四肢
《しし》を折って座る時に、首を伸ばして縁側
《えんがわ》に頭を乗せるのは、俺にとっては少しくつらい姿勢であった。
だが、宿所でも此処
《ここ》の茶店でも、俺は時折こうして首を伸ばし、縁側に乗せる。縁側や室内で気になることが起こっている時には、そうすることでその出来事に少しでも近付くことが出来るし、また、俺がその出来事に注意を向けていることを周囲に知らせ得
《う》るからだ。
四つ足の身に生まれ変わって人とは口を利
《き》けなくなった今の俺には、そのくらいしか、意思を簡単に表わす手立ては思い付けぬ。
ただ……そのまま眠るとなると、かなりの無理を長時間
|強
《し》いられることになる。
普段は、立ったままで眠る。そうでなければ、座り込んで首を腹の方へ回し、とぐろを巻くようにして眠る。それが、この身には一番楽なのだ。
けれども、昨夜は、無理をしてでも、添うてやりたかった。
さっきまで、縁側で僅
《わず》かに手足を引き付けるようにして眠っていた男に。
……その男は、今は、縁側で胡座
《こざ》し、黙々と朝飯
《あさめし》を掻
《か》き込んでいる。昨日
《きのう》の残り物らしい冷や飯と、こちらは一から自分で拵
《こしら》えたらしい味噌汁
《みそしる》、そして、切り分けた沢庵
《たくあん》。それを、飯、味噌汁、飯、沢庵、飯、味噌汁、飯、沢庵……と、実に規則正しく口に運ぶ。飯を食えるのなら大丈夫と思いたかったが、その所作には生気や覇気
《はき》が多分に欠落している。表情は殆
《ほとん》ど動かず、味わっているようには全く見えない。ただ食べているだけ、そんな感じであった。
そんな食事でも、やがては終わる。
後片付けを済ませた後で、男は、再び縁側に戻ってきた。
何処
《どこ》か茫
《ぼう》とした目で庭の彼方を見やり、そして、じっと見つめる俺に初めて気付いたように、目をしばたいた。
「早蕨
《さわらび》……」
男が口にしたのは、他ならぬこの男、土方歳三
《ひじかた としぞう》が与えてくれた、今の俺の名である。その名を貰
《もら》う前に呼ばれていた名は、もう忘れた。名前もなく、馬公、と呼ばれる方が多かったような気もする。
俺は一度だけ瞬
《まじろ》ぎ、相手の次の言葉を待った。
昨日、土方は、亥
《ゐ》の刻にもなろうかという時分に厩
《うまや》を訪れ、俺を外へ連れ出した。その時に彼は、ただひとこと『亡霊の奴が戻ってこん』とだけ言った。それから俺の背に跨
《またが》り、亡霊──伊東甲子太郎
《いとう かしたろう》という男の亡霊の立ち寄りそうな場所を片っ端から走って回り、そして、最後にこの茶店へ辿
《たど》り着いた。
その何処にも、求める亡霊の姿はなかった。
実を言えば、伊東という男の亡霊は、よくふらふらと宿所を抜け出す。抜け出したまま何日も戻ってこぬことも珍しくはない。だから、その日の朝に出掛けていった相手を捜し回るというのは、表面的に見れば、奇妙な話だ。
しかし、奴と土方との間には、奇妙な紐帯
《ちゅうたい》がある。土方には、奴の不在が尋常
《じんじょう》の不在ではないと感じられるのだろう。
俺が奴の存在に気付いたのは、江戸で土方と再会し、己が何者であり何ゆえにこの世に生まれてきたかを思い出して後のことである。奴は、俺を毎日のように遠乗りに連れ出す土方を、他の隊士や小姓達からは少し離れた場所でぽつんと佇
《たたず》み、いつも見送っていた。その容姿は俺の遠い生前の記憶には見当たらず、何者であるかはわからなかったが、亡者
《もうじゃ》であることは疑いようもなく、そしてその念の向けられる先が土方であることは、確かめるまでもなかった。
最初は、土方に恨みを持って死に、危害を加えたくて隙
《すき》を窺
《うかが》っている亡者かと警戒した。鬼面
《きめん》を被
《かぶ》り修羅
《しゅら》の道を歩いてきたであろう土方を恨みに思う者は、幾
《いく》らでもおろう。その中に、死してなお土方の命を狙おうという妄執
《もうしゅう》に囚
《とら》われた者が居
《い》ないとは断言出来ぬ。
もしもあの亡者が土方に危害を加えようとするようなら、踏み付け噛み裂かねばならぬ。
俺は、避けられぬ死が土方を川向こうへ誘
《いざな》うその日までは土方を護
《まも》る、その為
《ため》に生まれてきたのだから。
しかし、その警戒は、じきに、無用のものであることがわかった。その亡者が亡者らしからぬ風情
《ふぜい》を漂わせていることは、さりげなく傍
《かたわ》らをうろうろして観察してみれば明らかであった。土方に危害を加えるどころか、寧
《むし》ろ、土方に近付き過ぎてその生気を奪ってしまう羽目
《はめ》になることを恐れている節
《ふし》があった。
やがて俺は、その亡者が時折ぶつぶつと洩
《も》らす独白から、どうやら彼が、土方を恋う余りに身を滅ぼし、それでもなお土方の傍
《かたわ》らに居たいというそれだけの妄執ひとつでこの世に留まっているらしいことを察した。
亡霊となったくらいなのだから、その想いの深さ激しさは容易に窺い知れる。けれども、どんなに気を付けて見ていても、奴には、普通の亡者にありがちな剥
《む》き出しの妄執は感じられなかった。恐らく、奴の元々の性分
《しょうぶん》が、そういった妄執を露
《あら》わにすることを好まなかったのであろう。
面白い奴だ、と俺は思った。望む望まざるに関わらず亡者の魂
《たましい》が見えてしまう俺だが、節度を知る亡霊などというものには、それまでお目に掛かったこともなかったから。
そして、いつの頃
《ころ》からだったのか、土方もその亡霊の存在に気付き、相手が側
《そば》近くに寄ることを積極的に許したようであった。
そうとなれば、俺にとってその亡霊は、土方の為に必要な相手である。一緒に護ってやるに吝
《やぶさ》かではなかった。
当の亡霊は、俺と言葉を交
《か》わせることを知り、俺が何者であるかを知った最初こそ、嫉妬
《しっと》からか刺々
《とげとげ》とした態度で突っ掛かってきたが、程経
《ほどへ》ずして、ほぼ蟠
《わだかま》りを解
《と》いて俺と接するようになった。やがて時が来てこの里に今のような形で落ち着いてからも、折々に皮肉や憎まれを叩
《たた》きながらも、俺との関係を自ら断つような真似
《まね》はしなかった。
しかし、どうやら奴は今回、俺ばかりか、土方との関係も自ら断つような形で、行方
《ゆくえ》を眩
《くら》ましてしまったらしい。
土方ゆえにこの世に留まった亡者にとっては、それは、少しく自殺行為なのだが。
正直、俺にも、奴が何故
《なぜ》姿を隠したかはわからない。
だが、今此処で理由を詮索
《せんさく》しても始まらぬ、と思う。当人をひっ捕まえて問い質
《ただ》すのが、最も確実だ。
とは言うものの、はて、奴は一体何処へ姿を眩ましたのか。
少々の範囲──それこそ、作夜駆け巡った範囲であれば、奴が何処をふらついていようと、何となく行先
《いきさき》を掴
《つか》むことは出来る。が今は、如何
《いか》に意識を凝
《こ》らしてみても、奴の気配は皆目
《かいもく》感じ取れない。まるで、この“世界”──里長
《さとおさ》の普段の言い回しを借りれば、“『まなざし』の作品世界”──から消えてしまったかのようであった。
……ただ、この茶店では、ほんの微
《かす》かにだが、奴の気配を感じることが出来る。しかしそれは、今此処にいるという気配ではない。残り香
《が》のようなものだ。
奴は、昨日間違いなく此処へ来た。そして、此処から、当て所
《ど》なく何処かへ──恐らくは“別の作品世界”へ、流れていった。
この茶店が建っている一帯は、里の中の何処の“作品世界”とも繋
《つな》がっていると聞く。つまり、此処からなら、里の何処
《いずこ》へなりと赴
《おもむ》くことが出来るのだ。
(土方はいずれ動く)
俺は、じっと、土方の顔を見つめていた。今は亡霊が何の断わりもなく雲隠れしてしまったことに昔の似たような出来事を思い返して心弱くなっている土方だが、いつまでも打ち拉
《ひし》がれている男ではない。必ずや、何らかの行動を起こすに違いなかった。
「……何を、言おうとしてる?」
俺が余りに見つめ続けるものだから、流石
《さすが》に土方も、俺が何事かを告げたいらしいことに気付いたようであった。
ただ、俺は、何かを明確に言葉にしたいわけではない。
土方が己が何を為
《な》すべきかの答を見出
《みいだ》す、その手助けが出来ればとは思うが、俺自身が土方に対してああすればいいこうすればいいと示唆
《しさ》したいわけではない。たとえ言葉が通じたとしても。
多くの場合、人は、これから何を為
《な》せば良いのかと自問した時、既に、己の裡
《うち》に答を持っているものだ。答が出るか否
《いな》かの違いは、裡にある答に気付くか気付かないか、それだけだ。
だから俺は、ただ土方の言葉を待った。彼がどんな答を出すかを、言葉の端
《はし》から聴き取ろうと。それが出来れば、答に向かって背中を押すことぐらいはしてやれるかもしれぬ。
やがて土方は、何かを思い出したような目で、俺を見直した。
「ああ……そうか、おめェには……奴の姿が、俺には見えねえ時にも、見えるんだったな」
その言葉に、俺は、土方が出そうとしている答を悟った。
そしてそれは、俺が密
《ひそ》かに予想していた通りの答であった。
俺は、頭を一度だけ、上下に動かした。それが、人間目には頷
《うなず》きと見えることを承知の上で。
果たして、土方は、僅かに驚いたように目をしばたいた。
「……今、頷いたのか?」
俺がもう一度頷くと、土方は苦笑し、「目がおかしくなったかな」と呟
《つぶや》いた。だが、その口調
《くちょう》は、俺が頷いたことが信じられないという風
《ふう》では全くなく、俺が頷いてもおかしくないことを知っている者の軽い冗談口のように聞こえた。
土方は、ほんの少し考える目をして、それから改めて口を開
《ひら》いた。
「捜しに行こう、と、言ってくれてるのか……?」
俺は、ちょっと間
《ま》を置いてから、頷いた。
姿を眩ました伊東の亡霊を捜しに行く、それこそが土方の出した答だと悟っていたから。
俺が為
《な》すべきは、その決心を後押ししてやることだけだ。
「何となくな……おめェの言いてえことが、わかる気になることがある。奇妙なもんだが」
確かに土方は、俺の“正体”を知る前も、知ってこの里へ戻ってきてからも、俺の言いたいことがわかっているとしか思えない言動を見せることがある。が、今はただ単に、己の裡にある答を、俺を鏡にして映し、確かめただけだ。
もっとも、そんなことを指摘するつもりはないし、第一、俺は、馬なのだ。人間である土方とは、言葉を交
《か》わすことは出来ぬのだ。
「……そうだな。此処でじっと待つなんてのは、俺の流儀じゃねえ。この里に棲
《す》むあいつは、最後に俺に会いに来た時のあいつだと、里長から聞いてる。……川を渡っちまう前の。だったら、自分で川を渡っちまってねえ限り、この里の中に居る。この里の中に居るなら、隅々
《すみずみ》まで回れば、何処かに居る」
半
《なか》ば独
《ひと》りごつように俺に語り掛ける内に、土方の表情は、見る見る生気と覇気を取り戻した。俺は、その表情の眩しさに目を細めた。
Copyright (c) 2002, 2003, 2016 Mika Sadayuki
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