二〇〇四年の正月休み明け、行きつけのサイトさんで、土方さんのお写真が印刷されたバス共通カードが京王電鉄バスから発売されている、という情報をキャッチした。
 何でも、日野市で今年開催されるイベントの一部会場の入場料金割引パスも兼ねているらしい。当方、別に割引がなくてもいずれ行くつもりではあるけれど、折角値引きしてくれるというものを拒むこともない。
 おまけに、使われているお写真が、私の一番好きな、佐藤家所蔵の無修正版半身写真。
 これは、是非とも入手したい。
 ところが、京王電鉄のサイトへ行ってみたところ、通販は行なっていないとのこと。……うーむ、直接購入しかないのかー。
 という次第で、情報を得た翌日である一月七日、仕事帰りに、職場から最も近い京王電鉄の駅、渋谷や新宿へ回り、バスカードを売っていそうな駅売店に立ち寄ってみることにした。
 しかし、そういう時に限って、仕事という奴は降ってくる。定時に職場を出られればと思っていたのに、何とか出られそうな状態になったのは十九時半過ぎ。空腹で目が回るほどだったので、何か食べてからでないと動けない。だが、カード類も扱っていそうな鉄道各社の定期券売り場は大抵、二十時には閉まってしまう。そして、私が在所を知っている京王井の頭線渋谷駅外の売店も、確か早仕舞する店だった気がする。うーん、今日は無理か……
 などと思いながら、コンビニで買ってきた貧しい夜食をぼそぼそと食べていたのだが、どうやら人間、適度に腹が落ち着くと前向きになれるものらしい。食べ終える頃には、「ええ〜い、駄目元で新宿駅へ行ってみるかっ」という気持ちになっていた。
 何せ、情報を得た時点で既に「発売中」だったのである。いつから発売が開始されたかわからないというのが怖い。一日行動が遅れれば、それだけ、売り切れの確率が高くなる。
 それに、新宿駅で売店を探したことはまだない。行くだけ行っておけば、仮に売店が閉まっていたとしても、次に来る時には探し回らなくて済むというメリットはある。
 
 そんなこんなで、職場を出た私は、帰宅路とは逆方向の地下鉄に乗り、新宿で下車した。
 既に二十時などとっくに回っている。地下鉄の新宿駅から一番近い京王線改札がある西口までやってくると、勤務帰りの人達で嫌になるほどごった返しているのに、定期券売り場は案の定閉まっている。
 が、その近所の売店は……幸いなことに、まだ開いていた。
 良かったあ〜、来た甲斐があったあ……
 喜び勇んで店に近付いた私、ふと、足を止めた。
 普通、記念カード類が売られていれば、店の何処かに掲示してあるものである。最低でも、手書きで「○○のバスカードあります」と紙に書いて貼っている筈だ。それは、京王井の頭線沿線に二年ほど暮らしていた頃、遠方に住むキティラーの知人の為にキティちゃんバスカードが発売される都度購入していた経験上からも、間違いない。
 しかし、目の前のこの売店、「バス共通カードあります」とは書かれているが、土方さんのお写真カードのことは一切書かれていない。
 
 ……売り切れたのだろうか?
 
 さあ、困った。
 何しろ、この手のことに関しては非常に照れ屋の私である。彼の名を口に上せて「土方歳三のバスカードありますか?」なんて訊ける筈もない。
 考えた挙句、此処が駄目でも他の売店には何か情報があるかもしれない……と、京王線だけでなくJR線・小田急線・京王新線も乗り入れている複雑で広ーい新宿駅の構内を、取り敢えず、延々ぐるぐる回ってみる。だが、京王グループの売店は見付からない。所々で目にかかるのは、他社線系列の売店ばかり。
 結局、三十分近く歩き回っても成果なく、最初に見付けた売店のある京王西口へ戻る羽目になった。
 うう……やはり、勇気を出して「土方歳三の……」と訊いてみるしかないのだろうか……
 思いつつ辺りを見回した目にふと留《と》まったのは、構内の柱に寄り添うように置かれていた、沿線イベントやツアーなどのチラシがずらりと立てられているスタンド。
 おおっ! あの中に、バスカード発売のお知らせか何かが差されていないかしら?
 それさえあれば、こっちのもの♪ そのチラシを示しながら「このカード、ありませんか?」と訊けば良い。そう、「土方歳三」という固有名詞を口にしなくて済むのである(笑)。
 近寄って探してみたところ、あいにく単独での広告ペーパーはなかったが、広告紙「京王ニュース」一月号の一面にちゃんと、発売カード情報が写真付きで載っていた。ラッキー、これで店の小母さんに訊くことが出来るわ……
 が、その紙面に記載されている情報には、気になる事柄が一点、あった。
 昨日京王電鉄のサイトを見に行った時にも同じように書かれていたような気がするのだが……発売場所の欄に、「京王電鉄バスグループ車内」としか書かれていないのである。
 ……まさか、定期券売り場や売店では売ってなくて、バスの運転手さんからしか[#「しか」に傍点]買えないとか?
 そうであれば、訊き方は自ずと決まる。
 売店の小母さんに「済みません、ちょっとお尋ねしたいんですが……」と声をかけた私、手の中の「京王ニュース」紙面を示しながら、こう尋ねた。
「あの、こちらのバスカードは、バスの車内でしか販売されていないんですか?」
 店の小母さん、そんなことを訊かれたのは初めてどころか、どうやら土方さんのバスカードが出ていること自体御存じなかったようで、「ええっと? このカードはウチでは……ああ、でも、京王バスのカードって書いてありますねぇ……済みません、ウチでは置いてないんで、多分そうだと思います」と済まなそうに答えてくれた。
 ううーむ、仮にも新宿駅の京王の売店に全く置かれていないということは、恐らく、他所の駅へ行っても結果は同じだろう。
 私はお礼を述べて場を離れると、そのまま地上へと向かった。
 だって、京王売店で入手出来ないのなら、どれでもいいから京王電鉄のバスに乗って、運転手さんから買うしかないではないか(苦笑)。
 
 此処でまず問題になったのは、私が都心の地理に疎いことだった。何しろ、新宿といえば、新宿駅の周辺を歩いたことしかない。事前の下調べもなしに全く知らない路線のバスに乗車して、とんでもない場所へ連れていかれてしまったら、帰ってこられない……とまでは言わないが、夜も遅くに未知の土地で道標を探してうろうろするのは甚だ宜しくない。……いや、これでも一応、女性の身なんである。
 更に、道に迷うことよりも恐ろしいのは、いざ乗ってみたはいいが、そのバスの運転手さんのその日の持ち分が売り切れてしまっているというケース。
 こうなると、バス代の支払い損になってしまう。
 とは言うものの、野間みつね、バスカードを買ってさっさとひと駅で降りてしまうというのではバスカードの為だけに乗りましたということが余りにもあからさまで実にみっともない──と考えてしまうような性分である。運賃を払う前にバスカードの有無を尋ね、なければ乗らない、という醜い行為など、論外である。
 ……此処でお断わりしておくが、これ、他人がそういう行動を執ることを「みっともない」とか「醜い」とか思っているわけではない。自分がそうしている姿を自分が見るのが嫌なだけなのだ。以前別の随想で書いた“旅先でガイドブック類を手に持って歩くのは美しくないから嫌だ”という心理と、根は同じである(苦笑)。
 
 さて、東京都区内を走るバスは、多くが、路線内何処まで乗っても一律二〇〇円である。私が京王百貨店の前で見付けた中野車庫(……って何処だ?)方面行きのバスも、そうであった。バスの前扉から乗る時に運賃を先に支払い、降りる時には車内中程の扉から下車する、というシステムである。
 まずは、バス停留所で時刻表を確認。……この時間帯でも、十分に一本程度と、随分走っている。そして、殆ど全てが中野車庫止まりである。ということは、中野車庫とやらから此処へ戻ってくるバスが結構あると見て良いだろう。が、用心の為に、一台、到着から出発までを見届けてみる。……乗ってきたお客さんを全て降ろしてから待ち客を乗せ、暫く停車してから発車してゆく。ということは、終点まで乗っていけば、逆の路線を辿って此処新宿駅を終点とするバスは確実に出ている筈である。
 どの道、何処まで乗っても二〇〇円。次の停留所で降りたって、終点で降りたって、所用経費は同じ(苦笑)。だったら、いつもの帰宅時間に比べたらまだ随分早い時間帯なのだし、寄り道してしまうのも悪くないか。
 戻ってくる算段が付いたので、次のバスが来るのを待ち、思い切って乗り込んだ。
 ……え? もう一点の、そして最大の懸念事項については解決出来たのかって? ……ええい、これまで土方さん絡みのチャレンジで致命的な空振りには終わったことのない自分の運を信じよう。乾坤一擲、当たって砕けろだいっ。
 まず、手持ちのバスカードを運転席横の運賃箱に通し、「ちゃんと乗る客ですよ」という無言の意思表示をする(苦笑)。
 そしてその上で、ずうっと握り締めたままの「京王ニュース」を運転手さんに示して、
「済みません、こちらのバスカード、まだありますか?」
 私の指し示した先を覗き込んだ運転手さん、さっきの売店の小母さんとは対照的に、カードの写真をひと目見るなり、
「はい、ありますよ」
 
 ……うああ、よ、良かった〜、運賃無駄にならずに済んで(爆)。
 
戦利品(笑) 斯くして、頼まれ物も含めて五枚、無事に購入。その時に「おひとり一〇〇〇円ずつで五〇〇〇円です」と言われたことが、今でも不思議である。普通なら「一枚一〇〇〇円ずつで五〇〇〇円」と言いそうなものだが……まさか、一枚一枚に写っている土方さんを指して「おひとり」とおっしゃったのだろうか? いやあ、まさかねえ……とは思うものの、もしそうなら、なかなかユーモアのある運転手さんである。うーむ、お名前をしっかり拝見しておくんだったな(苦笑)。
 どうせ終点まで乗るんだから出にくくてもいいやと、一番後ろの座席の隅っこに座る。降車口に近い席に座りたがる私にしては極めて珍しい座席選びだが、今改めてあの時の気持ちを思い起こしてみると、ただ土方さんのバスカードの為だけに勇を奮って乗り込んだことが何となく気恥ずかしかったが為に、運転手さんから一番遠い座席を無意識に求めてしまった……という辺りが真相なのかもしれない。
 
 信号やカーブや停留所などでこまめに喋る運転手さんの運転するバスに揺られること十五分ほどで、終点の中野車庫に到着した。
 折り返し待ち客を乗せて帰るのかなと思ったが、このバスは車庫に入ってしまうらしい。無論、乗ってきたバスに乗って帰るのでは、カードの為だけに乗りましたというのが運転手さんにバレバレになってしまうので、そんなことをする気は最初からなかったけれど。
 車庫から交差点へ出ると、向かいの角にモスバーガーが見えた。……外から見た感じ店内はガラガラだし、休んでいくとするか。折角お金を払って未知の土地まで来たのに、とんぼ返りで戻ったのではどうも味気ない。少しは滞在して、お金を落としていこう。小さな旅だと思って(笑)。
 既に幾許かの夜食は摂っているので、軽く、ポテトのSサイズとホットココアを注文。税込三七八円
 注文の品が届けられるまで禁煙席に座って待っていると、何だか……後から後から客が入ってくる[#ひとつ汗たらりマーク] 半分ほどはテイクアウトの客だったが、それでも、さっきまでガラガラだった店内のテーブルを、どんどん人が埋めてゆく[#ふたつ汗たらりマーク] ああもう、今日は人寄せパワー全開なのかしらん……
 
 苦笑いしながら、のんびりと三十分ほどかけて軽食を済ませ、中野車庫へ戻った。
 行きに見た新宿駅の時刻表での運行間隔からすると、十分ぐらい待つことになるかもしれないな……
 そう思いながら停留所でバスの時刻表を眺め始めた背中に、少し距離のある辺りでバスの扉の開く“ぷしゅー”という音と「どうぞー」という声とが届いた。
 最初は、声をかけられているのが自分だとは気付かなかった。しかし、「新宿行きでーす、どうぞお乗りくださーい」と再度の声が聞こえてくるに及んで初めて辺りを見回すと、車庫へ戻る時に渡った横断歩道で信号待ちをしていた小綺麗な感じのバスがいつの間にか車庫で停車して前扉を開けており、しかも、他にバス待ち風の人影はない。
 あ、私でしたか、失礼しました、と恐縮しながら歩いてゆき、乗車口である前扉からそのバスに乗り込んだら……
 
 ……運転席に座っていたのは、行きに乗ったバスの運転手さんだった(爆)。



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