の目に映る自分はそれくらいで丁度良い、と当人が考えているからではないかと。……考え過ぎかもしれませんが」
「成程。恰好の良いところ悪いところ、双方を披露しておいて、世人《せじん》の目に映る自分が突出した印象を持たれぬよう、釣り合いを保とうとしていると?」
「はい」
「そうですか。……私は、もう少し違うことも考えていました。彼が口にしていた『別の目論見』という言葉も引っ掛かりますし」
 ケーデルは、手指をほどくと、椅子の背凭れに軽く背を預けた。
 そこへ、美貌の侍者アルが、新たなクァイ水の杯と共に戻ってきた。微妙にこわばった表情なのは、一体全体何事があって、自分の主《あるじ》と、自分の主を青二才呼ばわりで毛嫌いして憚らぬ男とが同じ円卓に着いているのかと、激しく訝っているせいだろう。
「ですが、まあ、裏付けのない臆測で物を言うのはやめておきましょう。……ああ、アル、有難う」
「……大体、何で食い物がないんだ、此処は。宴に来て、水擬《みずもど》きばかり飲んで、何が楽しい」
 デフィラが残していったメリア酒の杯を横取りするわけにも行かず、手持ち無沙汰で間が持たないのだろう近衛副長が、ぼそりと呟く。美貌の侍者は形の良い眉を跳ね上げたが、灰青色《ブルーグレイ》の瞳に不穏な光を湛えつつも、主の手前か、何も言わなかった。ミンは、此処は自分が何か取ってくるべきか、と考えたが、それを口にするより早く、美貌の侍者の主が苦笑混じりに口を開いていた。
「これは気付かず、失礼しました。……アル。戻ってきたばかりなのに済まないが、何か食べる物を見繕ってきてくれないか」
「……かしこまりました。お飲み物は」
「この光景を面白がって此処へお見えになろうとしているタリー・ロファ一等近衛《いっとうこのえ》が、ちゃんとお持ちになっている。食べる物だけで構わん」
 内心の嵐はそれとして、主に逆らう気まではないのだろう。侍者アルは一礼すると、再び場を去った。直後、入れ代わりのように到着したのは、ケーデル青年の予告通り、タリー・リン・ロファ一等近衛であった──確かに、両手に、メリア酒の杯をひとつずつ携えて。
「どうした風の吹き回しなんです、副長?」
 持参した酒杯を上官に手渡しながら、緑みの強い金髪に縁取られた温和そうな童顔には、好奇心の色が珍しくあからさまに浮かんでいる。
「何と言うか、此処、矢鱈と注目の的になってますよ。特に御婦人など、ガダリカナそっちのけで、『まぁ、ほら御覧になって、あの[#「あの」に傍点]ノーマン様とあの[#「あの」に傍点]ケーデル様が御一緒よ、何が起こるかしら』なんて、うずうず、わくわく、しておいでです」
 ガダリカナは元々、対になって踊る剣舞から発達した舞踏。現在演奏されているカーリダー・ガダリカナの他にも、デラクロア・ガダリカナ、メーザンス・ガダリカナなど幾つかの種類があるが、いずれも概してテンポが速く、素早さを要求される激しい動きと難しい足捌きとが特徴で、別名“倒れ込み曲”と呼ばれている。貴婦人方が「ああ、わたくし、もう、踊れませんわぁ……」とお目当ての男性の腕の中に倒れ込むのにぴったりの“踊り切れなくて当たり前”の舞曲だからであるが、その恰好の機会をふい[#「ふい」に傍点]にするほどこちらの様子が気になってしまって、結局踊りに参加しなかった貴婦人方が少なくない、ということらしい。
「……大したものだ」
 ケーデルが低く呟く。白皙の頬には苦笑が刻まれ、わずかに赤みが射している。
「私の考えていたよりも他に、更に目論見があったとは……本当に、そこまでの効果を計算の上だったのか……もしもそうなら、なかなか機転の利く青年だな……」
 殆ど独り言に近い台詞であったが、流石のケーデル嫌いのノーマンも、遂に関心に負け、訊き返さずにはおれなかった。
「機転が利く? どの辺が」
「彼は他国の人間で、しかも、マーナに使節としてやってきたのは初めてです。恐らく、マーナの文武百官の間柄を事前に詳しく知っていたわけではない筈。此処からは、彼が事前に我々の間柄については知らなかったものとして話を進めますが、今し方初めて知った情報を素早く整理し、咄嗟にそこまでの効果を計算して行動に移せるということは、かなり機転の利く人間と見て良いでしょう」
「効果……計算?」
「ええ。……あの青年についてミン殿が仰せになった、“恰好良いところだけでなく恰好悪いところも見せて、他人の目に映る自分の姿の平衡を保とうとしているのでは”という見立ては、多分、正しいと思います。……但し、その“恰好悪い”姿を見せたいと思った相手は、極端に言えば、我々だけ[#「我々だけ」に傍点]。……そして、思い返してみれば、彼は、『踊り切れなくなったら、すぐにこちらへ戻って[#「こちらへ戻って」に傍点]、デフィラ嬢をお返しします』と言った。……此処へ戻る[#「此処へ戻る」に傍点]、と言われたからこそ、副長閣下は、此処に[#「此処に」に傍点]留まられたわけでしょう? 私がいると、後から気付いてさえも」
 ノーマンは、相手の語る言葉の意味をじっと考え──
 そして不意に、あっと大声をあげた。
「──あぁあの野郎、他の女どもに自分の恰好悪い姿をなるべく見られんよう、こっちに[#「こっちに」に傍点]目が集まるよう仕組んだってのかっ!」
「身も蓋もない」
 ケーデルは珍しく声たてて笑った。──偶然を装って“通りすがった”貴婦人とその侍女達が、吃驚したような目を向けてゆく。
「ですが、恐らくその通りではないかと、私は見ています。このような宴席でのガダリカナとなれば、副長閣下がデフィラ一等士官をお誘いするのは、ほぼ間違いないこと。であれば、デフィラ一等士官が私の所に来ている時にガダリカナが始まれば、如何に私に近寄りたくない副長閣下であっても、必然的に自ら私の近くへ訪れることになる。……無論、普段ならば、私ひとりが此処に残されて終わりです。けれども、もし、副長閣下よりも先に、自分と踊ってくれとデフィラ一等士官に申し入れる誰かがいたとしたら? そしてその“誰か”が、おいそれとは断わりにくい、他国からの使節だったら? 取り残されるのは、諸人から面白おかしく不仲を噂されている閣下と私という、このような席では滅多と見られぬ組み合わせのふたりというわけです。異国の長老候補に関心を持って何げなしに目で追っていた御婦人方も、思わずこちらに関心を移したことでしょう。ちょっとした揉め事が近過ぎない場所で起こるかもしれないという状況の方が、刺激を求める御婦人方には、より魅力的ですからね。……マーナの人間ならば、ガダリカナが流れ始めた時に副長閣下とデフィラ一等士官の間に割って入ろうなど、考えも付かない。他国の者だからこそ思い付けた、大胆な策です」
「しかし、咄嗟にそこまで考えが回るものですかねえ。かの軍略家ナドマ老の私塾出身であるケーデル一等上士官ならいさ[#「いさ」に傍点]知らず」
 タリーが、感心したような呆れたような嘆息を洩らす。ケーデルは小さく肩をすくめた。
「……私は、他国にもケーデル・フェグラムがいるかもしれない、という可能性は、常に頭の片隅に置いていますよ」
「貴様のような奴がふたりも三人もいてたまるかっ」
 思わず毒づいたノーマンの台詞に、ケーデルは真顔で頷く。
「私も、そう望んでいます。……私は、あの青年は恐らく、『今日の自分は何だか目立ってしまってますけど、これこの通り恰好悪い姿だってちゃんとある、人畜無害な人間なんですよ、だから余り警戒しないでくださいね』と我々三名に示すことを目論んでいるのだろうな、と思っていました。それは多分それほど間違った見方ではないだろうと、今でも思っています。……勿論、彼は、最初からそうするつもりで機会を窺っていたわけではないでしょう。デフィラ一等士官が私の所へお見えになったのは偶然、その時にガダリカナが始まったのも偶然。但し、その偶然の重なりを好機として素早く捉えた辺り、只者ではない。……何度も言うように推測に過ぎませんが、恐らく、宴席を経巡る間に、我々三名についての噂を耳にし、その中で、副長閣下とデフィラ一等士官とのガダリカナが素晴らしいという話ばかりでなく、閣下と私との間柄がお世辞にも友好的とは見られていないことまでをも聞き知ったのでしょう。……閣下は二十代で既に近衛副長にまで昇進しているマーナ随一の剣士《リラニー》、順当に行けば、そう遠くない将来には近衛隊長。デフィラ一等士官も、将軍職昇進を目前にして一旦大失脚したものの、わずか四年で一等士官にまで返り咲いているほど有能な年若い武官。私は……まあ、此処に集うデラビダの貴婦人方から聞いた噂が情報源の中心なら、相手がどう考えたかは概ね推察出来ます。つまり、彼は、宴席の御婦人方の目を閣下と私の方に向けさせて自分の“恰好悪い”姿を見られる相手を減らすと同時に、先々マーナの国内で無視出来ぬ重要な立場に立つことになるであろうと目した我々三名に対して、レーナの長老候補である自分の存在を、なるべく警戒感は抜きで印象付けておきたい、そう考えたのではないでしょうか」
 諸刃の剣《つるぎ》ですけれどね、とケーデルは付け足した。
「そうと計算しての振舞と我々に見抜かれてしまったら、年若いながら油断ならない男としての印象が強烈に残る。……いや、どう転んでもいいかと割り切っているのか、或いは、我々が見抜けるかどうかと試しているのか」
「……それではまるで、ケーデル一等上士官のような青年だ、とも言えますかね。褒め言葉ですよ」
 ミン同様に席には着かず、ノーマンの傍らに立ったままでいるタリーは、のんびりとした風情で杯を傾ける。
「あ、順調に脱落したようです。良かったですねえ、副長」
「何がいいんだ。──人を虚仮《こけ》にしやがって、あの野郎」
 ノーマンは、紫がかった黒い瞳に浮かぶ腹立ちの色を隠そうともせず、ひと息でメリア酒を呑み干す。ケーデルは微苦笑を刻むと、小さくかぶりを振った。
「そう立腹なさらずとも、多分、彼は私よりは遙かに陽性で善良な気質の持ち主ですよ。頭の回りは速くとも、それを使って人を致命的な罠に陥れるほど極悪非道にはなれない。ですから、むしろ、タリー一等近衛に近い御仁ではないかなと、私は感じます。レーナにとって惜しむらくは、タリー一等近衛の域には未だ達していないようですが」
 タリーは目をしばたいた。
「……それ、私が褒められているんでしょうか」
「ええ。タリー一等近衛は、彼よりも一層自然に、怜悧さを周囲に隠しておいでです。良い意味で。ですから、余人に無用の警戒感を惹起させない」
 ケーデルは、こちらへ戻ってくる男女──気の毒なほど息を切らしているレーナの長老候補と、息ひとつ乱していない女性武人とに、静かに視線を当てた。
「ただ、彼が我々の知る誰に似ているかを考えても、余り意味はないでしょう。彼は、彼以外の何者でもない。少なくとも私は覚えておくことにしますよ、ソフィア・レグという人物。……レーナでの長老職は、宰相や主席将軍と並ぶ、国王の相談役のひとりです。我がマーナの長老職よりも、国政に参与する度合が大きい。その地位に将来座ることを予定されている青年であれば、覚えておいて損はない」
「……改めてそう言われてみれば、並み居る導者達を差し置いて十代半ばで長老候補に指名されたとは、ケーデル一等上士官も顔負けの大抜擢ですね」
 マーナでは夙に知られていることだが、ケーデル・フェグラムは、今を去ること二年前、将来の逸材を求めて高名な軍略家ナドマ老の私塾へ自ら赴いたマーナ王ララドの眼鏡に適い、十九歳の若さでマーナへ招かれた青年なのである。
「まさに。たった九人の塾生の中から選ばれた私など足下にも及ばない大・大抜擢ですよ」
 タリーの言葉にケーデルが苦笑したところへ、噂の長老候補は戻ってきた。まだ息は荒いが、口を利ける程度には快復しているようで、照れ臭そうな笑顔を円卓の面々に向けると、軽く頭を下げて口を開いた。
「お見苦しい姿をお見せしてしまって、失礼しました……でも、マーナに名だたる武家の名門セドリック家、その本家の実質的な当主でいらっしゃるデフィラ嬢と、ひと時なりとガダリカナを踊らせていただいたことは、私の一生の自慢、思い出になります。有難うございました」
「レーナ使節の一員として来た手前、恰好悪いところは余り諸人に見せたくなかったが、私と踊ってみたいという気持ちが、それに勝《まさ》ったそうだ。……それ以外の目論見とやらは、結局、話してはもらえなかったが。踊るだけで精一杯、喋るどころではなくなったのでな」
 デフィラが微笑する。
「まあ、予想よりは、持ち堪えた方だと思う。武術の心得を持たぬ聖職者としては上出来だろう」
「子供の頃には、少しだけなら体術なども習っていたんですけど……鉄の防具を帯びることを禁じられる長老候補に任じられてからは、馬に乗るぐらいしかしてませんから、体が鈍《なま》る一方です。……ええと、そう言えば、いつの間にか人がおひと方増えてますが、もし良ければ御紹介いただけませんか」
 視線を向けられたタリー・ロファは、かすかに緑みを帯びた灰色の瞳に温和な笑みを湛えて一揖した。
「此処においでの皆様方にわざわざ御紹介いただくほどの者ではありません。マーナ近衛隊第二中隊所属、タリー・リン・ロファと申します。階級は一等近衛」
「一等近衛……そうですか、随分とお若く見えるのに、かの高名な“黒の部隊《ディーリー・ナーナ》”で一等近衛に任じられているということは、隊内でも指折りの実力をお持ちなのですね。私は、ソフィア・カデラ・レグ、レーナの長老候補です。宜しくお見知りおきください」
「……奇妙ですね、長老候補ソフィア」
 相手が戻ってきてからはずっと黙っていたケーデルが、つと、意味ありげな微笑みを浮かべて口を開く。
「貴殿にとっては、この場で新たに紹介してもらわねばならない者は、タリー一等近衛だけ[#「だけ」に傍点]、ですか」
「え?」
 ソフィア青年は怪訝な顔をし、不意の発言者を見返した。
「貴人の侍者と一見してわかるミン殿ならまだしも……貴殿に名乗った覚えもない私が、貴殿にとっては紹介してもらわずとも良い相手であるというのは、実に奇妙なことだと感じられるのですが。無論、私の存在など眼中にないというのであれば話は別です」
「ええっと……いえ、これは失礼しました、貴殿のことは既に、皆様の噂を聞いて、あれが高名なナドマ老の塾を出たというケーデル・フェグラム殿かと拝見しておりましたもので……皆様がお話しされていた通り、クード風のお召し物を身に纏っておいででしたし」
 クードとは、彼らのような“大地の民”よりも北方に住む狩猟民族が冬場に着用する、丁度、埃よけ付きコートのような形の服である。元々のクードは寒さを遮る目的の為に相当ごつい[#「ごつい」に傍点]が、ケーデル青年のクードはその形を真似て仕立てられているだけの代物であり、異民族趣味の伊達な着こなしと言って世人に通る範囲の厚さ軽さであった。
「こう申しては何ですが、他の方とは形の異なるお召し物ですから、あの御仁かと見分けることは、さして困難でもありません」
「成程。では、私がケーデル・フェグラムだとわかっていたからこそ、此処へ[#「此処へ」に傍点]ノーマン近衛副長を置き去りにして、人目を集めようと目論まれたわけですか」
「うえっ?」
 それまで基本的に動揺の色を一切見せなかったソフィア青年の顔に、ぎくっとしたような色が初めてよぎる。
「……参ったな、そこまで見抜かれていましたか。流石はナドマ老の塾で学ばれていた方だ。改めまして、大変失礼を致しました」
 ソフィア青年がそう言って一礼した時だった。
 不意に、広間で、ざわめきが波打った。
 真っ先に気付いたのは、広間の方を向いて立っていたタリー・ロファだった。ハッと居住まいを正し、軽く上官の腕を叩く。上官たるノーマン・ノーラは何事かと広間の方に目を遣ったが、半ば跳び上がるように立ち上がると、これまた居住まいを正した。ケーデル・フェグラムでさえ、一瞬遅れてざわめきの原因に気付くと、素早く席を立って姿勢を正した。気付いても一番恬淡としていたのはデフィラ・セドリックであったが、それでも体の向きを変え、近付いてきたその人物に対して非礼にならぬよう正対した。無論のこと、彼女の侍者に過ぎないミンは、最初から素早く跪き、目立たぬようにしている。
 ソフィア・レグ青年は、周囲の面々が急に示した態度にわずかに面食らったが、自分も広間の方を振り返ってみて、彼らの態度の理由を知った。
「──そのままで良い。膝を折る必要はない」
 そこには、機敏でありながら何処か悠然とした歩様でその場に歩み寄ってくる、マーナ王ララド・オーディルその人の姿があったのである。
「レーナの長老候補、ソフィア・レグと申したな。暫くそなたと話がしてみたい。良いか」
 前置きも何もなく単刀直入に申し入れられて、ソフィア青年は流石に驚いた様子であったが、それでも、傍目には、怯んだり臆したりしたようには見えなかった。動揺の色という点で見れば、先程ケーデル・フェグラムに対して見せたものの方が明らかに大きかった。
「はい、陛下がお望みとあらば」
「では来い。──ノーマン、デフィラ。宴の締めの舞踏で、デラクロア・ガダリカナを演奏させる。レーナをはじめとした他国の使節達に、そなた達のガダリカナを見せてやれ」
「──はっ」
「かしこまりました」
 命じられた二名が、右掌の手指を揃えて左肩下鎖骨辺りに当てる“武人の礼”で応じると、ララドは満足そうに頷き、「では、長老候補ソフィア」と促しつつ身を翻した。裏地に金糸が織り込まれたマイルコープ──何処《いずこ》の国でも、王位に在る者の証のひとつ──が、ふわりと踊った。
 場に残された面々は、期せずして殆ど同時に息をついた。
「……陛下も、かの青年の醸し出す非凡さにお目を留《と》められていた、ということか」
 ケーデル青年が半ば独り言のように呟く。
「それとも……」
「レーナは、マーナにとっては、いつ敵対してもおかしくない国。その国の将来の一端を担うかもしれぬ若者の為人《ひととなり》を知っておきたいと陛下がお考えになったとしても、至極当然だろう」
「レーナとは昨年、軍事拠点のノーパを一時占領されるという一件もありましたしね。まあ、その時の和睦でディープレ殿下がレーナ王に嫁がれてからは、こうして使節を迎え入れられる程度に平穏を保っていますが」
 デフィラとタリーの遣り取りに、ケーデルは更に低く独りごつ。
「……あのノーパ占領の一件は、和睦など申し出ずとも簡単に引っくり返せたのだが、今更言っても詮ないか……あの時、私に、閣議に出席出来るだけの地位と権限があればな……そろそろ、さりげなく出しゃばって主席将軍の作戦に口を挟み、強引にでも実績を作る時期が来つつあるのか……」
「何を小声でごちゃごちゃ吐《ぬ》かしてやがる。言いたいことがあるなら大声で言え、この青二才」
 ノーマンが突っ掛かったところへ、「お待たせしました」と若干り気味の声がして、暫く場を離れていたケーデルの侍者アルが戻ってきた。
 捧げ持つようにして運ばれてきた“食べ物”の大皿が卓上に置かれた、その瞬間──
 ノーマンばかりでなく、誰もが絶句した。
 その大皿の中では、赤辛子の粉で真っ赤に覆われた物体が、どろっとした濃い緑色の液体に、山盛りになるほど大量に沈められていたのである。液体のそちこちには、ぶよぶよっとした半透明の赤い物体も浮いており、その気味の悪さと来たら、半端ではなかった。
「……な、何だこれは」
「家鴨《あひる》と川魚の唐揚げでございます。臭みを消すのに赤辛子の粉を塗《まぶ》してあるとのことでございます」
「塗すなんて可愛いもんかこれがっ。地が見えんほど赤辛子ぶっ掛かってるじゃないかっ。それに何なんだ、この気味の悪い緑色の汁はっ」
「マデヒド汁《じる》でございます。赤いのは、マデヒドの目玉」
「げっ……」
 毒こそ持たぬが攻撃的なことで知られる蛇の名を耳にして、流石にノーマンも顔を引き攣らせる。
「知る人ぞ知る珍味でございますよ。料理の味には一家言をお持ちと評判の近衛副長閣下が、よもや[#「よもや」に傍点]御存じないのですか」
 平然とした表情で、美貌の侍者は宣った。
「し……知ってはいるが、あれは単独で食うもんだろうがっ。こんなに唐揚げをぶち込んで味を壊してどうするっ」
「生憎、唐揚げの給仕場が皿を切らしておりまして。腹の中で一緒になるなら同じでございましょう」
「き、貴様、美少年としてるくせに乱暴な野郎だなっ……大体、ひとりで食えるか、こんなにっ!」
「他の方が一緒に食事をなさるとは伺っておりませんでしたので、取り皿も予備の箸と匙もお持ちしておりませんが」
「……アル。その辺にしておけ」
 ケーデルが苦笑と共にたしなめる。
「お前も子供ではないのだから、余り子供じみた意地悪をするな。負《ふ》の感情を腹にためないノーマン閣下が相手だから、この程度の口争いで済んでいる。下手な相手なら、手討ちにすると息巻かれるぞ」
 手討ちにされるぞと言わないところが変に正直だな、と感じたのは、かつてリーダという小国でジャナドゥ──王と王族に仕える忍びの者──として生き、リーダがマーナに滅ぼされて後は縁あってデフィラの忠実な侍者として仕えているミン・ディアヴェナだけであった。彼は以前から、このアルと呼ばれている年幼い侍者が、ケーデル青年が“非常識にも”個人的に抱えているジャナドゥの仮姿であろう、ということに気付いている。無論、外に対しては、気付いているとは知らぬ顔をしているのだが、彼が敢えて知らぬ顔をしているものと先方の主従に悟られていることも、承知はしている。……とまれ、自分ミンよりも有能な現役ジャナドゥなのであろうこの侍者アルが、仮に「手討ちにしてくれる」といきなり抜き打ちに斬り掛けられたとしても恐らくかすり傷すら負わないであろうことは、ミンの目には明らかであった。
(……まあ、マーナ随一の剣士《リラニー》と名高いノーマン・ノーラ近衛副長ならば、かすり傷ぐらい負わせることが出来るかもしれないが……)
 傍観者のミンがそんなことを考えている間にも、ケーデル青年の“説諭”は続いている。
「お前の気持ちは察せられぬでもないが、私は、お前が心配するほどには凹んでいないし、むしろ、このような間柄であることを愉しんでいる時さえある。今日のようにな。だから、このような大人げない振舞は、以後、厳に慎め。……だが、もう運んできてしまったものは仕方ない。私の分の取り皿と、箸と匙とを持ってきてくれ」
「……えっ?」
「ゲテモノ料理は大の苦手だが、使用人の不始末の責任は私が取らねばなるまい。……何をしている。早く取りに行かないか」
「ケ、ケーデル様……か……かしこまり……ました……」
 この命令は、百の説諭よりも、侍者には応えたらしい。しおしお、という表現がぴったりなほどに打ち萎れて、侍者アルは場を離れていった。
「……ミン、済まぬが、私にも取り皿と箸と匙を」
 微苦笑と共に一連の遣り取りを見守っていたミンの主《あるじ》が、ミンに声を掛ける。
「幾ら何でも、ふたりで食するには余りにも量が多かろう。……あと、氷を入れたクァイを、大きめの水差しで貰ってきておいてくれ。多分、酒では、微妙な味などわからなくなるだろうからな」
「あのう、もし便乗して良ければ、私にも」
 タリーが控えめに手を挙げる。デフィラが軽く首肯したのを見て、ミンは「かしこまりました、直ちに」と一礼し、場を離れた。
「……私の監督不行き届きで閣下に御不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」
 改めて神妙に頭を下げるケーデルの謝罪に、とんでもない嫌がらせを受けた当のノーマン・ノーラは、ふん[#「ふん」に傍点]と鼻を鳴らして足を組んだ。その様子を見る限り、奇妙なことに彼は、それほど不機嫌というわけでもないようであった。
「悪意を腹の中に押し込めて作り笑顔で流す奴より、ああやって刺《とげ》だらけの嫌みをぽんぽん投げ付けてくる奴の方が、余程可愛げがあって気分がいい」
「閣下がそのようにお感じになる方だとは、承知しています。……ですが、あの者の主《あるじ》としては、だからと言って許すわけにも参りません」
「ああ、もういい。あんな餓鬼に虚仮《こけ》にされるのも癪だ、意地でも食ってやる。……ふふーん、こんだけ赤辛子が塗ったくってあったら、さぞかし体が温まるだろうさ。真冬だし、丁度いいってなもんだ」
「ですが副長、腹八分目以下にしておかないと、後でガダリカナが踊れなくなりますよ」
 タリーがさりげなく釘を刺す。
「私も手伝いますから、変な意地は張らないでくださいね。……それにしても、レーナの長老候補殿は、こんな愉快な騒動を御覧になれなくて、さぞ残念でしょうねぇ。私と似ているのではというケーデル一等上士官の見立てが正しければ、このような面白い騒動は大好物ではないかと推察するんですが」
「ど……何処が愉快で面白い騒動だ、何処がっ!」
 やがて、広間の片隅にあるその円卓では、戻ってきた侍者達も銘々に取り皿と箸とを手にして座に加わり──
 しばしの間、仲好く食卓を囲むなど思いもよらぬ顔合わせの面々が、口にする物の余りの辛さに顔を真っ赤にしながらひたすら食べ続けるという、滅多と見られぬ珍妙な食事風景が繰り広げられ、宴に出席していたマーナの諸人の注目を集める結果となったのであった。

 一方──
 マーナ王ララド・オーディルは、玉座よりも一段下に急遽えさせた席に腰を据え、酒杯片手に、レーナの若き長老候補ソフィア・レグと向かい合っていた。
「そなた、他国に使節として立ったは初めてか」
「はい。初めてで何かと不調法もあるかとは存じますが、節度さえきちんと守っていれば良いから、折角の機会、他国の方々と好きに話をして交流を深めてきなさいと、使節団長たる外務参事官ホルデン・クナルメス殿からお許しが出ておりましたので」
「確かに、なかなか好き放題にしておったな。しかも、あのデフィラ・セドリックと途中までとは言えガダリカナを踊るとは、大胆なことをしてくれたものだ。デフィラが誘いを諾ったことも軽い驚きだったが、一歩間違えば大恥をかくと承知の上で、声を掛けたのか?」
「御覧になっていらっしゃったのですか」
 ソフィア青年は、照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「確かに、レーナの使節があんな真似を……と物笑いの種になるのは避けたかったので、なるべく目立たずに済むよう、ちょっとした策は講じたつもりだったんですが……ただ、私は幸いにもまだ十代なので、多少無様な真似をしても、若いのだから仕方ないなと大目に見てもらえます。それを利用しない手はないですから」
 ララドは訝しげに目を細めた。妙に聞き覚えのある言い回しだ、と感じたのだ。全く同じではないが、何処かで、似たようなことを、この青年から言われたことがあるような気がするのだが……
「……そなた、マーナに来たのは初めてか」
「いえ、そちらは初めてではございません」
 にこやかに、ソフィア青年は、かぶりを振る。
「私の父は外務府に所属しておりますので、使節として他国に派遣されたことも何度かございます。その父に連れられて、十一年前でしたか、マーナへ参ったことがございます」
「十一年前……随分と子供の頃ではないか」
「はい、七歳の春、確か、五の月だったと記憶しています。何しろ当時は、私が将来このような立場に置かれるとは誰ひとり予想だにしていませんでしたので、父が使節として外へ出る機会さえあれば、一緒に連れていかれました。親も当然の如く私が先々外務府に入るものと考えていたらしく、子供の内から見聞を広めておけという方針で」
 ララドは、考え込んだ。この青年に何処かで会ったことがあるという気がしてならないのに思い出せないのは、相手がその時に、今の姿とは掛け離れた子供であったから、なのだろうか。レーナ使節に随行してきたということは、この王城で会ったのだろうが、記憶にない……
(──いや、待て)
(十一年前の春と言えば、まだ──)
 そうだ。十一年前の自分は二十六歳、まだ王太子であった。父王も壮健で、それを良いことに、折々に王城を抜け出しては、身分を隠して都デラビダの下町を闊歩していた。おかげで周囲は、「何という不良王子か、他に太子となり得る男児がいないとはいえ……」と嘆き、頭を抱えていたものだ。
(十一年前……チャベラ十八年……仲春、五の月……レーナ使節……)
 レーナから何やら使節が来ていたことは、流石にかすかに記憶にある。が、その時に催された宴には、不例と称して参加しなかった筈だ。実際には無論仮病で、下町に繰り出していたのではないか……
 とん、と額の略冠に指をぶつけたララドは、不意に、その下に隠れている傷痕のことを思い出した。
 いつもは、略冠である銀の飾り輪──これまた、古来、王位に在る者にのみ許されている装身具──に隠されてしまっている。だが、彼にとっては、数少ない不覚によって付けられた傷の痕である。もしそれが城内で負った傷であって、“治癒”の力《オーヴァ》を持つ薬師《くすし》が直ちに手当をしていれば、傷痕は残らなかったであろう。ところが、生憎それは、下町へお忍びで出ていた時の傷だったものだから、城へ戻るまでは適切な手当を受けられず、為に、痕が残ることになってしまったのである。
 勿論、今となってはわずかな変色が残るのみで、傍から見ても大した傷痕ではない。……ないのだが……
 ララドは、目の前の青年の顔を、何かをその向こうに透かし見ようとするかのように目を細めて見据え、そして、ゆっくりと口を開いた。
「……僕はまだ子供なんで、多少無茶苦茶な真似をしても、子供だから仕方ないなと大目に見てもらえます。それを利用しない手はないですから」
 不意にマーナ王が呟いた言葉に、ソフィアは目を円くした。
「あれ……何だか、さっきの私の発言に似ています、それ」
「似ておるな」
 マーナ王は低く応じた。
「だが、これは、このデラビダの下町で会った何処ぞの生意気な子供から言われたことがある台詞なのだ。……十一年前にな」
「十一年前に、陛下が……下町で?」
 ソフィアは無躾にも、まじまじと相手の顔を見てしまった。
 相手は、銀の額輪を無言で外し、やや長めになっている褐色の髪を手で後ろに束ねる。
 ソフィアは──そこに現われたかすかな傷痕と、露わにされた顔の輪郭とを見て、一度だけまばたいた。
「……まさか、あの時の、喧嘩の強いお兄さん?」
「……まさか、あの時に、わしの額を思い切り蹴飛ばしおった、生意気な子供か?」
「え、えーっと、あれはその、別に蹴飛ばそうと思ったわけではなく、人攫いから逃げようとじたばた[#「じたばた」に傍点]してたら偶然に当たっただけで」
 ソフィアは動揺から来た姿勢の崩れを素早く立て直し、ぺこりと頭を下げた。
「その節は、申し訳ありませんでした。まさか、陛下に助けていただいていたとは夢にも思わず。……はぁ、何だか今日は、さっきから謝ってばかりです」
「必要が生じれば適切に謝罪するのも、国を代表して他国へ使いする者の大事な役目の内だ。……そうか、あの時の生意気な子供が、そなたであったか」
 ララドはニヤリと笑い、額冠を嵌め戻した。
「他人《ひと》のことは言えぬが、何ゆえ、使節に随行していた身で下町などに出ておった」
「あの、随行という大袈裟な立場ではなくて、おまけ扱いです。それこそ、胴名《どうな》も持たぬ子供ですから」
 胴名とは、十歳の誕生日に付けられる名前である。ソフィア・カデラ・レグの場合、“カデラ”がそれに当たる。ミディアミルドでは、この胴名が付くまでは、結婚も出来ない子供と見做されるのである。
「で、あの時は、デラビダの町に入った折に、物凄く美味しそうな匂いを馬車の中から嗅ぎまして、それで、宿所に落ち着いた後、拝謁の為の登城の支度などで忙しい皆の目を盗んで、こっそりと抜け出したんです。何しろ小さな子供でしたから、抜け出しても見咎められにくかったようです。……まあ、その時の宿所が、客人の為の西の離れが大改装中とのことで使えずに、町中に置かれていたから出来たんだろうなと、今では思います。警備の厳重な城から見咎められずに抜け出すなんて、まず無理ですから」
 現在のミディアミルドでは、他国からの使節など、王城を短期滞在の予定で訪れた客分の者は、王城の敷地内に建つ西の離れに宿泊するのが、何処の国でも通例である。
「着ているドージョの飾りは全部取って、いいところの子供だとわからないようにして……なんて子供なりに色々考えて外へ出たんですが、今考えれば、本当に浅はかでした。幾ら飾りがなくたって、見る者が見れば、下町に住む庶民が着るような布地のドージョではない。いいところの子供に違いない、身代金が取れるか、それとも他国に売り払えるか、と人攫い達が目を付けたのは当たり前ですよね」
 ソフィアは苦笑した。夕闇る下町へ出て、お目当ての匂いをさせていた店を探している内に、親切めかした若者ふたりに人気のない路地裏に連れ込まれ、危うくそのまま拉致されそうになった。そこを助けてくれたのが、たまたま通りすがった“喧嘩の強いお兄さん”だったのだ。……ただ、乱闘の最中、人攫いの手から逃げ出そうとしたソフィアの蹴りが間違ってその助けてくれた“お兄さん”の額に入り、なまじ質のいい底を持つ靴だったばっかりに流血沙汰となったのは、不幸な事故ではあったが……。
「……人を疑うことを知らなそうな見目佳《みめよ》い子供が、他国りの強い、如何にも怪しげな大人ふたりと細い路地へ向かったのを見たから、これは危ないと後から入っていったまでのこと。……マーナの民が目の前で不埒者に踏みにじられようとしている、助けられるものなら助けてやりたいと、腐ってもマーナの王太子、つい義憤に駆られたものでな。……ただ、今更わかっても仕方ないが、助けてみればマーナの者ではなかったとはな」
「しかも暴れ回って額は蹴飛ばすわ、助けられたくせに変に生意気なことを言うわ……ですか」
 ソフィアは若干恐縮したように首をすくめた。
「ですが、陛下こそ、単身で下町を歩かれるとは、王太子としては余り褒められないお振舞ではなかったかと」
「確かにな。だが、本当に我が身に危機が及ぶ事態と見れば、恐らく、何処かで見張っていたジャナドゥ達が手を出したことだろう。我が父は、我が不品行は或る程度まで黙許しても、きっちり監視は付けておったようだからな。まあ、そうだろうと半ば承知していたからこそ、色々と無茶も出来たのだ。幸い、ジャナドゥ達が割り込むような事態になることは、一度もなかったが」
 ララドは少しの間、遠いものを見るような目を見せた。
「……だが、あの子供が、今はこの青年か。まだまだ若いつもりでいるが、いつの間にか年を取る筈だ」
「恐れ入ります」
 ソフィアは軽く頭を下げた。
「あの時は結局、あの後暫く一緒に回っていただいたのに、お目当ての店を見付けられず仕舞でした。折角思い出したので、あの時の匂いを求めて、明日にでも下町に足を向けてみようと思います」
「ほう」
 ララドは、何を思い付いたか、ニヤリと笑みを浮かべた。
「……面白い。あの日の続きか。わしも同行しよう。無論、お忍びでな」

 翌日──
 朝の練兵を終え、水浴びと着替えを済ませたタリー・リン・ロファは、近衛府の厩に自分の乗り馬を引き取りに来たところで、近衛副長であるノーマン・ティルムズ・ノーラから呼び止められた。
「おい、タリー。ナカラ隊長がお呼びだったぞ」
「隊長が? ……何だろう。何か聞いていらっしゃいますか」
「いや。単に、呼んでいると伝えてくれってな感じだった」
「そうですか……済みません副長、でしたら今日は、先に帰っていただけますか」
「おう。じゃ、また明日な」
 特に訝ることもなく、ノーマンは手を挙げて去る。
 残されたタリーは、小首をかしげて考え込んだ。如何に一等近衛とは言え、何の役にも就いていない自分が、何故、隊長から名指しで呼び出されるのか……色々考えてみるが、答の手掛かりが見付からない。
(……特に妙な失敗もしていない筈だし)
 ままよ、とかぶりを振り、近衛隊長の執務室へ向けて歩き出す。
「おお、タリー一等近衛。呼び立てして済まなかったな」
 ひとたび戦場へ出た時の勇猛果敢さから“猛将”と渾名《あだな》されるものの、部下達に対しては必要以上の厳しさを向けることのないナカラ・ソニ・マーラル近衛隊長は、“温和な紳士”とも評されている童顔の一等近衛兵が姿を見せると、執務机から離れて歩み寄ってきた。
「いや、急な話だが、陛下が、貴官をお召しだ」
「──陛下が!?」
「今すぐ私室の方へ参上するように、との御下命であった。なお、参上した先で見聞きすることは他言無用とのこと。無論、近衛隊長たる私に対しても、とのことだ」
 全く予期していなかった展開に、さしものタリーも茫然となった。
「何故私などを陛下が……特段の役に就いているわけでもございませんのに……」
「……タリー。貴官は、仮にも一等近衛だぞ。このマーナで、一等近衛と呼ばれることを許されている人間が、一体どれだけいると思っておるのだ。他国ではいさ[#「いさ」に傍点]知らず、マーナ近衛隊で一等近衛に任じられるのは、掛値なし、隊内でも水準より遙かに腕の立つ者だけだ」
 ナカラが苦笑混じりにたしなめる。この頃マーナで一等近衛に任じられていたのは、第一から第七までの各中隊の長を含めて十七名。過去に目を向けても、約七百名で編成される近衛隊全体の中で二十名を超えたことは一度もない。マーナ近衛隊に於いて、一等近衛兵への道は、それほど“狭き門”なのである。
「貴官はどうも、自分の力を過小評価して卑下する癖があるが、余りに度が過ぎると却って嫌みになるぞ」
「……はい」
「それに大体、貴官が役に就いておらんのは、以前にノーマンが自分の後任の第二中隊長に推挙しようとしたのを固辞したからだと、ノーマンから聞いておる。その任に足ると前任者が認めているということは、役に就けるだけの力量があるということだと、私は考えておる。……が、まあ、今はその話はよそう。陛下をお待たせしてはならぬ。陛下の私室への道は承知しておるな」
 急き立てられるようにして近衛隊長の執務室を退出すると、タリーは、主君の私室へ急いだ。無論、今迄一度たりとも足を踏み入れたことなどない場所であるが、火急の際には直ちに駆け付けられるよう、一等近衛兵であれば誰しも、王族の私室への道順は教え込まれているものである。迷うことはなかった。
「──タリー・リン・ロファ、お召しにより参上りました」
 取り次がれて入室したタリーは直ちに片膝を折り、王族に対する正式な武人の礼を行なった。
「待っておったぞ、タリー・ロファ。面《おもて》を上げよ」
 主君ララド・ゾーン・オーディルの声に改めて顔を上げたタリーは、肘掛け付きの椅子に座す主君の姿と、何故かその近くで客人用の椅子に腰掛けているレーナの若き長老候補とを見て、目をしばたいた。……何処からどう見ても、彼らの着ている物は、ちょっと小綺麗ではあったが、町中に住む庶民の服装であったのだ。
「──そなたこれから、我々の護衛として付いてまいれ」
「ええっ!?」
 いきなりの下命に、タリーは危うく引っくり返りそうになった。
「わ、私《わたくし》がで……ございますか? 私《わたくし》きで宜しいのでございますか?」
「そなたは、昨日の宴席で、このレーナの長老候補と面識が出来ておろう。面識という点で言えばノーマンやデフィラもそなたと同様だが、あれらは、腕は立つものの、どうにも目立つ。これから出掛ける先では、護衛は欲しいが、目立っては困るのだ。そなたは万事に控えめで、無駄に突出したところがなく、それでいて腕の程は確かと、ナカラから聞いておる。──のみならず、わし自身も、リーダの陰謀の一件以来、そなたの名は心に留《と》めておるぞ。それに、ノーマンと交誼を結んでおるなら、下町歩きもそれなりにしておろう。それが、そなたを指名した理由だ」
 そこまで明瞭に説明されては、タリーも、自分が選ばれた理由を納得せざるを得なかった。
 ちなみに、主君が口にした「リーダの陰謀の一件」とは、タリーが未だ三等近衛であった七年前、マーナ暦バクラ四年に遭遇した、小国リーダによるマーナ乗っ取りの企みのことである。陰謀を破るきっかけをもたらしたのはデフィラ・セドリックであったが、彼もその時、当時二等近衛であったノーマンと共に、その彼女を助ける役割を果たしていた。多くの者から「万事に控えめ」と見られていた彼が、あの時ばかりは、控えめどころか、国王・宰相・近衛隊長の三者を揃えての拝謁を今夜デフィラとノーマンの二名に賜りたい、マーナの存亡を左右する一件となるおそれが強いからと当時の近衛隊長カーモン・セロ・セリズに対し己《おの》が階級も顧みぬ直談判に及び、いたく驚かれたものである。
「着替は、控えの間に用意させておる。直ちに支度をせよ」
「はい……かしこまりました、陛下」
 タリーは神妙な顔で一揖した。どの道、近衛兵である彼には、主君が望めばその意向に従うことしか許されていないのである。
 そんな次第で──
 お忍びの貴人二名に護衛の近衛兵ひとりという組み合わせの三名は、デラビダの昼前の賑わいの中へと繰り出したのであった。

 デラビダの目抜き通りであるゾラド通りを、下町方面へと下る。
 通りの両脇には、いつも以上に、屋台が軒を連ねていた。最初の夫に先立たれて独り身となっていた第一王女のルディーナが此度めでたくトスタール地方──その昔、リーダと呼ばれていた国のあった地方──の領主と再婚した、それを祝う、という名目を掲げての店出しが多い。
「ルディーナ殿下は、デラビダの都人《みやこびと》に敬愛されていらっしゃいますからね」
 最初の夫であったタマカンド領主との間では子宝に恵まれず、口さがない都人からは“石女《うまずめ》”と言われてはいたが、機知に富んだ才媛であるとの評判が高く、容姿も悪くなく、何より、年頭恒例の無礼講の宴に訪れる庶民達と言葉を交わすことを全く厭わない気さくな性格であることから、都デラビダの庶民達には概ね愛されている──というのが、タリー・ロファの説明であった。
「王族に限らず、王侯貴族が庶民に接する時って、匙加減が難しいんですよね」
 ソフィア・レグは真顔で呟いた。
「下手にその身分に応じた態度を取れば、気取っていると反発される。でも、身分を問うことなく対等に扱おうとすると、威厳がないと馬鹿にされる。ただ、それも、極端に言えば、相手によって匙加減が変わるものなんですけど……そんな風に、接することの出来る機会を無礼講の宴の席だけに限定してしまうというのは、有効かもしれませんね」
「何を小難しい話をしておる。上つ方のことなど、上つ方に任せておくがいい」
 一歩先を歩く縁なし帽のララド・オーディルが、振り返って苦笑いする。それは庶民のする会話ではないぞ、ということが言いたいらしい。
「それより、昼飯を摂る店の算段をせねばなるまい」
「そうでした。……でも、お昼時って、色んな店の色んな匂いが入り混じって、何が何だかわからなくなっちゃうなぁ……今日は屋台も沢山出てるし……」
 ソフィアは、多少困惑したような表情で嘆息した。
「よく考えたら、あの時は確か夕方だったから、夕食時《ゆうしょくどき》の仕込みの匂いだったのかなぁ」
「匂いだけを頼りにしていては、お目当ての店は見付からないと思うんですが」
 武人の軽装に身を包んでいるタリーが小首を傾《かた》げる。このような“お忍び”が敢行されることになった理由は、タリーのような第三者からすれば呆れ返るような事情である筈だが、ソフィアの見る限りでは、至極く付き合ってくれているようであった。
「他国の使節が馬車で通る時に見た……ということであれば、他国の使節を迎え入れる町の東門から王城へと続くゾラド通りから離れることはない筈です。店の外観を覚えていませんか」
「うーん……看板は上がってたんですよね」
 ソフィアは唸った。
「ただ、字までは読み取れなくて。薄暮の頃でしたから。文字自体が書かれていたかどうかも、記憶が曖昧です」
「看板の形に覚えはありますか」
 タリーが更に問を重ねたその時、うわっという喚声が行く手で上がった。「やれやれー!」とけしかけるような大声も聞こえてくる。
「──喧嘩か?」
 足を止めたララドが呟く。喚声の起こった方へと野次馬が急速に集《たか》り始めているのが見えた。
「流石は武の都、デラビダは活気がありますねえ。走っていく人が、何だかみんな楽しそうですよ」
 邪気なく応じたソフィアは、不用心なほどの足取りで騒ぎの方へと歩き出した。思わず制止しようとしたタリーを、ララドが止める。
「折角このような場に来ておるのだ。騒動に巻き込まれん程度に好きにさせてやるが良かろう。護衛のそなたには酷な話だがな」
「……ということは、先生も向かわれると」
 タリーは小さな苦笑いを浮かべると、当然とばかりに頷いてソフィア青年の後を追うララドの後ろに従った。「先生」とは無論、「陛下」とは呼び掛けられないが為に代わりに使っている言葉であった。
 ひと足先に騒ぎの輪に辿り着いたソフィアが、野次馬達の間にするりと潜り込む。続いて、ララドとタリーも。……騒ぎの中心となっていたのは、どうやら、昼間から酒の入っている兵士達であるらしい。デラビダでは珍しいことではないとも言えたが、野次馬が集《たか》るだけの見物《みもの》となっていた理由は、すぐにわかった。肩掛け布《コープ》から察するに武人らしいが丸腰の青年ひとりと、こちらはタリー同様に武官の軽装を身に纏っている──つまり腰に短剣《アラリラン》を帯びている──兵士三人とがやり合っていて、しかも青年の方がどう見ても有利に戦いを進めていたのである。
 ……否、よく見ると、立っているのは三人だが、既に石畳に蹲って呻いている兵士も四人いる。ということは、最初は一対七であったらしい。
「……正規隊の兵か?」
「そのようですね。あのアラリランの拵えは官給品のものです」
 主従が小声で囁き交わした時、遂に兵士達がアラリランを抜いた。
「丸腰の相手に……」
 ララドが眉をひそめる。まともな武人であれば、自分が不利に陥ったとしても丸腰の相手に対して安易に武器を振りかざしたりはしないものである。してみるとこの決して若くはない七名は、正規隊の中でも、徴兵で集められて調練の為に都の宿舎に入れられている、兵役中の兵卒達であろうか。
「……大体、兵卒には日常の武器携行は認めておらんぞ」
「ええ、彼らがもしも準士官未満の兵卒であれば、無断持ち出しということになります。それだけでも処罰の対象ですが……」
「わ、飛び込んだ──うわっ、お見事」
 ララド達と異なり、マーナの兵士に対するしがらみ[#「しがらみ」に傍点]のないソフィアは、目の前の戦いに少々興奮していた。刃物を向けられた丸腰の青年の方が、逆に電光石火の素早さで一番近くの相手の足許に飛び込み、その足を払ってのけたのである。前のめりに体を泳がせた兵士は、体勢を立て直す暇《いとま》もなく転んでしまい、手にしていたアラリランでその拍子に運悪く何処かを傷付けたらしく、短い悲鳴をあげた。
「持ち慣れてもいない武器を振り回すのはよせよと言っといただろ、正規隊の皆さんよ。喧嘩を売るなら、相手を見てからにするんだな」
 青年が嘲笑混じりに言い放つ。張りのある低過ぎない声が、耳に残る。
「まだやるのか? それとも、難癖つけて御免なさいと素直に謝って退散するのか?」
「黙れ、卑しい傭兵の分際でっ!」
「昼間っから何の寝言を言ってるんだか。貴様ら、俺が傭兵だったことに感謝したっていいくらいだぞ」
 海の底から掬い上げたような濃青色《コバルトブルー》の短髪が印象的な青年傭兵は、深みの強い青い瞳を不敵な彩りで満たした。上背はなく、まだ十五、六ではなかろうかというほどの若々しい顔立ちでもあったが、タリーやララドのような武の心得のある者の目から見て、その立ち姿には、老練の武人と比しても全く遜色ないほど、隙というものが存在しなかった。
「知らんのか? 傭兵隊に所属する俺達傭兵はな、正規隊の将兵と私闘に及んで相手の命を取ったら、死罪になっちまうんだ。だから俺は、貴様らの命は取らん。戦場に出れば幾らでも稼げる力量を持ってる俺の命と、丸腰の相手ひとりに手こずった挙句に伸されるような貴様ら腰抜け共の命とを引き替えにするのは、どう考えても馬鹿馬鹿しいだろ。……そろそろ、力量差を悟って尻尾巻いとけよ」
「ほざけ!」
 酒が入っているせいで危機感が薄らいでいるのか、残る二名は青年の警告を無視する形で突っ込んだ。
「馬鹿が」
 吐き捨てるように呟きつつ、青年は第一の相手の刃《やいば》を躱《かわ》す。そこへ、第二の相手の刃が突き出された。周囲の野次馬から悲鳴に似た喚声が一瞬上がったが、青年は素早く身を沈めていた。と見る間に相手は派手に転倒して、先程の仲間同様に苦痛の悲鳴をあげた。
「……凄いなぁ。マーナの傭兵は強いとは聞いてたけど」
 ソフィアは感心したように嘆息した。
「強いというか……それ以上に喧嘩慣れしてますね、彼は。今のも、軽い肘打ちで相手の出足を挫いただけです」
 タリーが応じる。
「足払い、肘打ち、自分からは仕掛けずに、相手の力を利用する立ち回り……致命的な怪我はさせまいと、一応の配慮はしているようですよ。……不謹慎な感想ですが、ウチの副長が相手なら、いい勝負になるかも」
 彼らが小声の会話を交わしている間にも、残るひとりが滅茶苦茶にアラリランを振り回して青年に斬り掛かっている。青年は若干面倒臭そうな表情を浮かべた。最後に残った相手は他の六人より多少は腕に自信があるのか、他の者が倒されても自分は引っ込まないぞとムキになっているのが、傍目にもよくわかった。
 さて青年傭兵はどうあしらうか、と興味津々で見ていたソフィアは、自分の向かいに当たる位置で先に転倒させられた兵士が呻きながら身を起こし、手にしていたアラリランを持ち上げたのを目にして、思わず声を上げた。
「──危ない!」
 投じられたアラリランは、声に反応してか咄嗟に飛び退《の》いた青年には当たらなかった。
 だが、本来当たるべき相手に当たらなかったそのアラリランは、勢い余ってソフィアの方へと飛んできた。
 野次馬達の悲鳴は、次の瞬間、驚きのどよめきに変じた。飛んできたアラリランは、素早く割り込んだ別のアラリランに遮られ、人のいない場所へ叩き落とされていたのである。
 飛来したアラリランを迅速に叩き落としてのけたタリーは、すぐに自分のアラリランを鞘に収め、一歩退いた。喧嘩騒ぎそのものに介入する気は、さらさらなかった。
 青年傭兵が、ちらっと彼らの方を見る。興味を抱《いだ》いたような色がその表情によぎったが、当座、目の前の喧嘩相手を優先することにしたらしい。今迄の動きが子供あしらいであったことを示すかのような勢いで、相手がアラリランを振り下ろしてくる手首をつかみざま背後に回り、嫌と言うほど腕をねじ上げる。不吉な音がして、相手が白目を剥いた。
「あーあ、肩、外されちゃいましたねえ……」
 タリーが苦笑する。それを聞いて、ソフィアは不安げに声を潜めた。
「肩を外すって……それじゃ大怪我ですよ、あの傭兵、罰を受けたりしないですか」
「いえ、人通りの多い街路で武器を振り回す方が明らかに悪いです。この程度なら、あの傭兵は全くお咎めなしでしょうよ。……町中で武器を振り回すだに物騒なのに、まして投げるとは。関係のない民間人に当たったらどうするんだか。武器を使うなら、少しは考えて立ち回ってほしいものです」
「……そうだな」
 ララドも苦い笑みを見せる。
「あの正規兵ども……本来なら武器の持ち出しも含めて厳罰だが、報告する者がいなければ上には伝わらぬからな」
「まあ、あれだけこてんぱん[#「こてんぱん」に傍点]にされれば、少しは懲りたでしょう。私見ですが、報告が上がってこない限り、処罰の追い打ちは要らないと思います」
 これらの遣り取りは全て小声で為されたので、素手のひとりが武器を携帯した七人を片付けたという結果に興奮する周囲の野次馬の耳には入らなかった。
「……あの傭兵、こちらを見ています。長居をすると、要らぬ詮索をされそうだ。退散しましょう」
「僕、ちょっとだけ話してみたいんですけど」
 異国の長老候補のお気楽な呟きに、タリーはかぶりを振った。
「皆の注目を集めている最中《さなか》の相手に話し掛けられたら、こちらまで注目を浴びます。若先生はともかく、先生は色んな人から顔を知られています。気付く者がいたら大変です」
「そっか、そうだよね。残念だな」
 小さな嘆息を洩らして肩をすくめたソフィアは、潔く自分から騒ぎに背を向けた。
 だが──
「……付けられていますね」
 幾らも行かない内に、タリーが呟いた。
「しかも、わざと気付かれるように、堂々と。……相手が傭兵だけに、このまま接してしまうと、先生の正体に気付かれる可能性が高いです。少々危険ですが、一旦別れる形を採りましょう。私の馴染みの店に、御案内します。その店の女将《おかみ》なら、口は堅い。仮に先生の正体に気付いたとしても、気付かない振りをしてくれる筈です。……多分、相手が関心を持ったのは、腕の程を垣間見せた私の方だと考えますので」
「そなたの身に心配はないか」
「御案じなく、先生。いざという時には力の限りを尽くして逃げますので」
 にっこり笑って、彼は、道を変えた。ゾラド通りから通りを一本外れ、更に少しばかり奥まった路地に入り、そこから別の通りへと出る。大通りに比べて不揃いではあるが一応石畳が敷かれているということは、経済的に恵まれているとは言い難いものの日々の糧《かて》に困窮しているというわけでもない、庶民の中でも中間どころの住人が多い地区であろう。
 程なく、一軒の小料理屋の前で、タリーは足を止めた。木製の扉は内側に開かれていて、中からは昼時の賑わいと美味しそうな料理の香りとが漂ってくる。扉の上には、石組みの壁から突き出すように、三日月の形を象った看板が出されていた。
「……あのぅ、そう言えば、こんな感じの看板だったような」
 ソフィアが呟く。
「でも、此処は、他国の使節が通るような通りではないんですよね?」
「通常はな」
 ララドは頷きながら、店の中を覗き込んで「済みません、姐《ねえ》さん」と声を掛けているタリーを見遣った。
「お呼び立てして済みません、ドリー姐さん。急で申し訳ないんですけど、私の連れふたりを暫く預かっていただけませんか、勿論、昼食付きで」
「妙な頼み方だね、タリー坊や。訳ありのお連れさんかい」
 店の入口に姿を見せたのは、四十代の初めか、行っていても半ばであろうと思しき、鮮やかな赤毛の女性であった。彼女は、タリーの後ろにいたふたりを一瞥し、タリーに目を戻すと、茶目っ気と生気の溢れる翠玉色《エメラルド》の瞳をくるめかせて笑った。
「ま、滅多に頼み事をしないタリー坊やが頼むんだから、掛値なしに大事なお連れさんなんだろうね。いいよ。坊やが迎えに来るまで預からせていただくよ」
「宜しくお願いします。それじゃ私はひとまず。──どうぞ、先生。また後程お迎えに参ります」
 ララドとソフィアを店内に送り込んだタリーは、軽く一礼してから、店の前を離れた。
「……さて、と」
 自分が昼食を摂る店を探しているといった風情で、ふらりふらりと歩き始める。幸いなことに、例の傭兵の関心は予想通りタリーの上にあったらしく、相変わらず適当な間隔を保って付いてくる。
「……こちらから、きっかけを作ってみる、か」
 小声で独りごつと、タリーは、手近な焼き饅頭《まんじゅう》の屋台に寄った。挽肉《ひきにく》りのものと菜漬け入りのもの、そして玉蜀黍《とうもろこし》の粒入りのものを選ぶ。昼食としては正直なところ物足りない代物ではあったが、傍らに椅子と円卓を幾つか並べてくれている点で、人目の多い屋外で食べたいという彼の要求に応え得る屋台だったのである。
「お茶も下さいね。温かい方で。……はい、お代は此処に」
 丁度いていた円卓の、通りを見渡せる椅子を選んで腰を下ろす。お茶をひと口り、ほっと息をつく。
 買ったばかりの焼き饅頭の中から、まず菜漬け入りのものを選んでぱくりとやったところで、影が差した。
「美味いか、それ」
 タリーは目を上げ、思った通りの相手をそこに見出すと、「なかなか、いけますよ」と、行儀悪くも咀嚼しながら応じた。
「まだ、一種類目だけ、ですけどね」
「じゃあ試してみるさ」
 青い髪の青年傭兵は、軽く笑みを浮かべると、屋台の店先へ足を転じた。
 タリーは、またひと口お茶を啜ると、手中にあった焼き饅頭の残りを口の中へ押し込んだ。ふたつ目をどちらにしようかと迷い、ふたつ共を半分に割って見比べていると、青年傭兵が戻ってきた。
「相席させてもらうが、いいか」
「どうぞ」
 タリーは穏やかに返すと、結局先に、玉蜀黍の粒が餡《あん》になっている半割りを手に取った。
「……何で、両方とも割ってるんだ?」
「どちらが後口としていいかと迷ったんで、半分ずつ食べてみることにしたんですよ。両方食べ比べてみて、より後口が良さそうだと思った方を、最後に頂きます」
「変な奴」
 青年傭兵は小さく笑うと、自分が買ってきた焼き饅頭にかぶりついた。
「思い切ってどっちかを選んで食って、それで駄目だったら、失敗したな、で済ませた方が早いじゃないか。思い切りが悪い奴とか言われないか?」
「親しい先輩からは、確かに時々言われますね。『お前は、選択肢がふたつ以上あったら、取り敢えず全部を覗いてみてから決めようとする、さっさと思い切れ』って。……ところで、訊いてもいいですか」
「何を」
「確かに、さっき、目が合ったなあとは思っていましたけれど、此処まで付いてくるほどに関心を持たれたとは意外です。どうして付いてきたんです?」
「撒こうとするかな、と思ったんだ」
 青年は、ふたつ目の焼き饅頭を頬張りながら答えた。
「あの若い奴の護衛って感じで、しかも並じゃない、凄腕の武官だと見たからな。あの一瞬にあれだけ的確な捌きが出来るのは、突発的な危険に対処出来るよう日頃から厳しく鍛えてる奴だけだ。それだけの腕の奴が付いてるってことは、あの若い奴を含めて、かなり偉い奴のお忍びなんだろう。だから、付けられたら拙いと見て撒こうとするかな、と悪戯っ気を起こしたんだが……あんたは逃げなかったな」
「撒ける気がしませんでしたから」
 タリーは今度は挽肉入りの半割りを手に取った。
「あの喧嘩騒ぎを見ただけで、君が相当な腕の持ち主だとはわかります。出来れば戦場で敵に回したくないと思いましたね」
「おいおい、あんた、マーナの人間だろ? 俺はマーナの傭兵だぞ」
 半ば呆れたような青年傭兵の台詞に、タリーは苦笑で応じた。
「傭兵は、正当な[#「正当な」に傍点]報酬に命を懸ける。国や王族への忠誠心で動くわけではない。それは、君達傭兵にとっては誇りでさえある筈です。……でも、ということは、傭兵である君は、いつかマーナの敵に回る可能性が皆無というわけではないなと、私には思えるんですよ。考え過ぎと言われれば否定はしませんけど」
「……変な奴」
 青年傭兵は、毒気を抜かれたような表情を見せた。
「正規隊の奴らは大抵、金目当てに戦う卑しい奴だと俺達を軽蔑してるのに」
「私は正規隊の人間ではありませんから、正規隊に対して何ら弁護すべき立場を持ちません。金を貰わない兵士だからその戦いは貴くて崇高だなんて断言されたら、そっちの方が妙な理屈だなと、私は感じます。……あと、正規隊の皆が皆、傭兵を蔑視しているわけではありません。そこのところ、逆に先入観で見ないでほしいと思いますよ。……って、嫌ですね、何だか説教じみてきて。そんな年寄りでもないんですが」
 タリーは肩をすくめた。青年傭兵が、三つ目の焼き饅頭をひと口かじった後で、小首をかしげる。
「……あんた、幾つだ?」
「私ですか。二十六ですよ。あと数か月で、二十七になります」
「げっ? 俺より十も年上だったのか?」
 切れ長の目を見開いて、青年は軽く呻いた。
「二十そこそこか、行ってても二十二、三かと思ってた」
「童顔だと言われますから。貫禄がないってことなんだろうな、と。まあ、もう少し年を取れば、年の割に若々しいと言ってもらえるようになるのかもしれません。……私の方こそ驚きですよ。十六で、あれだけの身のこなしとは。しかも、あの程度の兵卒達を相手に、本気で立ち回っていたわけではないのでしょう。まったく、末恐ろしい武人ですね」
「……あんたと手合わせしてみたいな」
「ええっ、冗談でしょう。私はまだ死にたくありませんよ」
 タリーは軽くいなしておいて、目の前の、残るふたつの半割り饅頭を見比べた。やや暫く考え込む。どちらを後に回すべきか、食べ比べてみても決めかねたからであったが、ふと思いついて、両方共に手に取った。ふたつの半割り同士を割り口で合わせ、両方を一遍に口に出来る位置から食べ始める。青年傭兵が爆笑した。
「成程、その手があったか。……俺は結構、本気なんだけどな。流石の俺も、マーナ近衛と刃《やいば》を交えた経験はないから。噂に聞く“黒の部隊《ディーリー・ナーナ》”が如何ほどのものか、あんたと手合わせすれば推測が付くかなと思ったんだ」
 タリーは動揺を面《おもて》に出すことなく、努めて淡々と焼き饅頭を咀嚼した。何故近衛兵であると見抜かれたのだろうかと、自分の発言を遡って考えてみるが、何処に問題があったのか、自分では見当が付かない。
「……近衛兵って、私がですか?」
「だってそうだろ」
 青年傭兵は、笑顔の中で鋭い目を見せた。
「戦場に出ることがあるのに、正規隊の人間じゃないと言う。勿論、傭兵隊の人間でもない。となると、もう、近衛隊しか残ってないじゃないか」
「ははあ、そういう推理でしたか」
 タリーは苦笑いを浮かべると、焼き饅頭の最後のひとかけを口中に放り込んだ。
「ですが、戦場に出ることのある人間は、それだけではありませんよ。それは何かと言えばそれが私の所属の答になるかもしれないので、言いませんけど」
「……まあ、いいさ。言うわけには行かない立場なんだろうから」
 青年はあっさり引き下がった。
「だけど、名前くらい訊いてもいいか? 俺はマーナ傭兵隊のミディアム・カルチエ・サーガ」
「傭兵隊のミディアム……」
 タリーはやや考え──そして思い出した。最近、周辺諸国で“青い炎《グルーグラス》”と恐れの込められた異名で呼ばれるようになりつつあるという若い傭兵のことを。
「……グルーグラス、という呼び名を聞いたことがありますが、それが君なんですか」
「自分から名乗ったわけじゃない」
 ミディアム青年は肩を上下に揺らした。それもそうですね、と微苦笑したタリーは、お茶を飲み干した。
「……私は、タリー・リン・ロファ。さるお方にお仕えしている武人です。……ついでに話しておきますと、城の中にも出入り出来る身なので、君が関心を持っている近衛隊の練兵を眺めることも多いですが、幾ら“黒の部隊”と恐れられていても、それは多くの者が並の騎兵十人分に相当する力量を有しているというだけの話です。だから、例えば君が並の騎兵千人分に相当する力量を持っていたなら、彼らは君の敵ではないですよ」
「並の騎兵十人分というだけ[#「だけ」に傍点]、とは事もなげに言うもんだな。……で、あんた自身は、その“黒の部隊”の連中と戦うとしたら、どの程度だと自分で思ってる?」
 問われて、タリーは考え込んだ。謙遜するのが半ば習い性となってはいるが、ナカラ近衛隊長の指摘を待つまでもなく、自分は、隊内で二十名といない一等近衛兵である。また、先輩であり“マーナ随一の剣士《リラニー》”との誉れも高いノーマン近衛副長からも、「お前は、近衛隊の中じゃ、俺の次か、次の次ぐらいに腕の立つ奴なんだから」と何度となく言われている。
「……うーん、そうですねえ……三等近衛兵ぐらいなら、一度に五人まで、何とか相手出来るかもしれないと感じますね」
 結局、実際よりも随分と控えめに、タリーは答えた。マーナ近衛隊では、一対一だけでなく、ひとりで多人数を相手にする訓練も課される。如何に自分の身を守りつつ相手を減らしていくかという対処能力が問われるわけだが、タリーはこの訓練で、常に二十人以上を蹴散らしている。幾ら相手の大半が三等近衛だからと言っても、そのひとりひとりは並の騎兵十人分に相当すると言われているのだから、極めて単純に計算すれば、彼の力量は“並の騎兵二百人以上”ということになる。
 しかし、それを素直に答えれば、この青年傭兵は、ますます以て手合わせしたいと言い出しかねない。残してきた主君とレーナの長老候補のことも、そろそろ気になる。
「……何となく、五倍けして受け取っておいた方が良さそうだな」
 ミディアム青年はそう呟いて、自分が先に立ち上がった。
「どうも、あんたのお仕えしているお方とやらは、俺の雇い主のようだし」
「……はあ、信用されてないんですねえ」
「最初は迷ったさ。下町にいても違和感がない雰囲気だったからな。だが、暫く態度を見てれば、段々わかってくる。単なる無位無官の武家者が、俺にこれだけ色々切り込まれて、くそ落ち着きに落ち着いていられるわけがない。大体、本当に近衛隊と無関係なら、近衛兵だろうと言われた時に、もっときょとん[#「きょとん」に傍点]とした顔をしたっていい。何のことやら、って受け流すような顔をされたから、間違いないと確信したんだ。……あんただって、何が何でも隠したいとまでは思ってないだろ。自分の口からは認められないだけで」
 タリーは、成程自分はまだまだ修行が足りないな、と苦笑いを浮かべはしたが、肯定はしなかった。
「君がそう思うのを止めることまではしませんが、どうも恐ろしく買い被られている気がしてならないということだけは言っておきますよ、ミディアム・サーガ」
「手合わせしてみれば、論より証拠でわかるんだがな。ま、余り困らせるのはやめておくか。あんたの名前は、頭の片隅に留めておくよ、タリー・ロファ。じゃあな」
 片手を挙げてから立ち去る青年傭兵の背中を見送ってから、タリーも腰を上げた。我知らず、ふうっと、嘆息めいた息が洩れた。

 タリーが馴染みの小料理屋であるという“月光《セタリナーサ》亭”に放り込まれたララドとソフィアは、赤毛の女主人がひとりで切り回しているらしいこの店の一番奥まった席で昼食を認《したた》めた後、食後のお茶を飲みながら、店に入る前に交わしていた話を続けていた。
「そこの通りって、他国の使節が通る道になり得るんですか」
「石畳が敷かれておる以上、あり得ない、とまでは言えぬな。滅多にないことだが、別の道を通ってもらいたい時もある。そういう時には、町に入る門の所で、その旨を通知させる。……だが、本当に、滅多にはない。メシュメル城へ到るには、ゾラド通りが最も近く、道幅も広く、また街路状態も良いからな」
 ソフィアは、お茶を啜りながら、うーむと唸って軽く眉根を寄せた。
「……宿舎は通常とは違っていたんですよね、あの時は」
「そう言えば、臨時で町中に置かれたと言っておったな。どの辺りだったか覚えておるか」
「そこは、さっぱり。何だかんだ言っても、子供でしたし。……あの時の匂いは、焼き物の匂いだったと思います。でも、鶏肉だとか魚肉だとかじゃなかった……気がしたんですよ」
 ララドが何かしら応じようとした時、女主人の「あら、タリー坊や、お帰り」という声が聞こえた。振り返った彼らは、歩み寄ってくる青年近衛兵の姿に特に変わった様子がないことを見て取り、ほっと息をついた。
「済みません先生、お待たせしてしまって」
「良い。まあ、座れ。──しかし随分と時を費やしたのだな。撒けなかったのか」
「撒くのは早々に諦め、相手の好奇心を或る程度まで満たしてやる方向へ持っていきましたところ、話が若干長くなりまして」
「えーっ、狡いっ、僕も話してみたかったのにっ」
 空いている椅子に腰を下ろしながらのタリーの答に、ソフィアは思わず抗議の声をあげた。
「申し訳ありませんでした」
 タリーは困ったような微笑みを浮かべて、ただ謝罪する。話の具体的内容について語るつもりは、どうやら、ないようであった。
「──はい、坊や、まずはお茶をどうぞ。昼食は?」
 赤毛の女主人が注文を取りに来る。
「屋台の焼き饅頭を三つ食べてきたんで、余り量の多いものは……そうですね、久し振りに贅沢しますか。昼間っからで恐縮ですが、牛肉の醤油焼きをお願いします。白飯《しろめし》で」
「確かに、昼食にするには贅沢かもね。いいよ、丁度今朝、いい肉がクデンから入ったところだし」
「うわ、それは楽しみです。済みません、ドリー姐さん」
 赤毛の女主人が去ると、ソフィアは好奇心に満ちた視線をタリーに注いだ。
「あのー、あの女将さんって、タリーさんを“坊や”扱いするんですね。気の置けない、親しい間柄なんですか」
「ははは……ドリー姐さんから“坊や”呼ばわりされているのは私だけではありませんよ、若先生」
 お茶の木杯に口を付けた後で、タリーは、かぶりを振る。
「この“月光亭”は元々、ノーマン先輩……近衛副長が、近衛見習になる以前から贔屓にしている店で、その縁もあって、昔ノーマン先輩が第十三小隊の隊長だった頃に下に付いていた面々をはじめ、下町を歩くことを厭わない近衛兵達が、割に立ち寄る店なんです。そして此処では、ノーマン先輩も含め、皆、等し並に“坊や”扱い。でも、仕方ないです。何しろ我々、此処へ初めて来たのが十代半ばの頃ですから」
「ノーマンが近衛見習になる以前……ということは、十年以上前か」
「はい、先生。……ああ、もうそんなに経っていたのか、と今ちょっと気が遠くなりました。我ながら爺むさいですねぇ、まだ二十代なのに。……ところで、昼食は如何でしたか」
「成程ノーマンが贔屓にしているだけのことはある」
 ララドは頷きながら応じた。
「あれは、その辺の料理人なぞ裸足で逃げ出すだろうほど、料理の味にやかましいからな」
「そうですね。時折は自分でも厨房に立たれてますからね」
 タリーが苦笑混じりに返した、その時であった。
 突然、ソフィアが、飛び上がるような勢いで席を立った。
 何事かと驚き見上げるララドとタリーの視線も何のその、ばたばたと慌ただしく、店の止まり木に駆け寄ってゆく。
「お姐さん──お姐さん、お姐さん、それ、十一年前にも作ってました?」
 止まり木の向こうで、ひと口に切り分けた肉を網に乗せて焼いていた女主人が、やや怪訝そうな目を上げた。
「勿論。店を出した時から、頼まれれば拵えてるよ」
「お願いです、僕にも作ってください、それ! あのあのっ、十一年前、僕がこの町で通りすがりに嗅いで惹かれて探したのは、この匂いなんです[#「この匂いなんです」に傍点]!」
「おやまあ。そいつは嬉しいね」
 女主人はにっこり笑った。目の覚めるような美人とは言えないかもしれないが、年齢を重ねてもなお魅力的な笑顔の女性であった。
「いいよ。タリー坊やの分が先だから、ちょっと待ってもらうことになるけど」
「待ちます!」
 ソフィアは、黒褐色の両の瞳をきらきらさせ、そのまま、空いていた止まり木の席にすとんと腰を落ち着けた。
 ララドが歩み寄ってくる。
「……この匂いだったのか?」
「はい」
「うむ……鮮烈と言えば鮮烈だが、余り複雑な香りではないな」
「そりゃあ、複雑なたれ[#「たれ」に傍点]は一切使わずに、ちょっとばかりの塩と胡椒を振って、あとは醤油だけを軽く塗りながら焼くんだもの」
 女主人は気さくな口調で説明を挟む。
「こうやってね、さっと表面だけを最初に焼いてしまう。そうしておくと、肉の旨味が逃げない。後は、火を通す程度。焼き過ぎたら硬くなっちまうからね。アタシの生まれ故郷では、珍しくない食べ方だったよ」
「あ、ドリー姐さん、私は後でいいですから、先に若先生に差し上げてください」
 タリーが止まり木にやってきて、微笑と共に声を掛ける。
「気にせず召し上がってくださいね、若先生」
「有難うございます」
 笑顔で応じたソフィアは、醤油焼きの匂いを今一度胸一杯に吸い込むと、ふわっと息を洩らした。
「……あ、今ふっと思い出しました。トラバル広場、というのが近くにありました、あの時の宿舎」
「トラバル広場ならば、そこの通りをずっと抜けた先だ。城からも遠くはない」
 ララドは頷き、そして苦笑した。
「そうだな、よくよく思い出してみれば、わしがそなたに蹴り飛ばされたのも、トラバル広場に通じる路地であった」
「うわっ、先生、蒸し返さないでくださいよ、わざとじゃなかったんですから」
 閉口したような表情で首をすくめるソフィアの前に、「はい、お待たせ」という声と共に、付け合わせのシロビ菜が敷かれた牛肉醤油焼きの皿が置かれる。たちまちソフィアは笑顔を取り戻した。手回し好く添えられていた箸を手に取り、ひとつつまもうとして……はた[#「はた」に傍点]と、手を止める。
「あ、お姐さん、お箸二膳と取り皿二枚、頂けませんか。先生のと、タリーさんのと」
「おや。若いのに出来た子だね」
 女主人ドリーは、既に手早く次の醤油焼きの下拵えに掛かっていたが、その手を止めて微笑むと、求めに応じて小さな皿を二枚、箸二膳と一緒に出してくれた。
「姐さん、白飯も軽く装ってあげてください。──白飯と一緒だと、もっと美味しく食べられますよ、若先生」
「はひ、ありらほーほらいまふ」
 早くも一個目の牛肉醤油焼きを口の中に放り込んでいたソフィアは、かんだ途端に染み出てきた熱い肉汁にほふほふ[#「ほふほふ」に傍点]言いながらも、礼らしき言葉を口にしてぺこりと頭を下げた。

 全ての食事を終えると、タリーは、自分が勘定をしておくからと告げてララド達から離れ、円卓の上の空食器を片付けている女主人ドリー・フーズ・アーベンに歩み寄った。
「……姐さん、今日は本当に有難うございました。助かりました」
「ふふ、アタシこそ、普通なら一生に一度だってお目に掛かれないような経験をさせてもらえて、感謝してるよ。……マーナ王陛下の御臨席を賜る光栄なんて、こんな場末の店には、ないものね」
「うわ……やっぱり、姐さんには気付かれてましたか」
「長時間、拝見していればね。……もうひとりの若い子は、他所の国の使節なんだね。此処ら辺じゃ聞かない訛りがあるみたいだし。ルディーナ様の婚礼の祝いに来てたってところかな」
「……姐さんが将軍府に入ったら、ケーデル・フェグラム一等上士官と張り合えますね」
「ノーマン坊やが『大嫌いだ』って言ってる“青二才”君のこと? 会ったこともないから、どれほど凄いのか見当も付かないけど」
 ドリーは、低く短い笑いを洩らす。
「ノーマン坊やにも、今日のことは内緒?」
「はい。そのように願います。……勘定は私が払いますので、精算宜しくお願いします」
「今度来た時でいいよ。坊やに付けておくから。余り待たせちゃ悪いだろ。さ、気にしないで」
「重ね重ね、有難うございます」
 タリーは素直に頭を下げた。こんな時のドリーの申し出は、本当はきちんと払ってもらいたいけれど儀礼で言っている……という本音と乖離した言葉ではなく、真実そう思ってくれている時の言葉であると、承知していたから。
「また、近い内に、今度は副長と参りますので」
 待ってるよ、と応じる相手に背を向けて、タリーは、出入口付近で待つララド達の所へ戻った。
 店から出ると、冬の午後の陽射しが街路の石畳に柔らかく降り注いでいた。
「……来て、良かったなぁ……」
 城へ戻る為の道を歩きながら、レーナの若き長老候補ソフィアが、しみじみとした口調で呟く。タリーは、その隣に歩を進め、穏やかに声を掛けた。
「良かったですね、若先生。十一年越しの宿題が解けて」
「有難うございます。先生とタリーさんが付いてきてくださったおかげです」
 ソフィアは、心底から嬉しそうな笑みを、満面に湛えた。
「勿論、十一年間ずうっと思い続けてきたわけではないですから、忘れていた宿題ですけれど、それでも、思い掛けず果たす機会を貰えて、何というか……本当に幸せです」
「わしも、なかなか楽しませてもらった。……それにしても、好い店であったな。客も皆、気分良く過ごしておるようであった。我がマーナの民が生き生きと暮らしておる姿をこの目で確《しか》と目の当たりに出来るのは、嬉しいものだ」
「……私は、明日の朝にはこの町を発たなくちゃならないけど、またいつか、機会があったら、この“月光亭”に来たいです。出来れば、今回、このマーナで知り合った皆さんと一緒に」
 ソフィアは、半ば夢見るように呟いた。
 ……無論、その為には、マーナとレーナの関係が恒久的に平穏であり続けなければならない。
 そして、この混迷《ダニュア》の戦国時代、それが極めて難しいであろうことは、この場にいる三人には、よくわかっている。
 けれども、誰も、そのことには触れなかった。
 よくわかっているからこそ、敢えて言葉にする必要は、なかった。

 翌日、マーナ第一王女ルディーナの婚礼を祝して訪れていた各国からの使節達は、マーナ王ララド・オーディルとの謁見を経て後、相次いでデラビダを離れた。
 レーナの若き長老候補、ソフィア・レグも、恙なく、帰国の途に就いた。
 実質滞在日数わずか三日の間に、マーナ国内の様々な人物に、様々な印象と思いとを残して。



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