「さて、それでは仕切り直しということですね、亡霊先生」
 その晩、私が訪ねてゆくと、文机に向かっていた里長は顔を上げ、小さな苦笑を見せた。
 里の何処とも知れぬ場所にある、人ふたりが転がればそれで一杯になってしまいそうなほど狭く、しかも何とはなしに殺風景な部屋……そこが、近年の里長の執筆部屋である。我々の宿所と繋がっているのは間違いないのだが、例えば内藤殿の住む“作品世界”とも繋がっているらしいし、此処から直接、里の茶店へ行くことも出来る。だから多分、茶店と殆ど同じ、里の何処とでも繋がっている場所なのであろう。
〈宜しくお願いします〉
 私は居住まいを正し、頭を下げた。
〈まずは、この話の、そもそもの経緯から語りましょうか〉
「いえ、それは私が説明した方が明らかに早いですから、私の方で致しましょう。……えー、これは、白牡丹さんから頂いた、トップページ九〇〇〇キリ番リクエストを叶える為の話です。里の茶店で亡霊先生と呼ばれている、拙作『まなざし』に登場する伊東甲子太郎先生、但し“生身先生”と俗称されている御生前のではなく、“亡霊先生”と呼ばれている落命後の亡霊さんを語り手とし、茶店開設以来一年間の出来事の中から亡霊先生に十大事件を選んでもらい、それを亡霊先生自らに解説してほしい……という御希望でした。……リクエストを頂いたのは二〇〇三年の春なんですが、諸般の事情で、此処に至るまでにこんなに年月が経ってしまいまして……決してサボっていたわけではないのですが、他のキリ番リクエスト話が先にとっとこ進んでしまったり、大河ドラマの感想きで執筆時間が潰れてしまったりで、なかなか集中出来ず……やっと書ける状態になったかと思うと執筆形式で試行錯誤を繰り返す羽目になり……そんなこんなで、大変遅くなって申し訳ございません」
〈……申し訳ありません、こんなに遅くなってしまって〉
 私は小さくなった。
「いえいえ、結局のところ、亡霊先生を動かし切れずにいたのは私ですから。……じゃ、始めましょうか」
 里長は肩をすくめると、文机──正確には私の知る文机とは見てくれが随分違うのだが、用途はほぼ同じ──に向き直った。
「最初に、選んだ事件の一覧を挙げておきます?」
〈……それは、どうでしょう? どれを選んだのかと読み手に興味を持たせる方が良いのではないでしょうか〉
「報告書の類だと、最初に結論を持ってくる方が親切なんですけど、読み物はまた別ですからね。……わかりました、では、ひとまず、纏めは最後に持ってくることにして、進めてみましょう」
〈順序は、昨夜申し上げた通りで宜しいでしょうか?〉
「必ずしも時系列順にしない、という話ですね」
 私は頷いた。事此処に至るまでに、どう語ればいいのだろうかと試行錯誤する中で、事件が起こった順に語ってゆくと途中で息切れしてしまいそうな気がし始めていたのだ。選んだ十の事件は必ず何処かで繋がっているのだから、語りたくなった箇所から語り、その流れの中から、時を遡って前の事件に触れることもする、という方法をも採り入れてはどうだろうか……と昨晩里長に提案し、ならば試しにそれでやってみましょう、と応諾してもらっていたのだ。
「構いませんよ。先生が話し易いように話していただければ」
〈はい。……それから、いで湯掘りの件ですが、既に語ったものをこちらへ移していただくというのは難しいですか? ……流石に、何食わぬ顔で一から語り直すのも気恥ずかしいので……土方を相手に話した出来事の方は、里長殿相手ならまた違う切り口になるかとも思えるので、語り直しても構わないのですが〉
「まあ……確かに、私ももう一度同じリアクションをするのは何だかなーと思いますし、じゃあ、特例で、再掲の扱いにしますね」
 応じて里長は、前に書き取っていた頁から一定の範囲を丸で囲み、そこから、今し方書き取った辺りへ線をぎゅうっと引っ張り、矢印を付けた。

★★★★★

「……で、何処から喋ってみたいんでしょう?」
〈ええと……まずは、いで湯の話です。一番最後の〉
「はいはい、茶店の庭に、いで湯を掘ったアレですね……二〇〇三年三月十八日から二十五日まで……亡霊先生は二十四日の朝に御来訪、と」
 そう言えば、十件の中でこれだけが二〇〇三年の事件でしたね、と指摘されて、私は微苦笑した。
〈ひとつぐらいは、年が改まってからのものを選びたくて。……でも、あの時の騒動は、私にとっては掛値なしに、十の中に入れても構わないほどのものでした〉
「最初の、温泉を掘り当てるところは、先生は御覧になってないわけですけど……」
〈後から聞きましたけれど、里のあちこちから“便利屋”達が呼び寄せられていたとか〉
「んぎょ、誰ですか、選《え》りすぐりの錚々たるメンバーだったのに、“便利屋”なんて表現で括って教えたのは。……まあいいでしょう、そもそも、いで湯掘りや石積み作業などの諸々は、亡霊先生にとっては重要ではないでしょうから」
〈御配慮痛み入ります。……ええ、確かに、私が言及したいのは、あの無粋な、磨り硝子とやらの衝立ですよ。まったく、風情がなくて恰好が悪いと言ったら……〉
 あれは何でも、いで湯に浸かっている者が……もっと正確に言えば、いで湯で身を休める女人がむくつけき男共から覗かれてしまわないようにという趣旨で置いたらしい物だったのだが、庭の景観を損ねること甚だしく、そもそも厩から顔を出す早蕨号に対しては全くの無防備というところが大いなる問題で……
「……そうはおっしゃられましても、早蕨君の秘密を知っているのは、ごく一部の方々だけですからね。何も知らない有希ちゃん達が用心する筈もなく」
〈だからこそ、知っている者が配慮せずして、誰が配慮するんですかっ。……私が覗きに行こうとしたら寄って集《たか》って取り押さえられるのに、早蕨だけが土方の裸を見たい放題というのは断じて許せませんよ断じてっっ〉
「はははは……はぁ……そっちが御不満だったんですかい」
 里長は、殺風景な室内の中で唯一の彩りとなっている花柄の布が掛けられている文机の上に、へなと突っ伏した。
「でも、亡霊先生が取り押さえられたのは、有希ちゃんの入浴を覗きに行こうとしたからでは?」
〈ち、違いますよ、あの時は本っっ当に早蕨の所へ行こうとしていただけなんですよっ、それを土方と生身の私が何を誤解したのか……あ・の・で・す・ねえ、茶店の帳面には書かれてませんけど、その前にも私は、生身の私から猛然と組み伏せられてるんですよっ、『愚か者、お前はいつも、土方の裸なら会津で散々見たと自慢げに語っておったろうが』とか何とか妙な理屈を付けられてっ〉
「……それ、日頃の言動のせいで自業自得って気もしますけど。……まあ、『散々』かどうかは、作者の目から見て疑問ですけどね」
〈はあぁ……勿論、話を面白おかしくする誇張に決まってるじゃありませんか〉
「……でしたら、やっぱり自業自得ではないかという気が」
〈そ……そうかもしれませんね。でも、あそこまで言わなくても……いえ、今は、いで湯の衝立の話でした〉
 私は嘆息した。
〈大体、あれだけの員数が雁首えていながら、後からふらっと来た私が灌木の植え込みか何かを目隠しには出来ないのかと指摘するまで、誰ひとり、植え込みを目隠しに使おうと思い至らないなんて……そんな風だから、石積みで下らない口争いになったり、脱衣所を造ってみたら出入口がなかったり、などという恰好の悪いことになるんですよ〉
「えらく、先生らしからぬ刺々しさですね。……多分、あの中にいたら、先生も一緒に、『恰好の悪い』方々のお仲間になれていたと思いますよ」
 里長は苦笑した。……諸々の騒動の最中《さなか》に立ち会えなかったのが面白くない、という私の本音を、多分、わかっているのだろう。

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「……はい、以上ですね。何か、今改めて補足したいことがおありでしたら」
〈そうですねぇ、私の言葉が、若干、読み手が状況を把握するには足りないようですね。石積みで下らない口争いだとか、脱衣所に出入り口がないとか……〉
「でもそれは、亡霊先生は御覧になっていない騒動でしょう?」
〈確かに伝聞でしかないことですが、それが早蕨からの伝聞だということには意味があるかと〉
「……成程」
 里長は苦笑した。
「亡霊先生の口を借りなければ、早蕨君の視点は窺い知れませんからね。……でも、曲げて伝えないようにしてくださいね」
〈だ、大丈夫ですよ、此処で話したことはいずれ早蕨の目にも触れると承知しておりますから。変なことを話したと知れたら、かみ付かれて振り回されて蹴り回されます。……ええと、まず石積みの方ですが、土方と生身の私とが、いで湯の周囲を囲む石の積み方の見てくれで、互いの積み方を『美しくない』と言い出して口争いになったのを、早蕨が仲裁したという出来事があったんですよね。……ええ、仲裁だと早蕨は言ってましたよ。たかがふたつみっつの石の積み方如きでつまらぬ意地の張り合いを始め、どちらも退《ひ》けなくなってしまっているなと見たから、険悪な罵り合いになる前に、当の争いの元になっている石積みをぱかんと蹴り崩してやったのだと。……あれは、馬の分際で結構、細やかな心遣いをしますから〉
 ……まあ、そういう馬として生まれついているのだから、当然と言えば当然なのだが。
〈脱衣所の方は……いで湯を掘り当てた後は男手ばかりで普請をしていたものだから、女人の着替える場所のことを全く考えておらず……後からそれと指摘され慌ててそれらしき場所をと大急ぎで拵えてみたら、何と入口がなかったというお粗末な為体だったと。……早蕨によると、厩の横にくっつける形で、衝立をそれぞれがせーので押し立てて釘を打っていたとか。いやはや、聞くだに杜撰な……拙速を尊ぶのは兵だけで良いのですがねぇ〉
 何しろ急拵えで、屋根もなかったしな……とは、早蕨が苦笑して語っていたこと。厩の屋根を延ばすことにしていたらしいのだが、その普請に取りかかる前に訪ねてきた有希殿から入口がないと指摘され、慌ててやり直したおかげで、屋根を延長する普請は夜半近くにまでずれ込んだそうである。
〈結局、手を抜くと却って大変なことになる、という見本でしょうね。……ま、それはさて置き、露天の湯が出来たことで、騒動の種がひとつ増えたのは間違いないですね。ふふふふ、生身の私から聞きましたよ、有希殿が湯に浸かっているところへ土方が飛び込んで、しっちゃかめっちゃかに袋叩きにされたとか……〉
「……あのぉ、先生、それは選べる期間外の出来事なんで、今回はお話を御遠慮願いたく」
 里長が困ったように笑う。……う、そ、そうだった、残念ながらその事件は、“二〇〇二年度”とやらの話ではないのだった。
〈ええっと、でしたら、次は……割に真面目な辺りで、内藤殿の爆弾発言で土方さんが凍り付いた件についてでしょうか〉
「……『割に』どころか極めて真面目な辺りですよ、その事件は。……十件の中で唯一と言っていいくらいの」
〈ゆ、唯一でもないですよ、どれも、当事者達にとっては、ふざけてやったわけではないことですから〉
「でも、傍から見ると苦笑ものだったり、爆笑ものだったり……そういう出来事ばかりお選びになったでしょう、先生」
〈えーと……えへん、では内藤殿のお話を〜〉
 殊更な咳払いと共に、あからさまに話を引き戻す。一々抗弁していては、話が少しも先へ進まない。里長の方もそれと承知しているからか、深追いはせず、淡々と傍らの帳面をめくり始めた。
「二〇〇二年八月十六日の朝の出来事ですね。……実は、この前夜にも、俗に“有希ちゃんの、しと夏のしみつ”と呼ばれているらしい、十大事件に入れていいほどの出来事があったのですが、まあそれは亡霊先生は間接的にしか御存じない話ですので、それでお選びにならなかったんですね」
〈……ええ。どう考えても、あの場に残るのは野暮というものでしたから、向こうの土方さんと外で夜明かししましたしね。真夏でしたし。……で、その翌朝なんですが、私が土方の枕に膝を貸していると、内藤殿が訪ねておいでになって……『おい亡霊、おめェ外に出てろ。俺はこいつと、ちっと真剣な話がしたい』と〉
 何となく何か不穏な気配を潜めているようにも見えたので、あなたの言うことを聞く筋合はないと突っぱねて場に残ろうとしたのだが、『じゃあ、今度一緒に遊んでやろうかと思ってたのは、なしだな』と切り返され、つい屈してしまったのだ。
「……その前に、生身先生が隼人さんからデートに誘われて連れ出されたという出来事があって、亡霊先生、散々焼餅焼かれてましたからね」
 でーと……というのが逢引のことだとは、その時に内藤殿から教わったことである。
〈生身の私が意地悪く色々見せびらかすからいけないんですよ〉
 私は、ぷんと小さくむくれてみせた。……まあ、当時の生身の私にしてみれば、私が土方の行く所なら何処へでもお気楽に付き纏っているような気がして仕方なかったわけで……だから、その腹癒せの意図もあって殊更に私に、内藤殿から受けた贈物を見せびらかしに来たのだ……とは、後で理解したことである。
〈それでつい、えっ、私とも一緒に遊んでやろうと思ってくださっているのか、と、うかうか浮ついた気になってしまった。……勿論、土方が私が座を外すことを黙認したというのも手伝っていましたけれど〉
 だが、そうして私が席を外していた間にどんな話があったのか、内藤殿が立ち去った後の部屋に戻ると、青ざめた顔で座り込んだ土方が、身じろぎもせず凍り付いていたのだ。
 ……後で“芹沢の墓石”にされた早蕨や、また、後年になって土方当人から聞いた話によれば、内藤殿はあの時、生身の私を自分に譲らないかと……些か奥ゆかしさに欠ける表現を使うなら、生身の私を自分の“念友”に貰い受けたいと、いきなり持ち掛けてきたらしい。
 色恋沙汰では先に惚れた方が負け……などとしたり顔で言うつもりはないが、我々の方が「土方の傍らにいたい」と望み続けてきたのは事実だから、土方にとっては、我々“伊東甲子太郎”は、心情的には、“俺のもの”である。土方は恐らく、そんな我々が他の誰かに心惹かれて自分の許を去ってゆく──もっと身も蓋もない言い方をするなら、自分に惚れ抜いていた筈の相手が、別の誰かの口説きになびいて自分を袖にする──などという事態が起きようとは、夢想だにしていなかったに相違ない。
〈私は私で、土方が何も話してくれないっ、と随分ねたものですが……それも、今となっては懐かしい思い出ですね〉
「あれは、典型的な、キャラクターの反乱事件でしたよ」
 里長は肩をすくめた。
「作品世界が違うのに本気で言ってるのか隼人さん、と作者も焦りましたけど、結局、落ち着くところへ落ち着いて。勿論、あくまでも、茶店限定の間柄ということですけど」
〈限定でなかったら、私が怒りますよ〉
 私は再びむくれてみせた。
〈もっとも、私と生身の私とが同じ場所にいられるというのも、物語の外の里内限定ということになっていますけれどね〉
「あ、そっちは、茶店限定よりは少し範囲が広いです。拙作のあとがき類に出張出来ますから。……茶店限定の方は、基本的に、紙媒体のお遊びには反映されません」
〈茶店限定と言えば……里の中どころか、里の外の作品世界とやらの人物と、微妙〜な関わりを持つこととてありますよね〉
「……次の事件ですか?」
〈はい、きっと向こうの土方さん辺りが口には出さねど内心激しくお待ちかねの話であろう、おろおろしつつも見〜ちゃった事件をば……〉
「……先生、何処見て話してらっしゃるんですか」
〈読者の方を〉
 ふふふと笑って、私は、此処にはいない誰ぞへ向けての流し目をくれた。
〈勿論、我々里人と向こうの方々とが微妙〜な関わりを持つ事件というのは他にも起こっていますが、まあまずはこれでしょう〉
「……では、二〇〇二年七月二十九日の夜の事件ですね。歳子君が、有希ちゃんと土方さんをひとつ布団に放り込んだところから始まる」
 里長は、ぱらぱらと帳面をめくり戻した。
「これは既に一度、土方さんの視点からも語られている事件ですし……亡霊先生にしか語れない事実に絞ってお話を頂きましょうか?」
 それを言うなら、私しか知らない事柄も、既に土方を相手に一度語っていることなのだが……
〈……流石に、これも転載してくれとは言えませんねえ〉
「ちょっとね。……では、事実関係については簡単に私の方で、聴き取り書きを見ながら取り纏めて話しましょう。亡霊先生は、目撃時の御感想を、土方さんに話した時とは違う切り口から」
 うっ。
〈……それは……土方には話していないことを話せ……という仰せでしょうか?〉
「御本人を前にしては話しにくいこともあったでしょうからねえ。……ええと、掻いつまんで話しますと、まずは、夜中に目を覚まして布団から抜け出した土方さんを追い掛けて、すり寄っていったのは、有希ちゃんの方であったと」
〈み、身も蓋もない表現ですね〉
「この間の土方さんとの遣り取りの聴き取り書きを読む限り、そうとしか読めませんけど。……で、土方さんもそれを拒まずに抱き寄せたと……って、ちょっと確認しておきますが、有希ちゃんが土方さんにしがみ付いたのではなく、土方さんが有希ちゃんを抱き寄せたんですか?」
〈ちっ、違いますよ、その先をよく読んでくださいっ、どんな夢を御覧になったのか有希殿が啜り泣きながら縋り付いて口吸い跡を云々と、後からちゃんと……!〉
 私はわたわたと両手を振って訂正した。此処の箇所は、どっちがどっちとハッキリ明言しておかないと、各方面で血を見るような争いの元になりかねない。
「はいはい。で、それを、こちらも何か夢を御覧になっていたらしき土方さんが寝惚けて抱き寄せたというわけですね」
〈ええ、一旦はお目を開けられたのですが、それも夢の続きだったようで、目を閉ざされた後でお返しの口吸い跡を思いっ切り。……おひとつだけでしたけどね〉
「で、有希ちゃんはそれに今度は倍返しして、結果、合計三つの口吸い跡が出来上がりと」
〈……さ、里長殿、もう少し奥ゆかしい表現をしてくださいっ〉
「詩的でない表現にしておいた方が、変に嫌らしくならずに済むことがあるんですよ」
 里長は小さく笑うと、必要もないのに官能小説にする気はないですから、と呟いた。……多分、下手に艶っぽくしない為に、わざと、身も蓋もない言い回しばかり選んでいるという意味なのだろう。
「それで……先日、亡霊先生は、有希ちゃんの積極性に驚かれたということは土方さんに語られていますが、土方さんをどう思われたかは語られてませんね」
〈まあ、土方は、私が生きている頃から随分と女にはモテていましたし、私とて、彼と女人との付き合いに一々悋気を起こすつもりもないですから、目の前で濃厚な閨事でも見せられない限りは、ああ、流石に巧くあしらってますね、程度で特段の感想は。……ただ……〉
「ただ?」
〈どんな夢を見て、あんなことを仕出かしたのか……いえ、私は別段、彼の夢の中身を詮索するつもりはありませんよ。ただ、気になっているだけなんです。私の聞き間違いでなければ、あの時、彼は……〉
「何かおっしゃってたんですか」
〈……早蕨、と〉
 聞くや、里長は、ぷっと吹き出した。
「う……馬と有希ちゃんを間違えたと?」
〈間違えるって……ちょっと待ってください里長殿っ、何をどう間違えて口吸い跡をあ奴に付けたというんですか土方がっっ!〉
「いやいやいや、抱き寄せたという話ですよ。……土方先生、寒空の下で野宿の折には、よく早蕨君の首にしがみ付いて寝てたみたいですから」
〈……本当でしょうね〉
「本当ですよ」
 けろっとして、里長は請け合う。……うう、却って怪しい。
「いやー、そーでしたか、寝惚けて、有希ちゃんを早蕨君と間違えたと……うわー、これ知ったら有希ちゃんショックかしら」
〈……馬に口吸い跡を付ける趣味があるんですか土方は〉
「じゃ、そろそろ次の話に行きましょう。えーと、向こうの方々との微妙な関わり、という辺りからすると、記憶喪失になった生身先生が幕並の土方さんにひと目惚れした事件か、それとも、さきちゃんの大誤解事件でしょうか」
 ……話のそらし方が余りにあからさまで怪し過ぎるので、追及する気も失せる。私は諦めて嘆息すると、頷き、それでは前者を先に話しますと応じた。
〈後者の方は、別の事件と関連付けて話した方がいいように思いますので〉
「了解しました。では……これは、『ティブラル・オーヴァ物語』の作品世界に早蕨君共々に落っこちて記憶を失ってしまった生身先生が茶店に戻ってきた二〇〇二年十月七日から、十一日にかけての事件ですね。生身先生が戻ってくるというので、幕並の皆さんも一緒に茶店で出迎えてくださったまでは良かったのですが……」
〈生身の私が、あろうことか、同性から想いを懸けられるのが土方以上に大の苦手という向こうの土方さんに、ひと目惚れしてしまったんですよねぇ〉
「幕並の土方さんは、ウチの土方さん以上に、その手の話に対する拒絶反応が強いですからね」
 「幕並」とは、白牡丹殿の所の“作品世界”「幕末並行世界」の略称である。
〈あれはねぇ……土方が洋装で待っていたのも拙かったんですよ。あの当時、生身の私は、まだ、私ほどには洋装の土方を見慣れていませんでしたからね。羽織姿だった向こうの土方さんの方に目が行くのは、まあ必然だったかと〉
「既に早蕨君に対して別のキリリク話で語られている通り、その時には笑い転げていた亡霊先生も、後になればなるほど、微妙に面白くなくなったわけですよね」
 私は軽く頷いた。幾ら記憶をなくしたからと言っても、魂に刻まれた筈の相手を取り違え、取り違えたことに気付かずそのまま想いを募らせてゆくというのでは、彼の土方への想いが、「何だ、記憶をなくせば忘れてしまえる程度の代物でしかなかったのか」と言われかねない。そして、彼の成れの果てである私の想いまでもが、「記憶をなくせば忘れてしまえる程度の代物」と思われてしまいかねない。それが、私には、甚だ不本意だったのだ。
〈でも、土方などは、私以上に面白くなかったでしょうよ。巻き起こる騒動が笑って見ていられる程度のものである間はいいですけれど、生身の私があちらの土方さんにいよいよ熱を上げて暴走し始めてしまったら、洒落にならなくなりますからね。……だから、あの後、生身の私の記憶とやらが戻るまで、洋装を控えるようにしていたに違いないんですよ。その心の根っこにあるのは、内藤殿の爆弾発言とやらに凍り付いた時ほど深刻ではないにせよ、似たような感情です。生身の私の想いを受け入れる気は毛頭ないくせに、他の男に浮気をされるのは気に入らない、という〉
「……先生、そこまで断言したら、土方さんに後で絞め上げられますよ」
〈でも、事実ですから。……大体土方は、私が向こうの土方さんといちゃいちゃしていたら、大抵、後で恐ろしく機嫌を損ねるんですよ。向こうの俺が嫌がるだろうがと、もっともらしい理屈は付けてきますけどね。最近は、向こうの土方さんがお見えにならないので、そんな姿を見ることもめっきりなくなりましたが〉
「……いちゃいちゃだなんて、幕並の土方さんからも出鱈目を言うなと絞め上げられかねませんよ。ウチの土方さんからも、臆測で大袈裟なことを言うなと立腹されそうな御発言ですし」
〈最後まで聞いてからにしてくださいっ。……もっともね、たとえ根っこに焼餅があるとしたところで、土方の言うことは正論ですし、私自身も土方から絞め上げられるのは頗る応えるので、しゅんと萎れてしまうのですけれどね。それに、土方が焼餅を焼いてくれるということ自体は嬉しいわけですし。……悪ふざけのし過ぎについては、反省しておりますから〉
「うーん、その話題は今回の事件とは無関係なんで、その辺にしておきましょう」
〈……はい〉
 私はふぅと息をつくと、気分を切り替えた。
〈この事件では、我々のように笑い転げたり、向こうの土方さんのように冷や汗をかいたりしながらも、殆どの者が皆なりに、生身の私が何とか記憶を取り戻せないかと色々努めてくれましたからね。……結局は、こと土方のことが絡むと身も世もない嫉妬を覚えてしまうという感情が、記憶を取り戻すきっかけになったわけですが〉
 私の名案で……とは言わずにおく。如何に私が知恵を出したところで、皆の協力がなければ出来なかったことなのだ。……いや、まさか、向こうの土方さんまでもが土方に抱き付くとは予想していなかったのだけれど。
「皆が協力して難題解決というケースで、発端はコミカルなれど結末がシリアスだったのが、亡霊先生も十大事件に選ばれている、二郎先生の幼児退行事件ですね」
〈……うう、お願いですから、異国語は、ひとつの台詞にふたつまでにしてくださいませんか。読者の皆様方には理解出来るのでしょうが、私が理解に苦しみますので……〉
「その辺りは、文脈から何となく理解したような気になって、さらっと流しておいていただければ。……で、どうなさいます、その事件に続けますか?」
 里長は苦笑しながら帳面をめくる。私はかぶりを振った。
〈いえ、二郎と生身の私との諸々は幾つか選んでありますので、そこは時系列順で一気に語ろうと思います。……先に、別の事件を振り返りましょう〉
 二郎……というのは、向こうの私、つまり“幕並”の伊東甲子太郎のことだ。慶応元年当時から訪ねてきているが為に、慶応三年の時点から拾い上げられている生身の私よりも年若。生身の私が彼に「二郎」と命名したのは、“三郎よりは上の弟”という洒落のようなものである。
「はいはい……って、よく見たら、半分近くが、おふたりの騒動系統の話じゃないですか!」
〈え、そうでしたっけ?〉
「最初がアレでしょ、そしてこの幼児退行事件でしょ、次がさきちゃんの大誤解事件でしょ、それからこれも生身先生が二郎先生に焼餅を焼いたのが原因でしょ、あと、こっちの話も、おふたりが急接近する話でしょ──」
〈あああ、いえいえ、その野点の会については、あのふたりのことを話すつもりはなかったんですよ。──ちょ、丁度良かった、この野点の会での出来事を話そうと思っていましたので。ええ、そもそもこの野点の会は、茶店の帳面が一日に六〇枚も書き進められるという、物凄い“じゃむせっしょん”とやらになった出来事でして──〉
 私は急いで話をそちらに振ると、怒濤の勢いで喋り始めた。
〈まず、夜中に美はる殿が、差し入れの菓子にひとつだけ細工物を入れるという仕掛けをなさいましてね。それを朝になってから主殿が、異国の菓子が食べられない面々に配慮して、おはぎの中に混ぜ換えまして──何でも、その細工物が当たった者は、その場の誰かにお願い事が出来て、頼まれた相手はそれを必ず叶えてやらねばならないという──まあ何と申しますか、お楽しみの籤引きです。ところがそれを引き当てたのが向こうの土方さんだったが為に、ひと悶着が起きまして、結局、有希殿が向こうの土方さんを“お願い事”に応える形で引っぱたいた挙句わんわん泣き出すという思わぬ結果に──〉
「えらく強引に野点の会の話に持ち込みましたね、先生」
 私の“息継ぎ”を狙ったかのように、里長が割り込む。
「まあいいでしょう、では遅れ馳せながらデータを。これは、二〇〇二年九月一日の出来事ですね」
〈もう、色々ありましたからねぇ。誰の陰謀か、さき殿や白井君まで送り込まれてくるしっ〉
「あれは、亡霊先生も当時からお察しの通り、生身先生封じ込め策です。何しろ生身先生、一週間前の予行の時、二郎先生相手に騒ぎを起こしそうになってましたからね」
〈だったら、さき殿だけでも良かったでしょうに……白井君までよこされたせいで、私が厨房から出られなかったんですよっ。ぶつぶつ〉
「でも、おかげで、裏方に徹しようとしていた向こうの土方さんと後で色々とお話が出来たわけでしょう?」
〈……まあ、そうとも言います〉
 私は、しぶしぶ認めた。
〈向こうの土方さんと話している内にわかったことも色々ありますしね。さき殿と我々との年齢差が、向こうの土方さんと有希殿との年齢差と全く同じだったとか〉
「あれは私も吃驚しました。……ところで、有希ちゃんと向こうの土方さんとの諍いは御覧になってたんですよね」
〈うーん……あれは……何と申しますか……〉
 何処からともなく扇を取り出した私は、ぱらりと開き、ゆるゆると煽ぎながら苦笑いを浮かべた。
〈気持ちのすれ違い、と申しますか、互いの心の奥底を見据えられないが故の行き違いと申しますか……おふたりとも、そんなに器用ではないようですからね。有希殿は有希殿で、まだ御自身の気持ちの奥底と向き合えていないし、向こうの土方さんは土方さんで、御自身の気持ちとも有希殿の気持ちとも向き合おうとしていないし。それは勿論、お互い「新選組を背負い支えなければ」という気負いが勝《まさ》っているからなのでしょうけれど……とと、このような微妙な話は避けておいた方が良いでしょうか?〉
「大丈夫ですよ、慶応元年当時の彼らに読まれると拙いなーと判断されれば、白牡丹さんがそこだけ読めないようにしっかり隠しちゃうと思いますんで」
〈では、隠されても話が繋がるように、諍いを拝見しての当たり障りのない感想も述べておきますか〉
 私は小さく笑った。
〈いやいや、あの時は、有希殿も存外に焼餅焼きであらせられるのだなあと思いましたよ。ふふふふ。だって、『さき殿から聞いたんでしょ』とか『さき殿と仲良くお話ししてりゃいいだろうがっ』ですものねえ〜〉
「……先生ー、それの何処が当たり障りのない感想なんですかー」
〈ふふふふ、後でこの話を教えてさしあげた時に内藤殿がお使いになった表現を借りますなら、町中で自分の父親が職場の若い同僚女性と和やかに話をしているのを目撃してしまって“しょっく”を受けた中学生の娘状態。……ところで、ちゅーがくせい、って何でしょうか〉
「んー、まあ、数えで言えば十四五ぐらいの子女が学問を学ぶ為に通う塾のようなものがあって、その塾生のことだと思ってください。多分、隼人さんが『中学生』と表現したのは、有希ちゃんの年頃を意識してではありましょうが、その年齢辺りが一番潔癖なお年頃だと隼人さん御自身が認識されているからでしょう」
〈うーん……そう言われてみれば、うめが橘の所へ乗り込んだのが、十三の時でしたね……頷けます〉
「乗り込んだ……過激な表現ですが、まあ、本質は突いてますね」
 里長は苦笑した。
「当時の先生はまだ少ーし鈍くていらっしゃったのでお気付きでなかったようですが、拙作のうめ女は当時から既に、先生に淡い恋心を抱《いだ》いてましたからね」
〈えー、その件に関してはこれまで〉
 私は些か強引に話を終わらせると、ふうとひとつ息をついた。生身の私ほどではないにせよ、うめのことを余り長々と話題にされると、心の古傷が疼いてしまうのだ。
〈野点の会、色々あった一日でしたが、やはり私にとって一番の思い出は、ひと晩中、向こうの土方さんの頬を両手で挟んで明かしたことでしょうか。……あれは、まさに拷問でした〉
「有希ちゃんに張られた頬を冷やす為にとお願いされたんでしたよね。でも、もし亡霊先生のお姿が見えていれば、幕並の土方さん、十中八九お願いを撤回していたと思いますよ」
〈ははは……傍から見ても、とても危険な体勢だったでしょうからね……はぁ、思い出すだけで、胸の辺りが落ち着かなくなってきますよ……〉
 相手の両頬を両手で挟んだまま、ずっと朝まで……というのは、相手が立っていようと座っていようと寝転がっていようと、こちらから見れば、表現は些かアレだが、“膳を据えられたままお預けを喰らい続けている”ようなものである。何度、このまま唇を合わせてしまおうという誘惑に駆られたことか。
 けれども、あの当時は土方から『二度と向こうの俺に悪さをするな』と殊に厳しく絞られていた頃でもあったから、断じてその意に背くことは出来なかった。向こうの土方さんは私が想いを懸けた土方ではないのだと念仏のように己に言い聞かせ、意識を他所へ向けようと頑張って……まあ、おかげで、壁一枚ほど隔てた厨房で巻き起こっていた、二郎と生身の私とが急接近することになった例の騒動も、何となく聞き知っているのではあるが。
「あら。聞き知っておいでだったんですか」
〈一応はね。実際に何が起こっていたかは、生身の私が語るまでは知りようもありませんでしたけど。……ただ、二郎がぴいぴい騒いでいたので、ゴキカブリが出たなという察し程度は当時から付いていましたがね〉
 私は小さく笑った。向こうの土方さんの頬を冷やしているのでなければ、しゅるんと飛んでいって覗き見たかったほどであった。……いや、実を言えば、覗きに行こうかと腰を浮かせ、手を離しかけたのだが、寝惚けてでもいたらしい向こうの土方さんに『逃がすかこの野郎』と手首をつかまれてしまった為に、やむなく諦めたのである。
「うわ。……ほ、本当ですか」
〈こんな所で里長殿相手に嘘をついても仕方ないですからね。……さて、これでようやく半分〉
 扇をぱたりと閉じて腰に戻すと、私は、軽く伸びをした。
〈残りの出来事は、確かに里長殿が仰せの通り、生身の私と二郎との騒動が中心ですから……関連づけて、ひと息に語ってしまいましょう〉
「……ま、でも、その前に、別のひと息入れてくださいな。半分まで来た労いに、茶店でひと晩、ゆっくりなさってきてください」
〈え! よ、宜しいのですか?〉
「時々休息を入れた方が、作業は捗るものなんだそうですよ、多くの場合」
 里長はそう言って、自分も大きく伸びをした。……恐らく、自身が、ひと息入れたかったのだろう。そうと察したが、私は敢えて何も言わなかった。つまらないことを指摘して、折角の許しをフイにすることはないのである。

 しばしの休息から戻ると、私は、残る五つの出来事に気持ちを向け直した。
 ……とはいえ、内四つは、生身の私と二郎とが巻き起こした騒動と言っていいほどだ。無論、野点の会の厨房の一夜のように彼らふたりだけで巻き起こしたわけではないけれど、傍目から見れば、お騒がせの元凶は明らかにこのふたりなのである。
「……そこまで言い切って宜しいんですか、先生。さき嬢の大誤解事件は、亡霊先生の適切な御介入があれば、誤解が小さい間に平和裡に済んだのでは……」
〈えーと、げふんげふん、でも、私があそこで介入していたら、きっと読者は面白くなかったのではないかと……〉
「話を面白おかしくこじらせてこそ、亡霊先生ですからね。……あの茶店では」
 里長は肩をすくめ、茶店の“過去ろぐ”とやらの帳面をぱらぱらとめくり始めた。
「で、どの事件から採り上げられますか?」
〈この四つについては、最初から順を追います。──えー、野点の会の厨房の一夜を契機に急接近した生身の私と二郎ですが、それ以前、最初の頃は、それはもう、非常に険悪だったんですよねえ〉
「正確には、生身先生の方が一方的に尖っていたんですけどね」
〈それは二郎が……いえ、当時はまだ二郎とは名付けられていなかったのですが、向こうの私が、余りにも屈託なく土方にべたべたべたべたするものですから〉
「……先生、べたべたべたべた、というところにお気持ちがにじみ出してませんか」
〈にじみ出すどころか、あからさまに出しているつもりですが?〉
「はいはい」
 里長は苦笑いしながら帳面を繰り続けていたが、やがてその手を止めた。
「生身先生の茶店踏み込み事件……二〇〇二年八月……六日の朝ですか。……どんな特別な日でも、騒ぎが起こる時は起こると」
〈特別な日?〉
「いえ……亡霊先生方『まなざし』ワールドの方々にとっては特別な日ではないですから」
 里長は小声で呟くと、そこから更に少しページを前に戻した。
「これは、前段階の出来事があったんですよね。先生が選ばれなかった、『私の若紫ちゃん』事件という」
 私は頷いた。それを選ばなかったのは、既に語った“おろおろしつつも見〜ちゃった”事件と似たような騒動であったということもあるが、この騒動を語る時に、騒動の前提として多少は触れることになると判断したからである。
〈……えーと、あの事件は……私が向こうの土方さんを眠らせてしまったのが悪かったと言えば悪かったので、余り大きな声で嬉しそうに語ることは出来ないのですが……有希殿と向こうの土方さんを迎えに来た二郎が、ひとつ布団で抱き合っていたふたりを見て、向こうの土方さんに向かって『何かしたんですか、私の若紫ちゃんにっ』と思わず口走ったという……ふふふふ、あの騒動もなかなか面白かったですねぇ〉
「先生、何気なく話を膨らませないように。抱き合ってはいませんよ、単に有希ちゃんが抱き付いていただけで」
〈む。残念、バレましたか〉
「わざとですか? 知りませんよ〜、勝手に話を大袈裟にして、後で幕並の土方さんからげしげし殴られても」
〈ふっ……この程度のことでか弱い亡霊をぼこぼこ殴るほど器量の小さいお人ではないでしょう〉
 土方や生身の私が聞けば「ぬけぬけと」と呟きそうな台詞をさらりと口にしておいてから、私は、話を続けた。
〈ともあれ、その一件が原因で、二郎がひどく落ち込みましてねぇ……前の日の夜に茶店へひとり訪ねてきて、手酌で延々と飲みながら、見えもしない私相手に悔しいの切ないのと盛大に愚痴をこぼして……夜半過ぎに土方が私を迎えに訪ねてくると、今度は、泣き上戸に抱きつき上戸という酒癖の悪さ……結局、とうとうそのまま、濡れ縁で土方に縋り付いて、ひとつ“ぶらんけっと”の中ですよ、まったく……〉
 もっとも、いつにない二郎の有様に付き合いでの夜明かしまで覚悟した土方から「妬くなよ」と予め断わられていたので、それほど妬かずに済んだのは確かであった。敢えて「妬くな」と断わられた時点で、自分の存在が土方から気にかけられているということと、忘れられてしまうわけではないということとが、容易く確信出来るからである。
 が、生身の私は、そうは行かない。当時の生身の私はまだ、自分は土方からは嫌い抜かれている、という思いに囚われていた。だから、自分と同じ容姿であるばかりか“ぽっと出”の身でありながら、何故か土方の懐にすんなり入り込んでも拒まれない二郎に対して、私の抱《いだ》くそれの比ではない強烈な敵愾心……否、嫉妬心を持っていたのだ。
〈翌朝に生身の私が踏み込んできて、二郎を討ち果たすといきり立ったあの時はもう、このまま修羅場に突入かと思いましたよ。土方が『馬鹿野郎、白牡丹殿の“作品世界”の歴史が変わるだろうが、やめねえかっ』と制止しても、聞く耳持たずでして〉
 私の見るところ、下手に土方から制止されては、生身の私が「土方さんが相手を庇った」と尚のこと頭に来てしまうので逆効果なのだが、土方にしてみれば、仮にそうと承知でも制止しないわけには行かなかったであろう。斯くして、あわや二郎は生身の私の刀の錆になるかと危ぶまれたのだが……
〈……巧い具合に早蕨号が乱入して、まあその、事なきを得たわけです〉
「んー、早蕨君は土方さんの味方ですからね。土方さんがやめろと言っているのに生身先生が聞く耳持たないとなれば、身を挺してでも止めますよ」
〈身を挺してって……後ろから衿首引いて引きずり倒してべろべろ舐め回すという所為が、身を挺してと言えるのか否か……大体、土方さんが制止しても聞かなかったから云々と仰せでしたが、帳面を読む限りではそれ以前に、生身の私の袖にかみ付いて入室を阻止しようとしていたのでは?〉
「亡霊先生だって止めようとなさってたでしょう? 生身先生にあの光景を見られたら拙いというのは、亡霊先生との交誼を通じて生身先生の嫉妬深さを知っている早蕨君でも容易にわかる状況だったわけですよ」
 そこまで言われると、それもそうか、と納得させられてしまう。亡霊の身であり気楽な私でさえ、早蕨からは、おぬしは相当な焼餅焼きだなと呆れられていたのだ。
〈まあ、いずれにしても、生身の私にとっては、土方から『嫌っていない』と直に言ってもらえた、結果だけを見れば非常に嬉しい事件だった筈です。余り大きくは取り上げられていませんけれどね。……とはいえ、それでもやはり二郎に対しては生身の私もなかなか素直になれなかったようで、次の、野点の会の後の事件に繋がってしまうわけですが〉
「ふむふむ、そう繋げますか。……ええと、二〇〇二年九月三日のお昼の出来事が原因で、五日までごたついた……と言うよりむしろ、内容の深刻さの割にスピード解決した事件でしたね」
 すぴーど解決、というのがどういう「解決」なのかはわからないが、まあ、前後の文脈からすると、恐らく、あっさりとか早期にとか、そういう感じでの「解決」であろう。
〈私は、その九月三日の日中には茶店におりませんでしたので、出来事の始まりの経緯を直接見聞きしているわけではなく、人伝に聞いた話になってしまうのですが……〉
 事の始まりは、例の“厨房の一夜”騒動で色々と懲りた生身の私が、ゴキカブリ根絶を目指して茶店に乗り込んだことにある。……つまり、生身の私は、ゴキカブリが出たが最後、二郎が誰彼構わず抱き付いて大騒ぎになると痛感した為に、そのような騒ぎを誘発する状況を徹底的に除こうと考えたのである。無論、その底には、土方や自分に抱き付かれては困るからという思いよりもむしろ、二郎がそれほど苦手にしているものを茶店にのさばらせておいてはならじという、勝れて義侠、或いは愛情に近い心情があったことは疑いない。生身の私の猛抗議を承知で平易な言い方をすれば、二郎のことが可愛くなってしまったので、彼が苦手な生き物を茶店から追い払ってやろうと思うに至ってしまった、ということである。
 ところが、ゴキカブリ退治の最中《さなか》に生身の私が照れ隠しに口にしていた悪態が当の二郎の耳に入ってしまったことから、話が突然ややこしく深刻になった。生身の私から疎まれていると思い込んでしまった二郎は、向こうの世界で部屋に閉じ籠もった挙句に赤ん坊のような状態になってしまい……己が不用意に発した言葉が元で二郎が大変な状態に陥ってしまったと知った生身の私は、言の葉の無力さに打ちのめされて一時的に口を利けなくなってしまったのだ。……私自身に跳ね返ってくる言い条ではあるが、お互い余り図太い神経の持ち主ではない、という証左であろう。
〈救いだったのは、『うちの伊東を泣かせたのはどいつだっ』と怒鳴り込んできた向こうの土方さんをはじめ、皆が、何とかこの状況を打開出来ないかと懸命に考えてくれたり動いてくれたりしたことですね。……まあ、今だから言えますが、それが、私が後日、茶店や自分の“作品世界”から姿を消してしまった遠因なのですがね〉
 誰からも気にかけてもらえなくなれば、私はこの世に留まれなくなる。この騒動の間、私は、茶店に立ち寄る皆の気持ちが二郎と生身の私の上に流れていってしまって、己が誰からも気にかけてもらえない存在と化してしまったように思われてならなかったのである。
 ……だが、それは、今此処でくどくどと語る話でもなかろう。
〈結局、互いの“作品世界”の土方さん同士が些か強引な手法を期せずして同じ頃に採ってくれたおかげで、二郎も、生身の私も、互いの気持ちを確かめ合うことが出来て、めでたしめでたしの結末に落ち着いたわけですが……って、自分で言っていて何だか微妙に色恋めいた響きを感じますねぇ、“互いの気持ちを確かめ合う”という言葉遣いは〉
 私は苦笑いした。
〈まあ、流れを概観するなら、彼らが“厨房の一夜”で急接近し、このまま巧く行くかなと思ったところで互いが奈落に落ちるような展開になり、それを周囲の応援で克服して以前より強固な結び付きを得るという、いわば“固め”の出来事だったと言えましょう。この出来事で両者の絆が確かなものになったからこそ、やや暫く経って後の、さき嬢の大誤解事件が起こる下地が出来上がったわけですよ〉
「うーん、この事件だけでもないんですがね。二郎先生の幼児退行事件解決後、亡霊先生が行方不明になっていた間、あのおふたり、ずっと茶店で過ごされていましたから。時々、些細な小競り合い、と言うか一方的に生身先生が突っ掛かったり疑ったりしただけですけど、傍から見ると可愛らしいいざこざはありましたが」
〈らしいですね。……ただ、生身の私の代わりにきっちりと申し上げておきますと、生身の私が二郎に対して持っている気持ちは、決して色恋のそれではありませんからね。言うなれば、出来はいいのに手の掛かる弟、折々に足蹴には出来ても蹴り殺すには忍びない弟分、といったところです。……あと、この出来事に関して面白いなと後で考えたことですが、土方と向こうの土方さんと内藤殿、対処の姿勢が随分と違っていましたね。一番じっくりと時をかけて解きほぐそうとなさっていたのが内藤殿。此処を先途と見て取ったら果断で素早くても、最後の詰めでは急がず慎重だったのが土方。全体に於いてかなり性急だったのが向こうの土方さん。根っこは同じでも生きた長さの違いなのかもしれませんし、身近な出来事であったか否かの差が出たのかもしれません。……いえ、内藤殿にとっては他人事に過ぎなかったのだろうと言っているわけではないですよ。ただ、内藤殿は、心配はしつつも距離をお取りになろうとしていたように思えましたので……口では土方に美味しいところを持っていかれたとぼやいておいででしたが、それで良かったのだと思っておいでの節がありました〉
 里長は小さく頷いた。
「隼人さんは既に、陽光の民として生きた時間よりも、月石《げっせき》の民として生きた時間の方が長いお人ですからね。陽光の民同士で解決するのが望ましい事柄には余り深く介入しないようにという姿勢が、コンミン先生ほどではないですが、身に付いている筈です」
〈……正直、その“月石の民”というのが如何なる民なのか、私はよくわかっていないのですが……此処で説明していただくのも筋が違いますよね〉
「そうですね……此処での話に即した形でなるべく簡単に言えば、何らかの事件に介入する場合、事件解決に向けた手助けはしてもいいが事件解決そのものは当事者に任せるべきである、という倫理を持って生きている民です」
 ……余り簡単な説明でもない気がするが、詰まるところ、当事者でないなら手出し口出しをし過ぎてはならないという規範に従って生きているということか。
〈何となく寂しい生き方ですね〉
「いえいえ、他に手がないとなれば陽光の民の為に身を挺して憚らない方々ですからね。……ほら、例えばコンミン先生も、必要とあらば亡霊先生に惜しげもなく体を貸してくださるじゃありませんか」
 ぎく。
 そ、そう来たか……。
 私は引き攣った笑みを浮かべると、おもむろに扇を開き、努めてゆったりと我が身を煽いだ。
〈……その振り方、そろそろ次の出来事の話に移れとのお達しですか〉
「流石は先生、察しのお早い。ええと、先生の選ばれた次なる事件は、二〇〇二年九月二十三日から二十五日にかけて起こった、俗に“さき嬢の大誤解事件”と呼ばれる事件でしたね」
〈……私がもっと早く誰かに真相を話していれば、あんな事件にはならなかったとの声も、確かにありますが……〉
「それでは読者にとって話が面白くならなかっただろう、という先生の仰せは私にもわかります。ま、それはそれとして、あの時の秘話などあれば、振り返っていただけませんか」
〈秘話……というほどのものは記憶にないですね……私はあの時、専ら、さき殿か有希殿の傍らにおりましたから……私が見聞きしている話は大抵方、皆さんも御存じの話でしょう〉
 それを聞くと、里長は「ほお」と言う形に口を窄めた。
「それは初耳ですね。どうしてまた」
〈勿論、その方が面白そうだと感じたからですよ〉
 私は扇を閉じ、腰に戻しながら応じた。
〈生身の私や二郎の言動は、根が同じだけにある程度読めてしまいますから、引っ掻き回す隙がない時には、面白みは存外に少ないものなのですよ。でも、女人の方々の言動は、時として、思わぬ方向に転がって面白くなるもの。あの時はまさにそうでした。……あと、ついでに言うなら、有希殿には洩れなく、向こうの土方さんも付いてきます。……無論、我が魂に刻まれた相手は土方以外にはいませんが、向こうの土方さんに会えるのは茶店にいる時だけですから。……突っ込まれる前に言っておきますが、浮気ではありませんよ。言わば、仔犬が、嫌そうな顔をしながらも遊んでくれる子供に、遠慮しつつもじゃれついているようなもの〉
 生身の私などからは「お前の何処が仔犬だ」と呆れられそうな気もするが、土方なら苦笑しつつ同意してくれるだろう。何しろ、亡霊となり果てた私を最初に“仔犬”に喩えたのは、他ならぬ土方なのだから。
「まあ、土方さんは先生方ほど焼餅焼きではありませんし、それに、向こうの土方さんは、隼人さんとは違って、先生方にちょっかいを出してくる懸念もありませんからね。……さて、話を戻して……ということは亡霊先生は、常に御婦人方の話を立ち聞きなさっていたわけですか」
〈ひ、人聞きの悪い〉
「座って聞いていたという言い訳はなしですよ」
〈人聞きの悪いと申し上げただけで、やっていないとは申しておりませんよ。……いやいや、しかし、あのような誤解をなさるとは、さき殿も隅に置けぬような……い、いえいえ、無論、二郎めが転倒した生身の私に縋り付いていたのを見てしまった印象が余りに強過ぎたせいで、その後の彼らの会話まで念縁絡みのあれやこれやと誤解してしまったのだとは、私とて、ちゃんとわかっておりますからねっ〉
「そんなに力説なさらなくても」
 里長は苦笑する。
「あの会話を書き取った時には、私も流石に、読者までもが誤解しないよう、ちゃんと注釈付けましたから」
〈誤解だとわかって聞いている身には、結構面白かったんですけどねぇ。……結局、さき殿のお悩みが有希殿にまで伝染してしまって、土方までもが訳もわからず避けられるに至ってやっと、これは何やらおかしいと睨んだ土方が本気を出し、解決に向かうことになった次第です〉
「亡霊先生が絞め上げられてですよね」
〈……くすぐり回されてですよ〉
 訂正しておいて、私は、首を竦めた。
〈まあね、私も、何処かで話さなければなるまいなと思わないでもなかったんですが……〉
 だが、黙っていることで、私だけが真相を知っているのだという嬉しさを少しでも長く味わいたかったのも確かだ。“私だけが真相を語れる”という状態が続くことによって、それだけ私の存在意義も大きく重くなるように思えたからである。
 けれども、結局はその為に私は、土方からは真相を白状するまで“拷問”され、真相を知った生身の私からは“仕置”され……身から出た錆とも言うべき結末を我が身に招いてしまったわけだが。
〈白状したらしたで、皆の前で洗い浚い話せと、憑依の対象としてコンミン殿まで呼ばれてしまって……あの方がまた結構な面白がり屋なものですから、ちゃんと私の姿でお見えになって……〉
「コンミン先生、わざわざ皆に“自分は月石の民だから多少の生傷もすぐに癒えるし、そもそも憑依させている間は自分は痛くも痒くもないから好きにしていいよ”とお断わりになってから、亡霊先生にお体を貸してくださったんですよね」
〈だから、話をした後で生身の私からしこたま蹴り回されてしまったんですよっ。……でも、私にとって、この騒動で得た何よりの宝は、土方が笑いながら言ってくれた、『いても騒動の種、いなくても騒動の種、同じ騒動の種なら、いて蒔いてくれる方が有難い。すぐ成敗出来るからな』という言葉でした〉
「亡霊先生雲隠れ事件の直後でしたから、土方先生も思うところがおありだったんでしょう」
〈そうですねぇ。……まあ、この騒動では、生身の私は、何のかんの言っても、その場で私を“成敗”して発散出来ましたから、余り尾は引かなかったようです。むしろ、土方の方が、後から徐々に応えていたようで……さき殿や有希殿から、生身の私と念縁を結んだことがあるという誤解の目で見られていたことに対してね〉
 ただ、土方にしても、直後に別の小騒動──生身の私による早蕨号の連れ出し事件──が勃発したせいで、余り長くはその件を引きずることはなかったようではあるのだが。
「確かにそれは比較的に小事件ですね。後の大事件の発端にはなりましたけど……こうして眺めてくると、生身先生って結構、カッとなっての思い切った行動に出られることが多いですよね。割に思慮深そうに見えるのに」
〈……あのですねえ、里長殿は疾く御承知のことでしょうが、読者に誤解されないよう申し上げておきますと、生身の私が頭に血を上らせて見境をなくすのは、本編でも茶店でも、土方のことが絡む時だけですよ〉
 私は嘆息を洩らし、次いで小さく笑った。
〈もっとも、だからこそ、悪戯好きの内藤殿からは、いいようにからかわれてしまうのですがね。……という訳で、四連続で語る事件の内、最後の出来事を〉
「はいはい」
 里長はそこから暫く帳面をめくり、「……ああ、亡霊先生は、写真の撮影現場そのものは御覧になってないんですよね」と呟いた。
「出来事そのものが起こったのは二〇〇二年の十一月五日なんですが、その原因になった土方先生と二郎先生の密着ツーショット写真が撮られたのは、十一月三日の深夜。土方先生お手製の鍋を、幕並組の皆さんあーんど隼人さんと囲んだ時で」
〈……いいんですよ、私だって、翌日ほぼ一日じゅう、宿所に戻ってきた土方の背中に密着して過ごしましたから〉
「で、悪戯好きの隼人さんが、デジカメで撮った写真を翌日の内にプリントして、五日の朝、わざわざ宿所に持ち込んだんですよねぇ。この時、亡霊先生は既に茶店にお出掛けになっていたので、これまた目撃出来なかったわけですが」
〈……いいんですよ、生身の私の言動なら、別段聞かされなくても大概見当が付きますし、昼過ぎに茶店にお見えになった内藤殿からも伺いましたから〉
 私は、殊更に拗ねた声と顔を作った。
〈それに、本当に此処で語るべき“事件”になったのは、内藤殿の訪ねてきていた茶店に二郎がやってきて、その夜に蟹鍋を囲んでいたところへ生身の私が踏み込んできて、そこへ……というところからですしね〉
「二郎先生が夜まで居残られていたのは、亡霊先生がお引き留《と》めになったからとゆー話もありますが?」
〈幾ら私に引き留められようと、帰りたければ帰っていますよ、二郎は。思うに、茶店で楽しそうに過ごしていた有希殿にも気を遣ったのではないですかね。向こうだと、有希殿も、色々、表に出せない気苦労があるでしょうし……此処へ来ている間なら、或る意味、気の置けない者しか周囲におりませんから〉
 勿論、ひと騒動を期待して引き留めていたということを否定するつもりは毛頭ない。生身の私なら、ひと頻り土方を詰れば今度は茶店へ二郎の様子を窺いにやってくるだろう……と踏んでいたからである。
〈内藤殿もおっしゃっていましたしね。『帰りに茶店に寄って、向こうの伊東が茶店に来たら早速これを見せてやるんだ〜と言い置いてきたからな。絶対、今日の内に、生身の奴、踏み込んでくるぞ〜』と〉
「隼人さんも、茶店では、亡霊先生に次ぐ悪戯好きの御仁ですからねぇ……」
〈私が一番だと?〉
「頻度を見れば、そう申し上げるしかないかと。……先生は、隼人さんに比べると、茶店滞在日数も長いですし」
 ……まあ、確かに、仕掛けた悪さの数だけを見れば、そうなるか。内藤殿は余り“居候”状態にはならないから、しばしば茶店に入り浸っている私よりも、悪戯を仕掛ける回数は少ない。
「ただ、隼人さんの場合は、先生とは違って、自分が悪戯の標的にされるのはお好きではないようですよ」
〈私だって、他人から虚仮にされるのは好きではありませんよ。……もっとも、亡霊は、生者から構ってもらえないと弱ってしまいますのでね。からかわれたり意地悪をされたりする方が、存在を忘れられるより百倍はマシです。……では、そろそろ、生身の私が茶店に踏み込んできたところへ話を進めまして〉
 あの時は、内藤殿が悪戯心を遺憾なく発揮して二郎を自分のすぐ傍らに座らせており、為に生身の私は余計に頭に血を上らせてしまった。……生身の私にとっては、内藤殿も、土方に準じる相手。程良く酔った二郎がのほほんと隣にくっついて座している有様を目の当たりにして見境をなくしたのは無理もない。しかも、その時の生身の私は、土方と仲好くひとつ写真とやらに収まっていた二郎を見せられたばかりだったのである。
〈……二郎もねえ。ああいう時には理路整然と釈明してくれれば良いものを、“兄上にならば成敗されてもいい”などと変なところで従順に過ぎる態度を示すものだから……生身の私も、却って引っ込みが付かなくなってしまうんですよねえ〉
「でも、そういう時は、誰かが必ず止めに入るものですよ」
 里長は苦笑した。
「見境をなくした生身先生が自力では冷静さを取り戻せなくなるのは、大抵、土方さんか隼人さんがその場で見ている時ですから。……恐らく、御自身で意識されていない深層心理で、止めてもらえることを期待しておいでなのでしょうね。それと同時に、私はあなたのことが絡むとこんなに見境をなくしてしまうんですよという一種の訴え掛けと言うか、示威行為なのかもしれませんね。……あくまでも、御自身では気付かれていない心の動きですよ」
 要は、生身の私は、自分がそうして荒れることで、自分が土方ゆえに荒れてしまうのを止めてくれと当の土方に向かって訴えている、ということか。
「そうですね……もっと言えば、自分の暴走を止めてほしくて、リミッターを自ら解除してしまうと」
〈りみ……?〉
「先生にも伝わる言葉だと、うーん、自制の箍を自分で外す、でしょうか。普段の状態であるなら、これ以上は言ってはいけない、やってはいけない、という自制が働くものですし、先生方はどちらかと言えばその自制心が強いお人なんですが、特定の条件が揃うと、自らその自制を吹き飛ばしてしまう」
〈……それって、もしかして、そうやって二郎に対して激しい態度を向けることで間接的に土方や内藤殿に甘えている、と言えませんか?〉
「その通りです」
 うーむ。
 作者である里長が言うのだから、それは恐らく正鵠を得ているのだろう。
〈……私は、そういう大人げない甘え方はしないですね〉
「亡霊先生の場合は、そんなことをしなくても土方さんに上手に甘えられますからね」
〈どうですかねえ。土方に甘えるのが一番上手なのは、私に言わせれば、二郎ですよ〉
「二郎先生がですか」
〈意識して甘えているわけではない、けれども何とも無邪気に色々な要求をして……いえ、言葉で何かを要求するということは殆どないのですが、何くれとなく世話を焼きたがる割に相手からうるさがられず、そして自身が何かしらの気遣いや愛情を必要としている時には素直に寄りかかって……結果として、一番すんなりと我儘を聞いてもらえている。あの警戒されなさは異様ですよ〉
「二郎先生は、土方さんにとっては子供のような相手ですから」
〈……あ、それでひとつ思い出しました。土方が以前、二郎のことを『女子供と変わらん』と言ったのですが、それがどういうことかを問い質す機会もなく、今に至っているんですよねえ〉
「問い質すも何も……先生、既に御自身で気付いておいででしょうに」
〈は?〉
 私は首をかしげた。
〈私がもう気付いていると?〉
「先程先生御自身が二郎先生の甘えっぷりを色々と評された、そういうところがまさに、土方さんにとっては、無邪気な子供のように思えるんですよ。時々困惑させられることはあっても、利害の対立するおそれも危害を加えられるおそれも全くない、そして驚くほど素直に甘えてはくるけれど媚びることはなく、甘え過ぎることもない、つまりは限りなく無害な“いい子”です」
〈……だったら、単に“子供”と言えばいいでしょうに……“女子供”などという語を用いるから、どういう意味かと気になったのではありませんか〉
 私は、この場にいない土方に向かって口中で文句を言うと、かぶりを振った。
 が、里長にはちゃんと聞こえていたらしい。
「土方さんが“女子供”という表現を用いられたのは、先生方に対する気持ちほどの重さはない感情なのだということを先生方に示す為ではないですかね。亡霊先生に向かっておっしゃられたんでしょう? 他の相手、ましてや当人に向かってなら、そういう、相手を軽んじていると取られかねない言葉はお使いになりませんよ」
〈……はあ〉
「もっとも、土方さんの気持ちの重みの差には、向こうの二郎先生も気付いてはおいでです。かつてキリ番リクエスト短編『厨房の一夜』で生身先生に向かって語られていた通り。……さて、そろそろ話を戻しませんか。修羅場になりかけたところまでは来てましたが」
 う。そうであった。
 私は小さく咳払いをすると、語りかけていた出来事の方へ頭を引き戻した。
〈いやはや、生身の私が刀の柄に手を掛けんばかりの態度を見せても内藤殿は楽しげな笑みを浮かべたまま止めようとなさらないし、二郎は二郎で弁明しようとすらせず首を素直に差し出さんばかりに畏まるし、有希殿は流石に割り込める筈もなく凍り付かれるし、どうしたものかと思ったところへ、折良く向こうの土方さんが訪ねてこられまして……流石と申すべきか、素早く場の荒れを察して咄嗟にか生身の私を羽交い締め。ところが思わぬ制止を喰らって生身の私が却って暴れ始めたものだから、内藤殿が『耳に息を吹きかけてみろ』との御提案を……今にして思えば、内藤殿は、向こうの土方さんがすぐそこまで来られていると気付いておいでだったのですね。だから敢えて割り込まず、向こうの土方さんに任せてしまった〉
「隼人さんは、いわゆる“地獄耳”の持ち主ですから」
 里長の言葉は、間接的な肯定であった。
〈しかし、よりによって向こうの土方さんにそれをやらせてしまった内藤殿も内藤殿ですが、頭に血を上らせて暴れている相手を一瞬で腰砕けにさせてしまった向こうの土方さんも土方さんで。いや〜もう〜、到底、我ら如きの“良からぬ指”などの及ぶところではありませんよ。ふふふふ……〉
 もっとも、その絶妙なる“耳ふー”の一件が原因で有希殿の御機嫌が斜めになってしまい、後々少しばかりの間、各方面が色々な痼を引きずることにはなった、そういう点では、微妙に後味の良くない出来事ではあったとも思う。
〈内藤殿が二郎を隣に置いていたのは、生身の私に焼餅を焼いてほしかったからでもあるようですね。ただ、ひと頻り笑い転げた後で、同席していた有希殿の御機嫌が悪くなっていることを察し、内心しまったと感じられていたようですよ。……いや、内藤殿は口にはされていませんでしたが、表情と視線の動きとでわかりました。多分、その辺りも気まずくて、後日暫く、茶店に顔を出さずにこそこそなさっていたのではないかと……もっとも……〉
 勿論、一番の原因は、生身の私の二郎への妬きっぷりが結局は土方ゆえであるのだというところに思いが到ったからであろう。
「……はあ。隼人さんがハッキリそうとおっしゃったわけではないようですが?」
〈推理の範疇ですよ〉
 私は静かに応じた。
〈私も今は、あの頃よりも、内藤殿の御性分をより理解しておりますから。そもそも、奇妙ですものね。あれだけ笑い転げて喜んでいたにも拘らず、その後暫く、ふいと茶店に顔を出されなくなってしまった。生身の私に向かって、焼餅を焼いてくれて嬉しかった、という話までしていたのに。……その後ふたりで何処にしけ込んだかは存じませんが、もしかしたら何もなかったのかもしれず……いや、内藤殿の方が先述のことに気付いて気が引けてしまい、結局、事に到ることなく夜が明けたのかも……と好き勝手な想像なぞしておりますよ〉
「いやー、あの頃はですねー、丁度、私の初代兼定君がハードディスクトラブルを起こして……手を尽くしたものの結局入院という羽目になってしまったんで、そのせいもあって、隼人さんを貸切部屋へ登場させられなかったんですけどね。……でも、まあ、亡霊先生の推理は概ね間違ってはいません」
 兼定……というのは、あの当時に里長が使用していた“ぱそこん”に命名していた名である。難しいことはわからぬが、その“ぱそこん”なる絡繰りがなければ、茶店で我々が言葉を発することも、茶店の出来事帳を拵えることも出来ないらしい。
「先程も別件でお話しした通り、隼人さんは月石の民として生きてきた時間が長いお人ですから、陽光の民とは余り深い関わりを持ってはならないと自分から一線を引いてしまうところがおありです。元々が、感情に流される時もありますが、基本的には理性の勝《まさ》っている御仁ですし」
〈そうですね……基本的には〉
 私は小さく笑った。
〈だからこそ、からかい甲斐があるのですが……“一体何処を触ったの騒動”は、残念ながら、十の出来事の内には惜しくも採用出来ませんでしたからねえ。……さてさて、広く浅くと心懸けながら、ようやく此処まで参りましたね〉
「うー、とっくに五〇キロバイト超えてますがなー。少しでも短くする為に、合間の休息部分を削りますかね。一気に語ったように読めるように」
 折々に入っている小休止を省いてしまう、ということか。……まあ、休息の間の諸々はこの語りの元々の趣旨から随分と逸脱している内容が主であるから、仕方あるまい。そもそも、「一気に」「ひと息に」語ると宣言しておきながら実際には語り終えるのに何日も何日もかかってしまっている部分もあることだし……。
〈里長殿にお任せしますよ〉
「折角語っていただいたのに済みません。それでも、全体を推敲したら、言葉足らずの箇所を補っていく内に元の分量より増えてしまう可能性の方が高いんですけどね。……じゃあ、最後のひとつの出来事を語る前に、長めの休憩を入れておきましょうか。亡霊先生もお疲れでしょうし」
〈……その休憩中の出来事部分も、削除の対象ですか?〉
「そーですね、それなりに纏まった内容になれば、残します。とはいえ、全く関係のない展開に終始すれば、当然、ばっさり削りますよ」
〈了解しました。では、お言葉に甘えて、しばし〉
 私は軽く一礼して立ち上がると、部屋を出て宿所へ戻った。茶店に滞在している土方の所へ戻るのは、全て語り終えてからと決めている。……実は、年越しの会の時には里長の許し……と言うよりは「これは出なきゃ駄目でしょう」との参加勧告があって茶店に赴いてはいたのだが、年明け早々にこちらへ引き揚げた。楽しさに負けてずるずる居着いてはならじと、後ろ髪を引かれる思いで……。
「あれ──兄上? 珍しい、こんな時間に宿所にいらっしゃるとは」
「えっ、伊東先生が見えるようになったんですか、三木さん」
「いいえ、見えるわけではないんですが、近くにおいでになるとわかるようになってしまって。……沖田さんに感化されたのかな」
「沖田君は特別鋭いからさ。うー、つまんねえなあ、俺だけ、いつまで経っても先生の居所がわからねえなんて」
「でも、その分、藤堂さんは、一番沢山、直接兄上と話が出来るじゃありませんか。羨ましいですよ」
〈……こちらから触れない限り“声”が届かないからね、君達には。……藤堂君に対しては特に負債があると思っているし〉
 ひとりごちながら、私は、少し拗ねたような表情をしている藤堂君の傍らに腰を下ろし、弟・三郎と、にこにこしている沖田君とを見やった。この宿所に暮らしている沖田君と藤堂君は、土方や生身の私同様、命を落とす少し前辺りの時間軸とやらから切り取られてきているし、三郎は、白井匡輔君同様、物語に最後に登場した辺りの時間軸とやらから切り取られてきている。ただ、沖田君は随分と養生が進んでいて、今ではこうして、余り激しい動きをしない限りは普通に起き出して過ごせるようになっている。
〈それにしても、最近、此処へ来るといつも君達に会う気がする〉
 藤堂君の肩に手を置き、生気を分けてもらいつつ皆に姿を見せてから、私は言った。
 そう、このところ、この三人はしょっちゅう、此処、すなわち生身の私の部屋で屯《たむろ》しているのだ。
 どうも、生身の私が茶店への居候を決め込んでから主不在となっているのをこれ幸いとばかり、他の者には聞かれたくないような話をする時に使っているらしい。
 ……実は、この三人には、或る共通点がある。
〈まあ、生身の私に一々告げ口したり咎めたりするつもりはないけれど。生身の私も、そもそもが、留守の間に入り込まれて困るような暮らしはしていない筈。……しかし、皆、何故わざわざ此処を選んで集まるのだか……〉
「それはもう、伊東先生の内緒話を心置きなく語り合える相手がこんなにいたんだと思うと、集まりたくもなりますよ」
 藤堂君は苦笑した。──私の発する言葉自体は、直接私の“声”を聞いている藤堂君から他の二名にその都度伝えられている。
「皆が皆、それぞれに、誰にも話しちゃいけない、気付いていると先生に気取《けど》られてもいけない、と思っていたわけですし。“実は気付いていた”者同士で、言葉は悪いですが先生を肴にするなら、やっぱり、先生のお部屋でないと」
 ……そう、この三人に共通しているのは、「実は」私の土方への懸想に「気付いていた」けれど私が生きている間は誰にも言えないまま終わった……という境遇に在ったことである。
〈うーん……そんなものかな……私の想いに気付いていたのは、君達だけではないのだが……〉
「気楽に話せるかどうかは、また別なんですよ、兄上」
 私の言葉を藤堂君から伝えられた三郎が、小さく笑う。
「例えばですが、篠原さんを此処へ呼んで話をしたら、面倒なことになりかねませんよ。お姿を見られるおそれのない今の兄上ならまだしも、御生前の兄上が暫く宿所に戻ってこられなくなってしまうかもしれない」
 ……まあ、確かに、篠原さんは私の土方への諸々に苦言を呈し続けていたから、若人達がこうして気楽に集っては私の懸想を肴にしていると知ったら、またぞろガミガミと小言の嵐を……いや、此処だけの話、生身の私は、今でさえ折々に「まだあの男に血迷っとるとですかっ、いい加減で目をお覚ましなさいっ」と小言を言われ続けているのだ。……このところ生身の私が茶店に居候し続けているのは、篠原さんの小言から逃げる為でもあるかもしれないと、私は思っている。三郎の言う通り、亡霊である私の方は篠原さん達生前の同志達──私がこうして亡者となったことを知っている藤堂君と三郎を除く──には全く姿を見せないようにしてきたから存在自体彼らに知られてはいないが、生身の私では流石にそうは行かぬ。この宿所は、顔を合わせると本当に血の雨が降りかねない相手と行き会うことはない場所ではあるが、篠原さん程度の小言の主からまで都合良く逃れられる場所ではないのである。
「そう言えば、最近、茶店の方は随分と穏やかなようですね。土方さんも伊東さんも戻ってこないし。……おふたりとも、ちょっとでも居心地が悪くなれば、すぐにこちらに戻ってほとぼりを冷まそうとなさいますから」
〈それは、私が引っ掻き回さないからかもしれませんね〉
 沖田君の言葉に苦笑しつつ、私は応じた。
〈今は、宿題を抱えている私がこうしてこちらに籠もり切りになっているから、生身の私も心穏やかに過ごしている……のではないかと思いますよ〉
「え? 兄上、ずっとこちらにおいでだったんですか?」
〈正確には、里長の所と言うべきかな。宿所には、休息する時しか立ち寄らないし。……茶店には暫く出掛けていない〉
「宿題って何の宿題なんですか、兄上」
〈うーん……里の茶店での何年か前の出来事を十件ほど振り返るという主旨で話をしているのだが……なかなか終わらなくてな〉
「茶店のですか……私達は茶店には顔を出していませんから、何も兄上のお手伝いは出来そうもないですね」
 三郎が些か寂しそうな表情で呟く。私はかぶりを振った。
〈いやいや、これは私が仕遂げねばならぬことだから〉
「茶店、何だか面白そうだし、たまには覗いてみたいなと思うこともあるんですけど」
 藤堂君が悪戯っぽく笑う。
「里長の許しが出ないんで……あの物騒な白井君が時々でも出入りを認められるのに、何で、こんなに無害な俺達が出入りしちゃ駄目なのかなあ」
〈……禁じられていると?〉
 白井君の話題には敢えて反応せずに尋ねると、藤堂君は頷いた。
「話がややこしくなるから、とか、これ以上に人が増えたら大変だから、とか言われて」
「私の目から見れば、亡霊となられた兄上と御生前の兄上とが一緒の場所においでになるのも、相当ややこしい話だと思うんですが……私はお目にかかったことはありませんが、“向こうの”兄上もお越しになると伺っておりますし、都合三名の兄上が同じ時に同じ場にいらっしゃることも珍しくないとか。皆さん、混乱なさらないのですか?」
〈そうでもない。……私は、姿を見せている時でも、こうして透けている。それに、生身の私と“向こうの”私とでは、纏っている雰囲気が明らかに異なる。此処で二郎に会ったことのある沖田君なら理解してくれるとは思うが。……三郎、お前達とて、私と生身の私とが同じ時に同じ場にいることに慣れているであろう? 向こうでも事情は同じ。初めて訪れた者は戸惑うこともあるが、じきに、そういうものかと慣れてしまうものだ〉
「ああ……そう言われればそうですね」
 三郎は、はにかんだように笑った。
「いつかは、せめて、噂の“過去ろぐ帳”とやらを拝見したいものです」
「……伊東さん、そう言えば今、里長の所で茶店の出来事を振り返っているということは、その“過去ろぐ帳”を元に色々と話をなさってるんですか」
 沖田君の問い掛けに、私は頷いた。
〈里長の所には、茶店に置かれているのと全く同じ出来事帳が常備されていますからね〉
「じゃあ、今、里長の所へ行けば、拝見出来るかもしれませんね」
「あ! そうか、里長の所へ戻る伊東先生に付いていけば、読めるかもしれねえ! 行きましょう先生、きっと、そろそろ戻れと里長から催促が来てますよね」
〈え……え、ちょっと待ちなさい、藤堂君……〉
 思わぬ展開に、私は若干うろたえた。確かに、意識の片隅に、そろそろ戻ってこーいという里長の念が引っ掛かってはいるのだが……このまま、場の勢いに負けて若人達を伴って戻るのは拙いのではあるまいか?
「そのことなら多分大丈夫です、伊東さん。絶対に都合が悪いと思えば、里長は何が何でも阻止しますよ。でも、今のところ、邪魔が入る気配はないようですし、ということは、里長もこの展開を容認しているのではないでしょうか」
 にこにこしながら、沖田君が指摘する。……むむむ、そうかもしれぬ。何事かが物語の登場人物の思い通りになっては絶対に困るという場合、里長は必ず邪魔を入れてくる。『まなざし』本編に於いて私が土方を“私のもの”に出来なかったのが、いい例だ。
「三木さんも行きましょう、里長の気が変わらない内に。向こうでの皆さんの姿を垣間見る、滅多にない機会ですよ」

「……って、それでみんな連れてきちゃったんですか亡霊先生〜」
 里長は苦笑いを浮かべた。
「余り吹聴しないでくださいね、私の所にも茶店の過去ログ帳があるってこと。茶店に行けねば読めないと思われていればこそ、茶店に出入り出来ない面々は、自分達には読めないものと諦めていられるんですよ」
「済みません、我々が伊東さんに我儘を言ったんです。勿論、我々三人だけの秘密にしておきますから」
 沖田君は至極嬉しそうな顔で、帳面の背表紙を眺めている。……藤堂君と三郎は、分厚い帳面を、それぞれ既に読み耽っている。ふたりが違う帳面を手にしているのは、藤堂君が“あらまし頁”を流し読んでいる一方で、三郎の方が頭からまともに本文に取り組んでいるからだ。……読み始めた最初こそ、左から右へと異国の文章のように横書きされている文章に悪戦苦闘していたものの、そこは私に倣って異国の言葉も些少は学んでいた彼らだけに、じきに慣れてしまったらしい。
 余談だが、此処、里長の執筆部屋へ来ている間は、私が特段の努力をせずとも私の姿は誰にでも見えるし、私の“声”も問題なく届くのだそうである。周囲の者にとっては、姿が透けて見えることと生半可なことでは触れられないこととを除けば、生身を持っている相手と余り変わりないわけだ。
「大丈夫ですよ、本編でも、伊東さんの秘密に口を閉ざしていられた我々です」
「と信じることにしておいて……それでは先生、いよいよ、最後のひとつの出来事について語っていただけますか」
〈はい。後に、ほぼ年末の恒例行事となった、年越しの会についてですね〉
「終わった時には、万年貸切部屋の外ではとっくに年が明けているんですけどね。……例年、ちゃんと年明けに年明けを迎えられたことがないという」
〈それは例年……が潰れてしまわれるからではないかと……いえいえ、もごもご〜〉
「……なに、時間差はあれ、私も例年、潰れてますから。第一、時間の流れを無理に外に合わせて年内に終わらせてしまう方が余程つまらないでしょう」
〈里の外では私や土方に縁《ゆかり》の土地への遠出もしているようですから、始終あの部屋の様子を書き取ることも出来ないし、お疲れにもなろうかと承知はしておりますよ〉
「二〇〇二年の末には、宇都宮へ出掛けましたね。白牡丹さんは、その前日に深川にも立ち寄られていましたし、年明けには日野へ行かれていましたし。……さて、里の外の時間では二〇〇二年の十二月二十九日に書き込みが始まった“年忘れ”の会だったのですが、進めている途中で越年してしまうことが確定、済し崩しに“年越し”の会になりまして、それに合わせる形で、茶店の中では有耶無耶の内に十二月三十一日の出来事と相成りました。ええと……この年の趣向は、闇鍋でしたね」
〈はい、闇の中で鍋を囲んで箸を入れ、一度箸でつかんだ物は何であろうと必ず口に入れる……という、些か野蛮な香りのする鍋です〉
 本来なら闇鍋は、とてもではないが食せた物ではないという代物を持ち寄り放り込んで楽しむ──内藤殿の持ち出した例えを借りるなら、「泥まみれの草鞋が入ってよーが、一か月着けっ放しだった下帯が入ってよーが、箸でつかみあげたら最後、絶対に口にする」──鍋である。しかし、妙齢の女人が共に囲む鍋の席なのに、余り吐き気を催すようなゲテモノを入れてしまうわけには行かない。そこで、そこそこのゲテモノに加え、各人が考えてきた籤の中身──「何々しろ」という命令──を示す木札を魚の擂り身団子に仕込み、引き当ててしまった籤の指示に従う、という形を取ることにしたのであった。
 余談ながら、この“籤を引き当てる”という趣向は、参加当事者からの好評を博したことにより、以後、例年踏襲されている。
〈一応、私などは、誰それに当たればいいなと期待しながら籤の中身を考え拵えたのですが、これがなかなか期待通りには当たらないものでして……〉
「籤の内容の恣意的な適用を避ける為、参加者に割り振る番号共々、裏でCGIの乱数籤を走らせて決めてますからね。次は誰が“当たり”を引き当てるかということだけは場の流れやバランスを見て決めてますが、当たってしまう籤の内容については、例えば四番の人が『四番の人から“ほっぺにちゅう”してもらう』を引くなど、引き当てても実行不可能なものが出てしまった場合、及び、既に出た内容が出てしまった場合を除き、乱数籤の引き直しはしていません」
〈……その“しいじいあいの乱数籤”なるものが何なのかが私にはわからないのですが、読者には通じるのですよね?〉
「多分。……籤である、という点だけ理解しておいていただいても、何ら問題ないですよ」
 と、里長は肩をすくめた。
「亡霊先生は、闇鍋自体はつつけませんから、観察中心だったかと思うんですが」
〈闇でも見通せますからね〉
 唇を薄く緩めながら、私は応じた。
〈あの場の参加者の中では、コンミン殿と内藤殿も実は闇を見通す力をお持ちで、それが最後に騒動の種になったわけですが……まあそれはさて置き、あの闇鍋は、運の偏りが非常に激しい代物だったように思いますよ。土方は自身が持ち込んだ屯所の豚肉をはじめゲテモノばかり引き当てるわ、向こうの土方さんはその御身に害を被るような内容の籤ばかりに縁があるわ……その一方で、倫命《りんめい》殿は悉くと言いたくなるほどするりと災難から逃れ、有希殿は“次の犠牲者が出るまで”という指定のある受難系統の籤三本の内の二本までに絡まれ……〉
「確かに、有希ちゃんのあの当たり方は凄かったですね〜。しかも、その命令には必ず隼人さんが絡んでいて、為に、向こうの土方さんが大急ぎで“次の犠牲者”になろうと籤入りの擂り身団子を探しまくるという……」
〈そうそう。何故ですかねぇ、土方が相手だとそこまででもないのに、内藤殿が相手となると俄然ムキになるんですよ、向こうの土方さんは。くくくく。二度目の時など、文字通り血眼で鍋を引っ掻き回して擂り身団子を探していらっしゃいましたねぇ〉
 一度目は、内藤殿と有希殿が単に手を繋ぐだけのことであった。が、二度目の時は、内藤殿──だけではなかったが──から有希殿が脇腹をくすぐり回されるという展開。考えようによっては、手を繋ぐよりも余程、危なっかしい。向こうの土方さんが焦って必死に鍋を掻き回してしまったのも宜なる哉と言うべきか。
「──ところで、その“次の犠牲者が出るまで”ネタ三本は全て亡霊先生がお考えになったネタと覚えておりますが?」
〈さ、さーてー、そんな闇鍋も、実は闇を見通す力をお持ちの内藤殿が比較的まともな食材ばかりを拾っていたことが、最後の最後になって発覚〜。内藤殿が皆から、と言っても実態は土方と向こうの土方さんと有希殿だけでしたが、寄って集《たか》ってくすぐり回されるという制裁を受けて幕を閉じたのでした〉
「おや。二郎先生や生身先生は?」
〈色々と遠慮があったんでしょうかねえ、加わっていませんでしたよ。さき殿や倫命殿、コンミン殿も、見学組で。まあ、倫命殿は別段災難を被ってもいませんから、制裁に加わるほどの恨みもなかったでしょう。有希殿が加わっていたのは、恨みと言うよりも直前のお返しという感じでしたね。……ああ、そうそう、そう言えばミケ殿も紛れ込んでいましたよ。食後の腹ごなしだにゃ、と呟きながら、皆の手をかいくぐりつつ内藤殿の体の上をとたとたと器用に歩き回って……いや、あれはあれで、内藤殿を皆のくすぐり攻撃から少しでも守ろうとしていたのかもしれません。ミケ殿や早蕨は、内藤殿から鍋のお流れを貰っていましたから。勿論、ゲテモノではなく、まともな食材ばかりをね。内藤殿というお方は、あちこちにきちんと目配りをなさるんですよねぇ、ああいう時には〉
 私は、ひとつ伸びをして座り直した。
〈さあ……これで十件、これで全て。……広く浅くと心懸けた代償でしょう、長かった割に、盛り上がりもなく淡々としていて、読み物としては不出来ではないかという気が致します。つくづく、申し訳ないことです〉
「そうですねー、ざっと読み返した感じ、推敲しても、余りテイストは変わらないのではないかと。……ただ、亡霊先生の視点から語っていただくことで判明した事柄が多少なりともありますから、実《み》のないお勤めではなかったと思いますよ」
〈そう言っていただけると、少しは救われます……〉
「……では、最後に、選んだ十件を時系列順に並べておきましょうか」
〈そうですね……〉
 私は小首をかしげた。少しの間考え、それから、微苦笑と共に告げる。
〈折角ですから、最初に皆でわいわいと騒ぎながら選《よ》り出した七十八件の出来事も、その後ろに並べませんか〉
 ……そう。実は、この十件の出来事を語り出すまでの過程の中で、十件の出来事を選ぶ前段として、兎にも角にも気になった出来事を、あの部屋に出入りしている人々の手を借りて片端から拾い上げており……その件数が何と七十八にも及んでいたのである。
 里長はわずかに顔を引き攣らせた。
「げー、あの長大なリストをですか……んー、まあ、とっくに六〇キロバイトも超えてますから、今更、長くなると嘆くでもないですが」
〈済みません。ただ……あの七十八件も、時の流れを追って流し読むと、色々懐かしい気分になれるかもしれませんよ〉
「それは確かですね。では、まずは、今回亡霊先生がお選びになった、二〇〇二年度十大事件のリストを」
 里長は、私から話を聴き取る時に使っていた紙切れを、ぽんと書き取り帳面の上に置いた。

 2002/07/29
   土方さんと有希殿がひとつ床に……おろおろしつつも、見〜ちゃいました♪
 2002/08/06
   向こうの私が土方さんに縋り付いて夜明かししたものですから、明け方に生身の私に殴り込まれまして……
 2002/08/16
   内藤殿に追い出されてしまったので現場は見てませんが、戻ってきたら土方さんが凍り付いていて……
 2002/09/01
   野点の会で、向こうの土方さんと……うう、我慢我慢……
 2002/09/03(〜09/05)
   向こうの私が、生身の私の発言を誤解したことから大変なことになりまして……
 2002/09/23(〜09/25)
   さき殿が、生身の私と向こうの私の関係を思いっ切り誤解なさいまして……ぷぷぷ……うう、でも何で私が……
 2002/10/07(〜10/11)
   記憶喪失で戻ってきた生身の私が、向こうの土方さんにひと目惚れ♪
 2002/11/05
   生身の私が“つうしょっと写真”とやらに激怒して踏み込んできたんですが、向こうの土方さんに“耳ふー”で瞬殺されまして……
 2002/12/31
   年忘れの宴……え、茶店の外では年を越していた?
 2003/03/18(〜03/25;亡霊先生は03/24朝に来訪)
   ふふふ、茶店の庭にいで湯が……いえ、それがもう、ああだこうだと、なかなか完成せず……私が来て指摘しなかったら、今頃どうなっていたか……

「こうして改めて拝見すると、事件の名前になってませんね」
〈極力ひとことで表現したのは、むしろ、七十八件を選り出した時ですよ〉
「……いやいや、御免なさい、これは、私が先生方から聴き取りながら書き直していたリストなんで、外来語も混じってますわ」
 苦笑しつつ、里長は、今度は、折り畳まれていたやや縦長の紙を広げて伸ばした。……こ、これ三郎、覗くでない。

 2002/04/27 万年貸切部屋、仮オープン
 2002/05/03 亡霊先生、早蕨号と初来訪
 2002/06/05 亡霊先生に直撃インタビュー
 2002/06/11 亡霊先生、万年貸切部屋のカウンタ1,111を踏む
 2002/06/12〜13 亡霊先生、里長を寝過ごしさせる(泣)
 2002/06/20 土方先生、御帰還
 2002/06/27 有希ちゃん初来訪、亡霊先生に伝言
 2002/06/30 幕並土方さん、初来訪……でも亡霊先生滞在してないな……
 2002/07/03 ぎゅーっとしたいけど我慢我慢……
 2002/07/07 生身先生通りすがる&初来訪 ←ちなみに翌日のトラブルの時は亡霊先生外で待機(汗)
 2002/07/09 亡霊先生、謹慎部屋見聞録を語りに来て二郎先生初来訪を目撃
 2002/07/10 お言葉ですが(憤)
 2002/07/11 亡霊先生のブルーな気持ち&美はるさんに囲碁指南
 2002/07/16 亡霊先生、井戸端で土方先生と痴話喧嘩(笑)
 2002/07/19 亡霊先生、土方先生から逃げ回る
 2002/07/21 亡霊先生、「参謀の秘密」を読ませてもらう
 2002/07/24 納涼の会(土方先生は粋な着流し)
 2002/07/29 おろおろしつつも見ーちゃった♪
 2002/07/31 幕並土方さんと亡霊先生、ちょっとだけよ♪ と新たな関係へ
 2002/08/03 幕並土方さん、有希ちゃんとひとつ布団(爆)で、二郎先生「私の若紫ちゃん」発言 ←亡霊先生が悪い?
 2002/08/06 二郎先生、土方先生に縋り付いて一夜を明かし、夜明けに生身先生に殴り込まれる……が、早蕨号が阻止
 2002/08/11 亡霊先生、二郎先生に憑依して幕並土方さんに悪さする(滝汗)
 2002/08/12 で、土方先生に絞られる
 2002/08/13 そして大反省で落ち込んでいたので、土方先生の受難は知らない(汗)
 2002/08/13 だから井戸水かぶりまくる土方先生から近寄るなと怒鳴られてまた落ち込む……
 2002/08/14 で、隼人さんと生身先生が急に仲良くなったのを見てじたばた(汗)
 2002/08/15 そして土方先生に慰められる(苦笑)
 2002/08/15 幕並土方さんも優しい(笑) ←だから「ひと夏の秘密」は見てない(笑)
 2002/08/16 隼人さんに追い出されたのでわかんないけど、凍り付いてしまった土方先生におろおろ……
 2002/08/16 隼人さんの誘いを断わった生身先生との対話
 2002/08/20 亡霊先生、駄々を捏ねて茶店に居座る
 2002/08/21 生身先生との対話、再び
 2002/08/22 土方先生、迎えに来る
 2002/08/23 亡霊先生、幕並土方さんに憤る(汗)
 2002/08/25 野点の会の予行演習(亡霊先生は幕並土方さんにぶんぶん振り回される)
 2002/08/28 亡霊先生、幕並土方さんに姿を見せる
 2002/08/29 高井さんから「ひだまり」を頂く♪ ←08/30に土方先生に照れ照れと語る
 2002/09/01 野点の会(幕並土方さんの頬っぺたを冷やす羽目に……)
 2002/09/03〜05 幕並土方さん、「ウチの伊東を泣かせたのはどいつだッ」と殴り込み(爆)
 2002/09/04 土方先生「今晩だけお前を忘れる」宣言
 2002/09/05 はー、当てられた……
 2002/09/09 妙な青年(惣ちゃん)あらわる
 2002/09/09〜 ふらりと放浪の旅に ←亡霊先生行方不明
 2002/09/20 土方先生にとっ捕まって(汗)、茶店に帰還
 2002/09/21 コンミン先生に憑依させてもらって概略を打ち明け
 2002/09/22 観月の宴(十六夜) ←幕並土方さんに捕まってる(苦笑)
 2002/09/23 二郎先生の我儘で、土方先生、場の全員に頬すりすり
 2002/09/23 さきちゃんの大誤解事件
 2002/09/24 ええっ、聞いてないですよ! ←さきちゃんと白井君が云々、という話に慌てる
 2002/09/25 一件落着(涙) ←全部白状させられて生身先生の蹴りを食らう……
 2002/09/27 生身先生、亡霊先生の失言で早蕨号の秘密を知る
 2002/09/29 生身先生、早蕨号をひと晩拉致(汗)
 2002/10/03〜07 生身先生、早蕨号と異世界へ落っこちる
 2002/10/07 記憶喪失で御帰還の生身先生、幕並土方さんにひと目惚れ♪
 2002/10/11 亡霊先生の名案♪ で、生身先生の記憶戻る
 2002/10/19 生身先生、幕並伊東さんに「二郎」と命名 ←亡霊先生が聞いたのは翌日
 2002/10/22 有希ちゃんに誘われて早蕨号で遠乗り……
 2002/10/23 有希ちゃん、隼人さんに押し倒される(汗) ←亡霊先生、隼人さんの呟きを聞く(10/25参照)
 2002/10/26 上記の騒動を巡って有希ちゃんとお話し
 2002/10/28 早蕨号を「鴨鍋」でからかってガジガジ逆襲される
 2002/11/01〜 「うけ」って何ですか?
 2002/11/05 生身先生、ツーショット写真に激怒して浮気現場に踏み込む(違)も、幕並土方さんに耳ふーされて撃沈(汗)
 2002/11/12〜12/07 ペア碁……してる間に書き割り状態で閉じ込められる(泣)
 2002/11/18 生身先生、錯乱
 2002/11/21〜22 炬燵に根っこ発言で土方さんと遠出♪ ……早蕨が邪魔ですが(苦笑)
 2002/12/09 隼人さんと現代世界をデート♪ 土産はカップ麺 ←亡霊先生が選ぶなら……
 2002/12/10 みーちゃった♪ 隼人さん、何処触ったの? ←見ていたのは亡霊先生だけ(汗) でも実は……
 2002/12/12 有希ちゃん立ち聞き、大誤解
 2002/12/16 亡霊先生、土方さんに腕をねじねじされる……
 2002/12/22〜 ひと冬の秘密
 2002/12/31 年忘れの会の筈が年越しの会に ←亡霊先生当事者のひとり
 2003/01/15 隼人さん有希ちゃんに抱き付かれる事件 ←亡霊先生目撃 →こじれて手打ちまで
 2003/01/22 二郎先生隼人さんに抱き付かれる事件 ←亡霊先生目撃
 (2003/02/27 生身先生危うく凍死事件) ←亡霊先生はいない
 2003/02/15 亡霊せんせへの贈物ふろむリンちゃん(ほっぺにちゅう) ←亡霊先生が選ぶからだな(爆)
 2003/02/21 二郎先生拉致事件 ←まさに当事者のひとり
 2003/03/18 いで湯掘り
 2003/04/01 四月馬鹿に二郎先生担がれる ←亡霊先生は後から来る

「……どわ、七〇キロバイト超えちゃった……」
 里長のひとりごとは意味不明だが、“きろばいと”という謎の言葉は大抵方、話が長くなるという話題の時に出てくるから、恐らく「また更に長くなっちゃった」とほぼ同義であろう。
「意味のわからねえ項目も多いなあ……“過去ろぐ帳”と併せて読むと、わかるようになるのかなあ」
「そうですね、此処に書かれているアラビア数字が日付になってまして、こちらの過去ログ帳の此処のアラビア数字と一致してますから……それを手掛かりに照合していけば、皆さんでも何とか辿れる筈です」
 一緒になって覗き込んでいた藤堂君の問に、里長が笑いながら答える。……まあ、今更、隠すようなことでもないか。
「ただ……我々の発言には外来語も結構多いので、皆さんが読み通すのは大変だと思いますよ」
「いや、せめて、これを手掛かりに、兄上方がどのような出来事を経験していらっしゃったのかを知ることが適えば……この紙、お借りして宜しいですか?」
「この七十八件の方のリストですか? コピーで……写しで良ければ差し上げますよ」
「えっ、本当ですか、有難うございます!」
「三人してせっせと読破して、次に土方さん達が戻ってきた時に『あの時の何々の件ですけど』と、からかってさしあげましょうね」
〈沖田君……君達を後で落胆させないよう念の為に言っておきますが、この一覧は、茶店が出来てからほんの一年の間の出来事しか振り返っていないものなのですよ〉
 私は小さく苦笑し、ささやかな釘を刺した。
〈あれからもう、更に何年もが過ぎていて……あの頃よりももっと色々な、沢山の出来事が積み重なっていますから、皆それぞれに落ち着いて……特に生身の私などは、随分と性格が丸くなっています。土方さんも、あの頃の際疾い話を持ち出されたからと言って、あの頃と同様に動揺したり狼狽したりということはないでしょう。……我々にとっては、あの頃の様々な騒動は、いわば、既に懐かしい思い出の域に入ってしまっている出来事なのです〉
 そして、茶店で日々起こる出来事も、段々に、いわゆる騒動とは縁遠くなっている。それを寂しいと思うこともないではないが、さりとて、こうして振り返ってきた大騒動の一年に戻りたいかと問われれば、いや、今の平穏はあの頃の騒動の果てに得られたものだから戻りたいとは思わないと、特に生身の私ならきっぱりと応じるだろう。
 私も、戻りたいとまでは思わない。
 振り返って眺めるから、苦しい記憶も痛い記憶も、何もかも皆、懐かしく感じられるのだ。
 同じ苦しむなら、痛い思いをするなら、もはや一度経験した出来事をなぞるのではなく、新たな出来事の下で味わいたい。
「……では亡霊先生、長い間、缶詰お疲れ様でした。後の推敲や成形は私の仕事ですので、先生は茶店にお戻りになって構いませんよ」
 里長が、若干ほっとしたような表情で許しをくれる。
 私は、にっこりと笑い返すと、丁寧に一揖した。
 そして、ふわりと立ち上がった。
「兄上、たまには宿所にお戻りくださいと、御生前の兄上にお伝えください」
〈承知した〉
 三郎の声に応じる間ももどかしく、身を翻す。
「伊東先生、たまには宿所に帰ってくださいと、土方さんにもお伝えください」
〈……伝えるだけなら〉
 藤堂君の声に半ば呟くような小声で返しておいて、里長の執筆部屋を出る。
「伊東さん、その時には伊東さんも、土方さんと一緒に宿所に戻ってきてくださいね」
 ……流石は沖田君、ちゃんと私の心持ちを理解しているではないか。
 私は、最後に一度だけ若人達を振り返り、苦笑いしながら頷いた。里長の部屋を出てしまった以上、頷いたところで彼らには見えないことを承知の上で。



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