長い廊下の向こうから、ひとりの少女が歩いてくる。
 月の滴を集めたような|白金色の髪《プラチナブロンド》が、細い肩を過ぎ越して真っ直ぐに流れ落ちている。小さな薄紅色の耳飾りが、ちらちらと揺れる。
 柔らかな光沢を秘めたフィフィル布製の袖なし貫頭衣に、踝《くるぶし》近くまである長いマント──この世界《ミディアミルド》ではリュカマイルコープと呼ばれる──を両肩の釦《ボタン》で留《と》めて背中へと垂らし、一方、胸の辺りには、下の服地が透けて見える薄布が、やはり両肩の釦で留《と》められ、襞を作っている。色は全て、薄紫。辛うじて足許、靴だけが白い。
 少女の年の頃は、十ばかりだろうか。しかし、その全身からは、見た目の年齢にそぐわぬ落ち着きが滲み出ていた。無表情ながら端整な顔立ちの中、きっと軽く引き締まった口許は、見る者に彼女の芯の強さを窺わせて余りあった。
 少女の両手には、底の浅い白木の器。その中には、汲んだばかりと思《おぼ》しき清水《せいすい》
 廊下は薄暗い。細かな埃が、石組みの壁に穿たれた窓から斜めに射し込む午前《ひるまえ》の光の中を、緩やかに舞っている。光は、少女の携えている水の上で、時折れる。
 と、そこへ、少女と反対方向から、二十《はたち》そこそこの青年がひとり、彼女の方へと駆け寄ってきた。
「ミグ! 彼は目を覚ましたかい?」
 少女はかぶりを振った。
 その灰青色《ブルーグレイ》の瞳には何も映っておらず、目の動き自体しい。
「まだかぁ……」
 青年は、がっかりしたような表情を隠さず、大きな息をついた。
 やや長めの黒褐色の髪と、同じく黒褐色の瞳を持つ、割合に整った、陽性の印象を人に与える顔付きの青年である。
「此処に“移送”されてから、もう七日も経ったのになあ……まさか、このままずうっと目が覚めないまんまの“眠りの病”に罹ったなんてことは、ないだろうね?」
「いいえ、ソフィア、これはきちんと予言されている眠りです」
 水持つ少女は、穏やかながら涼しさの漂う声で答えた。
「ソフィアは『カフィルス』の五二番を覚えていないのですか?」
「あんな七面倒臭い本、訳がわからないよ。赤き瞳の者がどーとかこーとかってだけならまだしも、花が咲いたの、大地が歌を口遊むだの言われてもね……何が何の比喩なんだか、ちっとも見えやしない。わからない本を無理に読んでると、苦痛を通り越して無我の境地に至るね。はっと意識が戻ると日が暮れてたりなんかする」
「……そう言えば、昨日も『カフィルス』を読みながら居眠りをしたそうですね」
「あ、昨日のはね、ほら、五日間の強行軍から戻った翌日で疲れてたってことで、つい朝から無我の境地に……」
 『カフィルス』とは、混迷以前《プロダニュア》の時代に成立したと伝えられる予言書の名である。長老、予言者、導者、巫女といった聖職者達の必読書のひとつとされており、それぞれの見習や長老候補──いずれ長老の地位に就くことが予定されている、見習的立場に在る者──も無論精通しておく必要があるとされている、そんな書物である。
「まあその……僕の場合、まだ長老グランはお元気で、当分僕の出る幕はないわけで……そう急いで勉強勉強ってカリカリすることもないかなー、と」
「勉強嫌いの長老候補についても、『カフィルス』は予言しています。長老グランも苦笑なさっておいででした」
「ええっ? 参ったなあ……何て書いてあった?」
「自分で読みなさい。それが読破の切っ掛けになれば良いのです」
 少女は厳しく言ってのけ、青年の横を擦り抜けた。
「あ、ちょっと待って、ミグ」
 ソフィア青年は慌てて少女の後を追う。
「彼は、いつ目を覚ましそう?」
「ごく近い内に、という予感はあります」
 ミグと呼び掛けられた少女は些かも歩《ほ》を緩めない。
「そうか、それじゃ、彼が目を覚ましたら知らせてくれる?」
「誰かを知らせにやりましょう」
 とても十歳程度とは思えない、しっかりとした口調であった。ソフィア青年は微苦笑し、それじゃ宜しく、と言って、彼女から離れかけた。
 その時、けたたましい悲鳴が廊下に響いた。
 少女と青年は、期せずして同時に互いの顔を見た。
 ──あの部屋だ。
 共通の認識が彼らの間に閃く。
 素早く駆け出したのは、青年の方であった。急ぎ走って、その場から数えて三つ目の扉の把手に手を掛ける。
 扉を引き開けた途端、またも上がった女達の金切り声が、彼の耳をじいんと鳴らした。
 と同時、部屋の中でひとり凶悪な気を放《はな》っていた小柄な青年が、新たな人物到来の気配に気付いて、戸口の方へ振り返った。
 髪と瞳は、海の底から掬い上げたような、深い濃青色《コバルトブルー》
 その青い瞳が、戸口に立つソフィア青年の姿を認めて、激烈な輝きを帯びた。
「──貴様! あの時の!!」
 青い髪の青年は眦《まなじり》を裂いて喚き、卒然、野獣の如くソフィア青年に躍り掛かった。



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