梅雨の最中《さなか》になると、冷える日もある。
 俺は、里の茶店へと足を運んだ。
 この“千美生の里”の何処とも繋がっているという、不思議な場所である。
 予め許しを得た常連と里人だけが休んでゆけるという“万年貸切部屋”に上がり込んで胡座《あぐら》をかくと、里長の長年の知己であるという茶店の主が、「ようこそ」と愛想く顔を出した。
「昨日は窓の外からで立ち寄りもしねえで失礼しちまったな」
「いえいえ、とんでもない。──お茶になさいます?」
 時と場合によっては、客に茶を出すのは「早く帰れ」の意味になるそうだが、此処では間違いなく、歓迎の意味だ。
「ああ――今日は少し肌寒いから、喉が焼けるほど熱い奴を一杯、くれねえか」
 ……箱館の一本木関門から不意に戻されて、はや七日ほど。お喋りな亡霊に付き合うのも久し振りなら、何処か危うい生前の伊東と顔を突き合わせるのも久し振りだった。近藤さんもいれば総司も源さんも山南先生もいる、という場所にこの姿で戻された当初は流石に面食らったが、皆から「そういうものなのだ」と言われると、そうかな、と納得させられてしまった。
 早い話、此処にいる“死んだ筈の”面々は、実際には死んでいる身でありながら、この“千美生の里”の中でだけ生きているのだ。……あ、いや、亡霊の奴だけは、「生きている」ではなくて「成仏していない」と言うべきか。
 だから……穏やかに落ち着いた諦念を漂わせているか、そうでなければ、不安と絶望の淵をふらついている。
 近藤さん達は前者だし、生前の伊東の奴は後者だろう。
 俺? 俺は、間違いなく前者だ。土方歳三はあの時あの場所であのまま命を落としている、ということは、何となく悟っている。だが、別に俺は絶望もしていなかったし、不安に囚われてもいなかった。ただ……こうして此処に安穏としていることには、忸怩たるものを覚えざるを得ない。既に俺の手の及ばぬことと理解はしていても、俺が“死ぬ”ことで後に残された隊士達はどうなっただろうか……と、つい考えてしまうから。
 ……などとぼんやり思いつつ、手許の薄い帳面をめくる。少し前に此処で起こった出来事を知ることが出来る、奇妙な帳面だ。最初の頁に「里の茶店 万年貸切部屋 〜入り浸り(失礼)の方々の喋り場〜」と書かれており、次の頁からは、前に起こった出来事が、つらつらと文字にされている。……一番最後の頁では、今し方俺が喋ったことが、既に文字になっている。不思議なことに、完結した出来事は常に十件分しかない。俺の言葉は最後の頁に綴られているが、俺が「ひとまず此処までにしよう」と思った時点で、ひとつ前の頁に回る。そして、最初の頁の次の頁に記されていた言葉は何処かへ行ってしまい、最後の頁は真っ白に戻る。
 俺は何気なく、ひとつ前の頁をめくってみた。
『おはようございます。里長の通行手形頂きまして、白牡丹の伝言を持って参りました、近藤有希と申します。主殿、宜しくお願いします。あ、猫舌なんでお茶は冷めたんでいいです』
 ……白牡丹殿の枠で喋っているが、初顔らしい。
『まったく、慶応元年の京から私《わっち》が飛んでくるより本人が来る方が早いんじゃないかと思うんだけど、なぁ。わっちゃぁ、白牡丹のおばちゃんより忙しいんだよっ。幕末並行世界という“かくー”の歴史物の住人で、先年、養父の近藤勇が急死したものですから、数え十四のわっちぁ、小娘の身で新選組の局長代行みたいな立場になってます。昔っからの喧嘩相手で副長の歳三とお約束の朝の口喧嘩して、馬飛ばしてきたとこです』
 慶応元年で……先年養父の近藤さんが……何だって?
 混乱を覚えたが、もう一度頭から読み返し、頭の中で何度か整理して、やっと状況が理解出来た。要は俺と同じ、史実ではない虚構交じりの作品世界に暮らしている人間なのだ。従前からこの里の中には、俺とは違う“土方歳三”が暮らしていて、里長はそれを“ぱられるわあるど”に住んでいる土方さんだよと説明するが……
 ……“ぱられるわあるど”という奴は、里の外、白牡丹殿の所にもあるものらしい。
 で、そこには、近藤さんの養女だという有希殿なる娘さんが住んでいて、近藤さんの代わりを務めている……というわけか。
『えーと、伝言、伝言。『まなざし』の伊東先生、白牡丹より、色々御教示いただいて有難うございます、とのことです。原稿の手直しに忙しく、後でまた飛んできます、と申しております。そちらの世界の土方先生、ぱられるわあるどの内藤先生にも宜しくお伝えください』
「はい、土方先生、沸かしたてのお湯で入れましたよ〜」
「膝の上にはこぼさねえでくれよ。……って、白牡丹殿は忙しいのか。争う相手がいなくて良かったな、主」
 主と白牡丹殿とが俺へのお茶出しを巡って火花を散らしたらしい、という話は、里長から聞いている。『ふたりして争った挙句に熱いお茶を土方さんのお膝の上に引っくり返す、なんてこともあるかも』などと笑っていた。……まあ、例によって、誇張もあるだろうが。
「……なかなか気持ちのいい娘さんが来てたみてェだな」
 茶を啜りながら、俺は、帳面の表面を指の関節でこつんと叩いた。
「あ、有希ちゃんですか? 亡霊先生に伝言残してってますよ」
「ふん、隅に置けねえな、亡霊のくせに」
 俺は苦笑いした。
「後でこっちへ寄れって伝えとくよ」
「お願いします」
 にっこり笑って引っ込む主を見送って、俺は、帳面に目を戻した。

〈本当、最近、よくお顔を出されるようになりましたね〉
 随分と蒸し暑くなってきた文月中旬……と言っても“新暦”とやらの文月で、俺の感覚からすると水無月初めなのだが……の昼前、茶店へ向かおうとしていた俺の背中に、昨日の夜中まで国体がどうの君臣の道がどうのと説教三昧らわせやがった伊東の亡霊が声をかけてきた。
「向こうの連中がか」
 向こう、というのは、この場合、いわゆる白牡丹殿の所の“ぱられるわあるど”である『幕末並行世界』略して『幕並』とやらのことを指している。
〈……あなたが、ですよ〉
「俺?」
 振り返ると、亡霊の奴は意味ありげな目で俺を見たが、すぐにその目を上げ、何かを考え込むような顔で、人差し指を唇に当てた。
〈まあ、確かに、向こうの方々もよくお見えになるようになりましたよね。先日はとうとう向こうの私まで姿を見せるし。向こうの土方さんなど特に頻繁にお見えになって、生身の私やあなたを挑発なさるし……ま、あれは、有希殿可愛さの余りでしょうけれど〉
「有希殿か」
 俺は、何となく苦笑した。
「……向こうの俺が羨ましい気もするよ。俺には、あんな風にぶつかり合える相手はいなかったからな」
〈喧嘩するほど仲が好い、の典型ですからね。……今でも充分に綺麗な娘御ですが、将来さぞ美しく花開くでしょうねえ。あなたが向こうの土方さんを羨むのも当然ですか〉
「こら亡霊、俺ァそういう意味で言ったわけじゃねえぞ」
 そういうのを下種の勘繰りってんだよ、と抗議した俺は、内心だけで付け足した。
(今でも充分に綺麗だの将来美しかろうだの言われても、俺ァ、まだ一遍も姿を拝んだことがねえんだぞ)
 ……まあ、最近茶店通いが増えているとは自分でも思う。生身の伊東の奴に絡まれるのから逃げたいとか暇を持て余しているとかいうわけでもないのだが、あそこへ行ってあの帳面をめくるのが楽しいのだ。最近は、消えてしまった頁が移動するらしい月毎の帳面の在り処も覚えたから、謹慎──いや、何日か前に、伊東とふたり、茶店を騒がせた罰として謹慎を喰らったのだ──明けでも問題なく、此処で何が起こったかは追うことが出来る。
 昼前に茶店に着くと、向こうの土方が来ていた。
 俺が昨日の夜中に此処で残した呟きを知って、詳しく聞きたがっているらしい。……里長から「生身や亡霊の伊東先生には内緒」と釘を刺されている“ネタバレ”話になりそうだ、と思ったので、亡霊を遠ざけ、ぼそぼそと小声で話し込む。
 そうこうしていると、「こんにちはっ」と、張りのある元気な声がした。声からして子供のようだが、向こうの土方がぴくっと反応して顔を上げたから、多分……。
 が、俺は敢えて声の主を探すことなく、むしろ気付かぬ振りをして淡々と、語り続けた。
「……とにかく、普段は慎ましくて聡明な女性なんだが……此処一番という時に恐ろしく強情で手に負えなくなる、そんな女性なのさ」
 やがてそんな風に話を締め括ると、向こうの土方は苦笑いのような表情を浮かべた。
「いや、いいんじゃねえか、一年中強情できかん気なのよりは」
 その台詞が終わるか終わらぬか。
 小さな疾風が飛び込んできて、がすっと音がするほどに思い切り、向こうの土方の脛を蹴飛ばした。
 俺は思わず、その小さな疾風を見た。……年の頃十三か十四の娘だった。但し、稽古着に袴と、今し方まで話題にしていた梅本さき殿を思い起こさせる男装だ。俺のことなど目に入っていないらしいその小さな疾風は、紅潮した頬をわずかに膨らませるようにして仁王立ちになり、ぱちっとした力強い瞳で、向こうの俺を睨みつけていた。
「……ったく、遠巻きにしてても、手前《てめぇ》の話になるとすぐに聞き付けて飛んできやがる」
 向こうの土方はぶつぶつ文句を言うと、縁側から腰を上げた。
「さ、仕事だ、帰《けえ》るぞ」
 じゃあな、と会釈する相手に無言で会釈を返しながら、俺は、成程、あれが噂の近藤有希殿か、と内心に呟き、ふっと苦笑した。結局最後まで、彼女が俺の方を見ることはなかった。彼女の目には明らかに向こうの土方しか映っておらず、そして彼女はその事実を意識すらしていなかった。
 恐らく、自身にとってそれが余りにも当たり前過ぎるが故に、自身では気付かぬのだろう。
 ……何故かはわからぬが、些か、不本意な気がした。

 それから何日も経たぬ内に、亡霊の奴が、また例の意味ありげな目をしながら俺に話し掛けてきた。
〈土方さん、白牡丹殿から御下問ですよ〉
「御下問? 何の」
〈有希殿の件でですよ。土方さんが有希殿と距離を置いているのは何故なのか、と〉
「俺が?」
 何故かしら、惚けた声が出た。しかし、距離を置いているとは随分と穿った見方だ。別に俺は彼女を避けているわけではないつもりなのだが……
〈有希殿は、周囲が放っておけない何かをお持ちですよね。でも、あなたは、自分から接するような振舞は避けておいでだ〉
「別に俺は……」
 反論しかけて、俺はやめた。亡霊の指摘を認める気持ちが、心の何処かで動いたせいだった。そうかもしれない。最初に会った時、声をかけて注意を喚起するような真似を敢えてしなかったのは、俺の気持ちの奥底に、この娘には近付いてはならぬという恐れにも似たものが潜んでいたからなのかもしれない。
 無論亡霊の奴は、俺が反論しようとしまいとお構いなしに、この話題を続けるつもりらしかった。
〈白牡丹殿は、色々な原因を挙げておいででしたよ。曰く、有希殿と仲良くなると向こうの土方さんにやっかまれるからなのか、さき殿がおいでなので自重なさっているのか、有希殿と接していると三の線に落ちてしまうと警戒しておいでなのか、それとも、有希殿と接近すると生身の私がますます先鋭化するのが怖いのか……その内のどれかなのかとお尋ねになりたいのでしょうね〉
「……でしょうね、ってことは、実際には御下問あらせられてはいねえってこったな、亡霊」
〈嫌ですね、人の言葉尻を捕まえて。実際に御下問あらせられてますよ。半分ひとりごとのようにね〉
「二番目は絶対に違うからな」
 俺は、ぱしりと最初に釘を刺した。
「おさき殿と俺とは今はもう何の縁も縁《ゆかり》もない。……いや、おさき殿に限らず、他の誰ともな」
〈じゃあ、残りの三つは当たっているんですか?〉
 その問に、俺は無言で笑ってみせた。当たっているとも外れているとも言う必要はない。絶対に違う事柄だけを排除してしまって、後は好きに考えさせるがいいのだ。
 しかし、敵もさるもの引っ掻くもの。
〈私は、一番目が一番当たっている気がするんですが。ふふふ、あれで向こうの土方さんは結構焼餅焼きですからねえ、あなたとしても警戒せざるを得ないでしょうねえ〉
 などと、さりげなく突っ込んだ探りを入れてくる。俺は舌打ちした。返事をすれば否定になるとわかってはいたが、そうまで言われてはひとこと返さずにはおれない。
「下らねえな。周りのやっかみ程度でびびってちゃ、いい女と懇ろにゃなれねえよ。それに第一、俺ァ、他人の女に手ェ出すほど落ちぶれちゃいねえもん」
〈はー。大した自信で……有希殿がお聞きになったら何とおっしゃるやら〉
「馬鹿野郎」
 つい、声が尖った。……自分でも訝しいほどに。
「そんなつまらねえことを有希殿に聞かせるんじゃねえ。有希殿はな……まだ、自分で自分の気持ちに気付くこともねえ初心な娘なんだよ。それに、茶店の帳面を見てる限りじゃ、男女の諸々には随分と潔癖な娘だ。そこへてめェが下らねえことを吹きャアがったら、向こうの土方が自分の身近にいるってだけでそういう仲だと俺が見てるんじゃねえかと誤解して、嫌ァな気分になるだけだろうが」
〈……よく見ておいでですねえ〉
 亡霊は、またあの意味ありげな目で俺を見、そして、ため息をついた。

 茫々としていても、時は確実に流れてゆく。
 小さな事件なら、幾つも起こっている。だが、日常を覆すほどの出来事はない。新選組の副長として、また旧幕軍の将のひとりとして日々を送っていた頃に比べると、刺激も少ない。
 ……生きている、という実感が乏しいせいであろうか。
 ある日、茶店の主から廻状が届いた。十何枚かの紙が綴じられていて、表紙には「参謀の秘密」と書かれている。著者名は白牡丹殿。添状を読むに、主が、「こういう感じの話を書いてほしい」と頼んで書いてもらった世話物だか何だからしい。
 読んでみた。
 面白い、と素直に思った。向こうの伊東君を描いているようで、その実、向こうの伊東君の目を通して有希殿を描いているのだ。己の目が素直に向こうの伊東君の目に寄り添い、自然に彼の感情が己の裡に入り込んでくる……
 ……いや、これは拙い。
 俺は途中で気持ちを引き締め、彼の目から距離を置いた。有希殿に次第に惹かれてゆくその目に寄り添っていては、自分もまた陥穽に落ちてしまいかねない。
 俺のことなど全く目に入っていなかった有希殿の目が、思い起こされる。
 ……彼女は、向こうの俺のものだ。
 既に死んでいるも同然の俺が近付いて良い娘ではない。
 廻状を読み終えると、俺は、すぐに主に返した。手許に置いておくと、もう一度読んでしまいたくなる。もう一度読めば、また陥穽に近付く羽目になる。それは、避けたかった。

 文月も半ばを過ぎ、ふと気付けば、身辺が妙に活気付いていた。
 多分、一番大きなきっかけは、納涼の会……だったろう。
 それまでは、様々な出来事に対して受身でいた。働きかけられてそれに応じるばかりだった。
 だが、俺を肴に笑い転げやがった亡霊と生身の伊東へのささやかな腹癒せの為にと悪戯心を起こし、自分で色々と膳立てをした、あの納涼の会……思わぬ結果には終わったものの、それまで単に茫々と日を過ごしていた間は意識することのなかった己の心持ちに気付き、悩み、考え……
 ……死んだも同然の身でも、どうやら、少しは、生きているらしい。
 里の宿所で馴染みの面々とだけ顔を突き合わせていることなく、茶店へ足を運んで新たな出会いを得たからなのかもしれない。
 そう言えば、生身の伊東の奴も、納涼の会辺りを境に、微妙に変わってきた。それまでは、不安と絶望の淵を漂いながら酔っては泣いて俺に縋り付くというぼろぼろに近い状態だったのが、納涼の会で或る生き物への恐怖の余り俺にしがみ付いた向こうの伊東君の振舞に激怒して以来、彼に対して妙な敵愾心だか嫉妬の念だかを燃やしている。おかげで奴は、このところ、新選組からの分離直前の頃のような凄みを取り戻しつつある感じだ。
 あの思い詰めた凄みを完全に取り戻されると俺としては誠に困るが、まあ、あたかも婦女子の月の障りのようにほぼ周期的に酔って泣いて俺に縋り付いているのと、どちらが良いかと言えば……
 ……い、いや、考えるまでもなく、後者の方が可愛げがあるだけマシだな。
 丁度書庫に収められた奴のひとりごと話「おのれのみ」とやらを読んで、やっぱり油断ならぬ奴であると再認識する。畜生、あの野郎、あの時あんなことを延々考えてやがったとあの時に知っていたら、即、ぶち殺してやってたぞ。
 まあ、今更の話だから、特に何か言ってやろうという気はない。馬鹿野郎と茶店で喚けば、それで充分発散出来る。そして哀しい哉、主に奴のおかげであの手の話[#「あの手の話」に傍点]にある程度馴らされてしまったものだから、実害を被ったわけでもなし、丸一日も経てば気持ちは落ち着く。
 それに何より、下手に話題にして、奴からあの時の話題を蒸し返されるのは避けたい。
 そんな訳で、その夜も俺は、何やら言いたげな伊東の奴に気付かぬ振りで、ふらりと茶店に足を向けた。

「……主殿、寝付きのよくなる薬草茶でもあったら、分けていただけませんか?」
 茶店の表まで来たところで聞こえてきた若い娘の声に、俺は思わず足を止めた。
「どうも寝付き悪かったらしくて、今朝方、歳三が隣部屋の有希が目を覚ますほど大きな声で唸ってました。腫れぼったい瞼を他人《しと》には見せたくないらしくて、今日は屯所に籠もってます。滅多に落ち込んだりする歳三じゃないんで、ちょっと心配《しんぺえ》です」
 ……ああ、近藤有希殿か。
 こんな夜も遅い時分に若い娘が単身うろうろするとは、不用心極まりない。如何にこの茶店の近辺は安全と言っても、此処へ来るまでには色んな場所も通るだろうに。
 が、それだけ、向こうの俺のことを心配しているということだろう。
 主との幾つかの遣り取りを経て、薬草か何かを貰ったらしい有希殿が「それではまた」と挨拶するのを潮に、俺は、茶店へ足を踏み入れた。帰る相手とすれ違う程度であれば、近付き過ぎる羽目には陥るまい。
「主、昨日は騒がせたな」
「いえいえ、ようこそ──あ、その後、大丈夫でした?」
「まあ……私は、ある程度、馴らされているから……丸一日も経てば、落ち着くよ。実害を被ったわけでもないしな」
「ははー、馴れてる、じゃなくて、馴らされてる、なんですね」
 茶店の主、温和な顔でずけずけと言ってくれる。俺は苦笑いしたが、ふと、視線を感じて振り返った。
「……おや、有希殿もおいでか」
 少し驚いたことに、既に草履に足を入れて店を出るばかりにしていた筈の有希殿は、まだその場に佇んでいた。
 目が合うと、先方はぺこりと頭を下げた。高く結い上げられた黒髪が元気良く揺れた。
「はいっ、あの、うちの歳三が何だか凄くうなされてて、それで、何か寝付きの良くなる薬草でもないかと思って、主殿に分けていただきに」
「……どうも、向こうの土方さん、例の話を読んじゃったらしいんですよー」
 ひそっ、と主が小声で囁く。
 ……成程。
 俺は苦笑いを浮かべた。怖いもの見たさか、読めないだろうと白牡丹殿にけしかけられでもして意地を張ったか、よせばいいのに、伊東の奴のひとりごと話「おのれのみ」を読んでしまって、奴の当時の毒気にまともに当てられてしまったと見える。
「悪いものでも食べたのかな」
「いいえ、あの、おば……白牡丹によると、何か物凄くおっかない話を読んだのが原因だって……」
 冗談めかした呟きに、真面目な答が返ってくる。冗談を言っている場合ではなかったかな、と少し悔やんだ。有希殿は本気で心配しているのだ。それを茶化してはなるまい。
「いや……真面目な話、毒に当たったと見える。私はある程度馴れているから受け流せるが、まともに食らったのだろう」
「毒……? あの、毒って、一体……」
「いや、わからなくていいことだ」
 かぶりを振ると、有希殿はしゅんとした様子で下を向いた。……突き放し過ぎただろうか。
「うちの歳三、普段は、あんなに落ち込むことはないんです。なのに……」
 俺のそっけない態度に傷付いたわけではなく、何処までも、向こうの俺のことが心配で仕方ない故のしょげ返りらしい。
「……有希殿は、優しいな」
 思わず呟くと、有希殿が「えっ?」と意外そうな声と共に顔を上げ、俺をまじまじと見上げてきた。
 ……少しぐらいは、お節介を焼いても構わんか。
 有希殿自身は例の話は読んでいない様子に見えるから余り突っ込んだ話は出来ないが、否応なしに馴らされてしまった身として、出来る範囲で助言をしておいてやるのが親切というものだろう。有希殿に対しても、向こうの俺に対しても。
「なに、心配はいらんよ。一番の薬は、有希殿がいつものように振る舞うことだ。彼が『落ち込』んだ原因が何かは訊こうとせず、いつも通り振る舞って、日常に引き戻してやるといい」
 有希殿は、黙って俺の顔を見上げたまま、まじろぎもしない。……何処か上の空のような気がするのは、気のせいだろうか。
「伝えてやってくれ。──ひとりで閉じ籠もると却って毒に押し潰される。外へ出ろ。積極的に周囲と話をしろ。そして、自分の立っている場所を確かめろ。まるでその気のないそちらの伊東と有希殿の話でもしていれば、比較的容易く普段の自分に戻れる筈だ……とな。私の経験上からする助言だ、ともな」
 俺は、そこで言葉を切った。途中で流石に、有希殿が俺の話を殆ど耳に入れていないことに気付いたからだ。彼女は明らかに他事に心を囚われている。果たして、俺の話の半分も理解したかどうか。
 しかし、何に心を囚われているのか、ということになると……ある種の見馴れた表情をされては、自ずと悟らざるを得ない。
 何しろ俺は、彼女の心の奥底に当たり前のように棲んでいる男と全くと言って良いほど同じ見てくれの男なのだ。
(……俺から声をかけたのは、拙かったな……)
 やや後悔したが、後の祭だった。
 しかし、だからと言って急に冷たくしては、却って彼女を傷付けてしまうだろう。
「土方先生、お茶で宜しいですか? それとも、お飲みになります?」
 ひょい、と主が尋ねてくれる。俺は、長靴《ちょうか》を脱いで六畳間に上がりながら、ちょっと考えた。茶で腹を膨らませるよりは、少し酒でも飲んで帰って、早く休むとしよう。
「ああ、今日は酒を貰いたい。酌は白牡丹殿に……という話だったが、お見えでないなら仕方がない。まあ、主で我慢するか」
「あ、で、でしたら、わっちがお注ぎしても良うござんすか」
 すかさず横合から投げかけられた声に、俺は戸惑った。
「うん? いや、有希殿には……」
 それは拙かろう、向こうの俺に悪い、と思ったが、折角彼女が勢い込んで申し出てくれているものを無下に断わるのも憚られる。俺は曖昧に微笑むと、冗談めかして婉曲に謝絶の言葉を口にした。
「向こうの私が血相変えて飛んでこないとも限らん……」
 ……ああ、その方が、今はいいのかもしれんな。
 向こうの土方さんは結構焼餅焼きですからねえ、という亡霊の言葉を思い出す。
 だとしたら、俺が此処で少しだけ有希殿と近しくなって、焼餅を焼かせてやるくらいがいいのかもしれない。向こうで真っ当に暮らしていたなら縁もなかろう筈の毒気に当たって調子を狂わせていても、有希殿に悪い虫が近付いたと見れば、成敗してくれるという気になり、結果、生気も取り戻せるだろう。
 ……腹を括るとしよう。
 一旦謝絶されたとは気付いていない有希殿に、俺は、笑顔を向けた。
「では、悪いが、少しお願いしよう」

 元々が、余り酒には強くない。
 だから普段は、それほど飲まないようにしている。飲み過ぎた翌日の悪心と頭痛は嫌なものだし、酩酊した挙句に不覚を取るのはもっと嫌だ。
 だが、「有希のお酌じゃ駄目ですか」と目を潤まされては、断わるわけにも行かない……いや、はしゃいだり、しょげたり、また嬉しそうに笑ったり……と、猫の目のようにくるくる表情が変わる彼女を見ていると、楽しくなってくる。心楽しく飲む酒は、それほど悪酔いするものではない。
 円い卓袱台を挟んで注しつ注されつしている内にうとうとと船を漕ぎ始め、心地好い睡魔に身を委ねて畳の上にごろんと横になったところまでは、どうにか覚えている。
「土方《しじかた》先生〜、そんな所でうたた寝なさったら、お風邪を召されますよぉ〜」
 やはりかなり酔っているのか呂律は回らぬものの俺よりは意識がしっかりしているらしい有希殿の声を聞いた気もしたが……あとは、覚えていない。

 真夜中に、寝苦しさに目が覚めた。
 誰かが布団を掛けてくれたらしい。……この暑さでは、邪魔なだけなのだが。
 ばさりと乱暴に布団を蹴脱いだ俺は、ぎょっとなった。
 有希殿が、すぐ隣に寄り添うようにしてすやすやと寝息をたてていたのだ。
〈土方さ〜ん、お目覚めですか〜〉
 う、うわあっ。
 いつやってきたやら、伊東の亡霊の奴が、下から手燭で顔を照らした不気味な面でにゅうっと覗き込んでくる。
〈ふっふっふっ、吃驚しましたね土方さ〜ん〉
「……ええいっ、どっからその手燭を持ち出した、手燭をっ。てめェが何処からともなく取り出せるのは、扇やら刀やら筆やら、生前の自分の愛用の品だけの筈だろうがっっ」
〈ふ、この茶店限定の“力”なんですよ。此処にいると、普段出来ないことでもちょっとぐらいは出来るんです〉
 亡霊は、俺を脅かす目的を達して満足したのか、ぽんと手燭を何処かへ消してしまった。
「……ち。まあいい、大体これはどういうこった? 向こうの土方はどうした、迎えに来てねえのか?」
〈来てませんよ〉
 亡霊はかぶりを振った。
〈主殿がね、ひと組しか布団がないからとおっしゃって……まあその、今のところ、何の間違いも起こってないようですが〉
「何の間違いだ、何の」
〈だって、私が此処へ来た時には、土方さん、有希殿の肩に手を掛けて引き寄せてましたものね……〉
「けっ。……嘘つきャアがったら強制成仏させるぞっ」
 俺は吐き捨てると、蹴脱いだ掛布団を有希殿に掛けてやり、自分は敷布団からごろんと転がり出た。
 亡霊のわざとらしい嘆息が聞こえる。
〈また随分と露骨に背中をお見せになるものですね〉
「当たり前だろ」
 俺は目を閉じながら、口の中だけで呟いた。
「間違いなんざ、起こっちゃならねえんだよ。……じゃあな亡霊、そのまま寝ずの番してろよ」
〈はいはい。……余程のことがない限り、邪魔はしませんからね〉
「何の邪魔だか……」
 暑苦しい布団から離れて涼しくなったせいか、危うい温もりから離れて安心したせいか、抗議し終えるより早く、俺は再び眠りに落ちた。

 変に尖った気配を感じて、また目が覚めた。
 周囲に知れない程度に薄く、目を開く。
 ……いつの間にか、夜が明けているらしい。
 開けかけた目を閉ざし、俺は、慎重に辺りの空気を確かめた。……変に尖った気配に起こされた以上、用心はすべきだ。
「きゃあああっ、とっ、歳三がふたりいる〜っっ」
 吃驚したような有希殿の声が思いも掛けぬ近くで響く。……どうして、と訝った一瞬後に、余りに近過ぎる温もりに気付く。
 ……ちゃんと離れて寝直した筈なのに、何故、有希殿に抱き付かれている?
 有希殿が慌てて身を離す気配と、向こうの俺の低く押し殺された叱声。……相当頭に来ているのが、その声を聞いただけでわかる。俺を起こした尖った気配は間違いなく、向こうの俺のものであった。
(……挑発して、怒らせてやろう)
 規則正しい寝息をたてているように装いながら、俺は考えた。
(この“同衾状態”を見て、かなり鶏冠《とさか》に来てるに違ェねえからな……伊東の奴の毒気を追い払うには、奴にとって色々な意味で一番大事な相手である有希殿に関わる大事《おおごと》だけで手一杯にさせるのが近道だ)
 もういいだろう、と思ったところで小さく唸ってごそごそ身動きすると、即座に胸倉をつかまれた。……と言っても、引きずられるほどではない。それもその筈、つかむべき襟元は、片方しかなかったのだ。
「おいっ、一体《いってぇ》、このザマぁ何だっ!」
 ……まあ、言われても仕方のないザマだろう。寝ている間に、シャツの片肌は、完全に脱ぎ捨てられていた。俺も、つかまれて初めてそのことに気付いたのだが。
 殊更に眠そうに瞼を上げて、俺は、相手の顔を見た。……怒気で赤らんでいる分を除いても、予想していたほど顔色は悪くない。してみると、うなされて眠れなかったという一昨夜とは違い、昨夜はちゃんと眠れたのだろう。
「……何だ、存外顔色が良さそうだな。昨夜は[#「は」に傍点]よく眠れたと見える」
「ふ……ふざけるな……」
 眠りこけてしまったせいで有希殿を迎えに来られなかったことを負い目に感じているのか、それとも一昨夜眠れなかった原因でも思い出したのか、相手の怒気が途端に減じ、襟から手が離れる。
 ……このまま置けば、火が消えてしまう。焚き付けを放り込んでやるか。
「随分遅い迎えだな、寝不足で潰れたか、それとも誰かと飲み明かして酔い潰れたか」
 のんびりと身を起こして立ち上がりながら、痛い筈の辺りを思い切り抉ってやると、相手の目がカッとなったような色に染まった。一旦は消えかけていた怒気が、また再び勢いを取り戻したようだ。……結構結構。
〈土方さん、そこで喧嘩売ってどうするんですかっ〉
 言われた通り寝ずの番をしていてくれたらしい亡霊が、慌てふためいたように……いや、実は騒動を楽しんでいるんじゃないかと思える風情で、天井近くをうろうろ行ったり来たりしている。
「ややややめてやめてやめてっっ」
 流石に不穏な気配を察してか、向こうの俺と俺との間に有希殿が急いで割り込んでくる。
「ひとつ布団で何もなかったんだから、そんなにいきり立たなくてもいいでしょっっ」
 ……うーむ、「ひとつ布団で」という、今の向こうの俺にとって些か刺激の強い表現を持ち出すのは、沈静化には却って逆効果だと思うのだが……有希殿自身が内心でその点をかなり気にしているからこそ言葉として出てしまったと見るべきだろうな……
「……おい」
 割り込んできた有希殿を何故かまじまじと見ていた向こうの俺が、不穏な冷静さをかぶった様子で低い声を出す。
「この、ぽちっと、赤い痣ぁ、何だ」
「え? 虫刺され……かな」
 有希殿が戸惑ったように喉許辺りに手を当て……真っ赤になった。
「……有希は虫刺されで赤面するのか」
「ぢゃなくって、夢の中でねっ、そのぅ、し、土方先生でなくって知らない男の人がっっ」
「……ほーお、いい夢を見たらしいな」
 俺の位置からは遣り取りの原因になっている赤い痣とやらは見えないが、向こうの俺のこわばった表情と硬過ぎる声、そして有希殿のうろたえ振りから、一体どういう類の赤痣かは十二分に察することが出来た。
「──てめェ何しやがったッ!!」
 当然、向こうの土方の矛先はこちらへ向く。
「大体《だいてえ》、その、しどけねえ姿はあんだっっ!! どう見たって、何もなかったんじゃなくて、し、仕掛けてたとこっ、じゃねえかっっ!!」
 俺は苦笑いしたい気分を抑えながら、恐ろしい剣幕で詰め寄った向こうの土方と俺との間に挟まれて潰されそうになった有希殿を引き出し、後ろへ遣った。そして、敢えて平然とした表情で、烈火の如き顔で俺を睨み付けている相手の目を見据えた。
「……寝る前は何もしていないが、寝た後のことは覚えがないな」
 狙いすました言葉の拳は、思惑通りに奴の土手っ腹に入った。冷静さの最後の一片も消し飛んだ顔で、この野郎と怒鳴るが早いか、殴りかかってくる。
 最初の一発だけは殴らせてやるさ。
 そう思って動かなかった俺は──
 だが、殴りかかろうとしたその姿勢のまま不意に意味不明の喚き声と共に凍り付いてしまった奴の姿に、目をしばたいた。
〈駄目ですよ向こうの土方さ〜ん、そんな乱暴しちゃ〜〉
「どわあああっ、はっ、放せ、亡霊っっ!」
〈い・や・で・す・よーん。ウチの土方さんに無体なことをしないと約束してくれないと、このまま、ちょちょいのちょいっと……いぢわる、しちゃいましょうかねえ……ふふふふ……〉
「みみみ、耳許で囁くんぢゃねえええっ!」
 ……ったく、亡霊の野郎、余計な真似をしやがって。
 俺は今度こそ苦笑いすると、此処が役得の享受しどころとばかりに向こうの俺をきっちり羽交い締めにしている亡霊の奴の頬をぎゅうとつねった。……この場にいる人間の中では、厨房からひょいと顔を出している茶店の主と俺の目にしか見えない奴だ。傍から見れば、何もない空間をつねったようにしか見えなかっただろう。
「こら亡霊、どさくさに紛れて何してやがる」
〈だって、放っておいたらあなたが殴られたじゃありませんか。なのに、あなたと来たら、よけようともしないし〉
「馬鹿。折角いい具合に運んでたのに、よりによっててめェが抱き付いたら、またこいつの寝付きが悪くなるじゃねえか」
〈だからって……あなたが無抵抗に殴られるのをおとなしく見ていろと? 嫌ですよ、そんなの〉
 むくれ顔と不満げな“声”とで、亡霊は文句を垂れた。
 まあ、仕方あるまい。そもそもこいつは、俺の傍らにいたい一念で亡者としてこの世に残ることを選んだほどの奴だ。どんなに騒動を面白がっていても、いざ俺の身に危害が加えられそうだとなると座視出来ないのだ。
 俺は小さく肩をすくめると、有希殿に向き直って軽く頭を下げた。
「騒がせて申し訳ない。……亡霊の奴はすぐに引き剥がすから、心配しないでくれ」
 ……敢えて、騒動の元となった痣には目をやらなかった。

 亡霊に羽交い締めにされて流石に落ち着いた……と言うよりはすっかり肝を冷やしてしまった向こうの俺が有希殿を連れて帰るのを見送った後で、俺は、亡霊を供に宿所へ戻った。
 居室では、困ったことに、生身の方の伊東の奴が座り込んで待ち構えていた。
 ……目の下に少し隈が出来ている。まさか、俺の帰りを待って一睡もしなかったとでもいうのだろうか。
 伊東は恨めしそうな目で俺を見上げると、不機嫌極まりない声を発した。
「昨日は何処にお泊まりだったんですか」
「何処って、茶店で飲んでて酔い潰れたんだよ」
 俺はしらっとした顔で応じると、暑苦しい上着を脱ぎ捨てて、シャツの襟の釦をふたつ三つ外した。
「んな、会う約束してたわけでもねえのに、俺がいなかったからって一々恨み言並べに来るこたァねえだろ」
 些か乱暴に胡座をかきながら言い返してやると、伊東は「それはそうですけどね……」と不足げに呟いたが、不意にがばと俺の胸倉につかみかかってきた。
「──なな、何しやがるっ」
 慌てて振りほどこうとしたが、伊東は何に気を惹かれているのか、つかんだ俺の胸倉辺りを凝視している。いつもの縋り付きとは違うぞと訝った時、奴が変に尖った鋭い声をあげた。
「土方さんっ、この痣は誰が付けたんですかっっ!」
「痣?」
「しらばくれても無駄ですっ、喉許のこの赤い痣、私の目にはどういう印だかは一目瞭然ですよっっ!」
 赤い痣?
 俺はドキリとした。見ないようにしていたがそれでもちらと目に入ってしまった有希殿の喉許の赤痣が思い出される。
「──まさかっ、向こうの私ではないでしょうねっっ!?」
 俺の動揺をどう取り違えたか、伊東の奴は白面を朱に染めて喚く。
「あのなあ、何でそういう考えになるんだ馬鹿野郎。向こうの伊東君なら、昨日今日は姿も見せてねえぞ」
「本当でしょうねっ!?」
「ンなァ嘘ついてどうするさ。向こうの俺の言うことにゃ、昨日は向こうの屯所で向こうの俺と夜っぴて飲み明かして一緒に潰れたそうだな」
「あ奴でなければ他に一体誰がこんな口吸いの跡を付けるというんですかっ!! あああ、いいですねえっ、向こうの私はっ、土方さんと夜っぴて飲み明かせてひとつ部屋で枕を並べて眠れるなんてっっ!!」
 憤懣る方なしといった風情で、伊東の奴は俺をがくがくと揺さぶる。まったく、悋気持ちの女房じゃあるまいし、どうしてそこまでいきり立つのだか。第一、向こうの伊東君が夜っぴて飲み明かして云々した相手は俺じゃないぞ。
 とは言え、こういう焼餅の焼かれ方は、今の俺には、それほど嫌でもなく思える。変に陰に籠もった態度でねちねちと責められるより余程気持ちがいい。伊東の奴がこんな風に身も世もない焼餅でじたばたするのは俺に対してだけだというのもわかっているから、変な話だが、ちょっと得意でもある。
〈まあまあ、生身の私、落ち着いて。向こうの私は本当に無実ですよ〉
 有難いことに、亡霊の奴が横合にやってきて取りなしてくれる。
〈昨日土方さんとひとつ布団でお休みになったのは、近藤有希殿なんで。だから、そんなに妬かなくても大丈夫ですよ。お互い寝惚けて痣の付け合いっこをしただけですから〉
 ……前言撤回。全っっ然、有難くない。
 冷や汗がにじんだ。亡霊の奴は生身の人間のようには眠らないから、一部始終を見ていた筈だ。痣の付け合いっこ、とは一体……
「近藤有希殿……」
 一方、伊東の奴は、奇妙に気を殺がれた様子で、俺の襟から手を離した。
「……そうでしたか……取り乱して失礼しました」
「んん? 有希殿なら悋気は起こさねえのか?」
「……恩義がありますから」
 伊東はそうとだけ呟いて、ひとつ小さな息をついた。
「襟元は開けておかないことですね。目の毒です」
「毒だと思うなら見なきゃいいだろ」
 言いながら、俺はそれでも釦を留《と》めた。
「ったく、このくそ暑いのに……」
〈だからって、服を脱ごうとなさることもないでしょうに……本当に暑くて脱いだんですかねえ〉
「は?」
〈嫌ですねえ……覚えておいででないんですか?〉
 亡霊の奴が、恐ろしく意味ありげな流し目で俺の顔面を撫で切る。
〈夜中に、片手で有希殿を引き寄せながら、もう一方の手で着物の釦とやらを全部外して脱ぎ捨てようとしたじゃありませんか〉
「なっ……」
〈ちなみに土方さん、その時には半分、目を開けてらっしゃいましたよ〜。でも、意外に脱ぐのに手間取って、片袖脱ぎ捨てたところで力尽きたか、またお休みになってしまわれましたけどね。ふふふふ……〉
 冷や汗が、にじむどころか、たらたらと背筋を流れた。目を開けていたと言われても、全く覚えがない。
「……おい亡霊っ。嘘こきャアがると承知しねえぞ、何があったか、見たこと全部正直に喋りやがれっ」
〈そ、そんな〜、そんなの怖くて言えません〜。もし向こうの土方さんに洩れたら、あなたが殴られるどころぢゃ済みません〜〉
 嘘っぽく震えながら、亡霊はぷるぷるかぶりを振る。
 ……く、くそう、脅しやがって。
 当分これをネタに俺をからかって楽しもうという魂胆が見え見えだ。
 しかし……覚えがないものは仕方ないが、客観的に見て、お互いが痣を付け合ったという亡霊の言葉は、疑いづらかった。口吸い痣などというものは、どう頑張っても自分で喉許に付けられるものではない。
 俺は、伊東と亡霊の奴をどうにかこうにか理屈を付けて部屋から追い払うと、脱ぎ捨てた上着の隠しから、片掌に収まる程の小さな方形の鏡を取り出した。鏡面を、蝶番で繋ぎ合わされているらしい蓋で覆えるようになっている。開いた蓋を鏡の裏の方へ回せば簡易の台になって、鏡面を見易い角度で机などの上に置くことも出来る。少し前に内藤……“ぱられるわあるど”とやらの俺に頼んで譲ってもらった代物だ。鏡面に映る像が驚くほど鮮明なので、例えば目に入ったゴミを探す時などに重宝している。
 再びシャツの釦をふたつ三つ外し、伊東の奴が凝視していたのはこの辺りか、と思う辺りを映してみる。
 ……確かに、ほんのりと桃色をした小さな痣が付いていた。しかも、三つ。……しかし、俺に並ならぬ恋着を抱《いだ》く伊東だからこそ目敏く見付けられたのではあるまいか、と言いたくなるほど色が淡い。あんな大騒ぎをするほどの痣ではあるまいに……いや、向こうの伊東君の仕業だと勘違いしたから大騒ぎしたということか。
 俺はぱたりと手鏡の蓋を閉じると、上着の隠しに戻した。
 ……客観的に考えて、有希殿の喉許に赤痣を付けたのは、亡霊の奴に言われるまでもなく俺であろう。
 寝ていた間に女の夢を見た覚えはないから、有希殿のように夢の中の誰かと間違えて云々、ではない。見ていたことにしてもいいかと思う気持ちもないではないが、夢見をでっち上げてまで言い訳をするのは見苦しいという気持ちの方が、もっと強い。
(……有希殿に、謝らなくてはなるまいな)
 だが……有希殿と“痣の付け合い”をしたことを向こうの土方に対して申し訳なく思う気持ちは、弱かった。
 何故なら、少し突き放した目で眺めれば、向こうの土方があれほど度外れた剣幕で怒ったのが、自分と根っこが同じ人間である筈の俺が、寝ている間にとはいえ有希殿に“手を出す”ような振舞をしたせいである、というのが見えるからだ。
 つまり……
 奴は、自分なら寝惚けて女を抱き寄せ口吸いの痣を付けるぐらいのことはやりかねんと自覚している。しかし有希殿に対しては断じてそんな真似をしてはならないと強烈な縛りを自身にかけている。だから、有希殿に対していとも簡単にそれを仕出かしてのけた俺に対して、同じ立場に置かれたら自分も同じことを仕出かすかもしれないという怯え混じりの怒りに駆られるのだ。
 ……もっと言うなら、俺から不埒な真似をされた……らしい……筈の有希殿が俺に対して嫌悪どころか好意を示していることにも、狼狽したのかもしれん。
 そして、恐ろしく身も蓋もない言い方が許されるなら、向こうの土方の怒りの奥底には、自分が我慢しているのに俺が先に手を出した、という、嫉妬混じりの気持ちも潜んでいたのではあるまいか。
 ……有希殿への気持ちから目をそらし抑え付けている奴自身は、そこまで気付いていないかもしれないが。
 もっとも、奴が自身の有希殿への本当の気持ちから目をそらしたまま俺に怒りをぶつけたからと言って、責めることは出来ない。では俺自身の心の奥底には何が潜んでいるのか、という話になると、途端に俺の探究の矛先が鈍るからだ。
 自分のことは、なかなか見えないものなのだ。
 有希殿も、向こうの土方も、そして……俺も。

「土方さんっ、今夜は何が何でも茶店には行かせませんからねっ」
 生身の伊東の奴が自分の夕餉の膳まで持参して押しかけてきたのは、翌日、宿所の居室でのんびりとひとり夕餉を摂っている時であった。
 俺は苦笑いを浮かべると、座布団をぽんと放り投げ、座るようにと促した。
「俺がいつ何処へ行こうが、俺の勝手だろう。何の義理があって、俺がおめェの我儘に付き合わなきゃならねえんだか」
「私は別に我儘など──ただ私は、向こうの私の──」
「おい、まだ、納涼の会での向こうの伊東君の振舞を根に持ってるのか。おめェの焼餅焼きには馴れてるが、向こうの伊東君に対してだけ、ちいっと凶暴過ぎねえか? 幾ら向こうの伊東君が懐こいからって、あんなにムキになって足蹴にするこたァねえだろうに」
 呆れ顔で言ってやると、伊東は不服げに押し黙った。
 俺は肩をすくめた。
「……って俺が言うと、またぞろ向こうの伊東君憎しの念が募るんだろうな、おめェは。別に俺ァ、おめェより向こうを好いてるだとか、取り替えたいと思ってるだとか、そういうことは全然ねえんだがな」
「……嫌な方ですね、あなたという方は」
 ほっとしたような表情と面白くなさそうな表情の混じった顔で、伊東は呟く。
「そんな風に言われてしまうと、やいのやいの言う私が如何にも狭量な人間ということになってしまう」
「心配しなくても、今日は茶店には行かねえよ」
 どうせ、またそろそろ、飲み明かしぃの愚痴こぼしぃの発作が起きる頃だろうと思ってたよ、と言ってやると、伊東は嬉しそうに、不器用に微笑んだ。
「私とて、別にあ奴を憎んでいるわけではありませんよ。ただ……自分と全く同じ外見の者が、すんなりとあなたに受け入れられているのを見ると……私が同じことをした時にはあれほど邪慳にされたのに、どうしてお前ばかりが、と無性にカッとなってしまう。普段は落ち着いて物事の是非善悪を考えられる筈の私なのに、あなたのことが絡むと、自分ではどうしようもないほどに心が乱れてしまうのです。そこへ持ってきて、あ奴は、私と姿形や根が同じ。自ずと、他の者に対してよりも、羨んだり妬んだりする気持ちは強烈になる。何故、姿形が同じ筈なのに……と」
 それは……昨日の朝の向こうの俺と共通する心の働きなのだろうな。
 伊東にとっての俺が……向こうの俺にとっては有希殿、というわけだ……。
(……何を考えているのやら)
 身の回りの事共をすぐに向こうの連中に結び付けて考えてしまうとは、どうしたことか。
(存外、有希殿の魅力に毒されでもしたかな)
 俺は短く嘆息し、己に向けてフッと苦笑してみせた。
 そして、気を取り直して自分の膳の銚子を取ると、黙って伊東に差し出し、そら盃を取れと無言で促したのだった。



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