二〇〇三年十一月八日午後二時過ぎ、私は、東京都日野市の京王線高幡不動駅近くにある「幕末めし処 池田屋」を、単身再訪した。
 その日私は、多摩市で開催中だった「新選組の人々と旧富澤家」という企画展を見に行くことにしていた。主たるお目当ては無論、土方さんから贈られた木曾八景和歌を屏風に仕立ててあるという品の展示だ。
 しかし──
 実はそれは、もうひとつの目的に比べれば、何日か前に生まれた俄《にわか》目的に等しかった。
 何故なら、行くと決めたもうひとつの、そしてそう決意した理由の半ばを占める目的が、途中で池田屋さんに立ち寄って、半年前に食べ損なった伊東甲子太郎丼の“消滅”の謎を解き明かそうという、半年も前から抱《いだ》き続けてきた懸案の解決に他ならなかったからである。
 
 半年前に「逃した魚は」を書いた時には、「伊東丼はやめたんですよ」というお店の人の言葉を恒久的なものと受け取り、ひどく嘆いた。
 ところが、その後、私の余りの落胆振りを気の毒に思ったのか、白牡丹さんが池田屋さんのメニューをウェブで調べてくださり、そこで見る限りは伊東甲子太郎丼がちゃんとメニューにあること、そして、作るのに時間がかかる数量限定の品らしいことを、情報として教えてくださった。
 もしかしたら……
 お店の人の「伊東丼はやめたんですよ」という言葉は、あの日のような、大量の来客が見込まれる時だけそうすることにしたんですよ、程度の軽い意味の言葉だったのかもしれない。
 そんな、希望的観測混じりの仮説が浮かんだ。
 無論、ウェブのデータは必ずしも最新とは言えない。そして、あの日は、メニューから品目そのものが消滅していた。だから、その日の数量が捌けて終わってしまったという意味だったとは考えにくい。伊東甲子太郎丼があの日メニューから抹殺されていたことは、ほぼ疑いを容れない。
 しかし……私があの日見たメニューは、品書きをパソコンで印字した紙や出来上がり写真を貼り付けた紙が、クリアファイルの各ポケットに差し込まれているだけの代物。混雑するとわかっている日には、客の回転が悪くなる面倒な品を最初から抜き取っておく……或いはもっと踏み込んで、“忙しい日”用のメニューファイルを予め拵えておく、ということなど、いとも簡単に出来るのではないだろうか?
 あれこれ考えていると、今度は、拙サイト御常連で「逃した魚は」でも話題にしたNさんことねこ田さん──余談ながら、あの時私が見たのがやはりねこ田さん御一行であったことは、翌日判明した──のサイトの掲示板に、ねこ田さんが私と同じ日に池田屋さんで御覧になったメニューには伊東甲子太郎丼が掲載されていた、という情報が書き込まれた。あの日はとにかく客が多かったのだが、ねこ田さん達はひとつ上の階の席に通され、分厚いメニューファイルを渡されたという。
 とすると、客が多過ぎるが為に配るメニューが足りず、ねこ田さん達には普段のメニューが出された……とは考えられないか?
 ……“普段のメニュー”ではなくて“廃止して間がないちょっと古いメニュー”だったのかもしれないけれど、普段のメニューだったという証拠がない以上に、古いメニューだったという証拠もないのだ。伊東甲子太郎丼が入っているメニューがあったそうだ、という点で、仮説はわずかながら強化されたと見て良いのではないか。
 
 伊東甲子太郎丼は、混雑が見込まれる日にはメニューから消滅する品である──。
 
 しかし、この仮説が正しいか否かを確かめるには、平日、それも昼前の早い時間帯に行ってみなければならない。平日の朝から夜中までを拘束される勤め人である私には、まず無理な相談である。
 という訳で暫くは、なかなか、検証する為の行動が起こせなかったのであった。
 
 だが──
 多摩市で開催される展示会を見に行くのなら、日野市の高幡不動駅は、多摩都市モノレールでの移動の際の通過地点である。
 此処はひとつ、寄り道にはなるが途中下車して池田屋さんへお昼御飯を食べに行き、その時にメニューを確認してはどうだろう。土曜日という点で不安はあるけれど、混雑が見込まれるイベントもないようだ。伊東甲子太郎丼があればそれで万歳だし、なければお店の人に訊いてハッキリさせる、というのも一策ではないか。
 そこまで考えたのには訳がある。
 私自身が伊東甲子太郎丼を是非一度食べたいというのも勿論だが、何より、もしも半年前の私の嘆きが早とちりの間違いであったなら、別の随想を書いて訂正しなければならない──と、常々思っていたからである。
 随想はあくまで読み物に過ぎず、情報提供物ではない。けれど、リファラを取ってみると、拙サイトの随想ページへ池田屋さんの情報を求めて検索結果から跳んでくる人が、少なからず存在するのである。伊東甲子太郎丼の消滅が一時的なものに過ぎないなら、早めに訂正の為の随想をアップしないと、池田屋さんに申し訳ない。
 すっかり前段が長くなったが、そんな気持ちで、私はひとり、池田屋さんのテーブルに着いたのであった。
 
 お店の外に掲げられているメニューには、伊東甲子太郎丼はあった。
 お店の壁に掲げられているメニューにも、伊東甲子太郎丼はあった。
 ……五月に来た時と、全く同じである。
 伊東甲子太郎丼が消滅などしていないことは、それらの掲示メニューを見るだけで明らかである。あの時にメニューからなくなったばかりだったとしても、半年もそのまま放置しておくわけがない。
 これは……今日こそ食べられるかもしれない。
 覚えず、胸が高鳴る。
 だが問題は、数量限定物であるらしい伊東甲子太郎丼が、お昼時などとっくに過ぎまくったこんな遅い時間に果たして残っているのか、ということだ。
 お店の混み具合はと言えば、案の定ピークをとうに過ぎているらしく、空席もある。……まあ、“人寄せ”の力を持っている(らしい)私が着席した以上、客は今後間違いなく複数組入ってくるだろうとは思うが(苦笑)。
 若い女店員さんがやってきて、冷たい麦茶とメニューとを置いていってくれる。……うう、冷房の風が直撃になる席で、寒い。外は十一月とは思えないほど暖かい日だが、だからって冷房まで入れなくても(涙)。Gジャン着てきて正解だったなーと襟を立てる……って、ふと気が付けば、確か五月にもこの恰好で来たんだっけ。
 何となく苦笑いしながら、置かれたメニューを手に取る。……どきっとした。黒いクリアファイルで、半年前に見たものと同じ感じだ。
 ……まさか、また載っていないのでは……。
 そんな予感がしたので、最初のページから慎重にめくって探してみる。
 ……ない。
 伊東さんの名前だけが、メニューに載っていない。
 半年前の私なら、此処で肩を落としていた。しかし、あれから色々と情報を貰い、仮説まで立てたのだ。食べられないのであれば、それは仕方ない。でも、せめて、仮説が正しいかどうかの検証だけはして帰ろう。
 やがて注文を取りに来てくれたのは、メニューを持ってきた人ではなく、偶然にも、半年前に「伊東丼はやめたんですよ」と申し訳なさそうに教えてくれた、やや年嵩の女店員さんであった。私はまず“歳三そば”を葱抜きでとお願いし、それだけでは余りに単価が安いのでデザートとして“歳三・おゆきセット”(抹茶プリンとアイスクリームのセット)を頼んだ後で、思い切って切り出した。
「──それから、あのー、済みません、ちょっとお尋ねしたいんですけれど」
「はい?」
「あちらの壁のメニューに書かれてる伊東甲子太郎丼、こちらのメニューには入ってないんですけど、なくなったんですか?」
 ……実は野間ねつね、幼少の砌から、いよいよ此処が先途だ勝負所だ、という局面に陥った途端、普段なら照れたり遠慮したりで口に出来ないことでもズバリとストレートに口に出せる性分なのである。
 それはさて置き。
 答は、至極あっさりと返ってきた。
「いえいえ、ありますよ、ただ作るのにちょっとお時間がかかるもので、お客さんの多い土日にはやってなくて、メニューから外してあるんですよ。近藤丼の方は土日でもやってるんですが、伊東丼は平日だけなんです」
 ……補足しておくと、近藤勇丼(=スタミナ丼)もまた、伊東甲子太郎丼(=豚肉生姜焼き丼)と同じ、調理に時間のかかる、数量限定メニューなのである。
「ああ……そうだったんですかぁ……」
 余りにも呆気なく己《おの》が仮説の正しさが立証されたもので気が緩み、思わず呟きが洩れる。
「食べたかったんですけど、それじゃあ仕方ないですねえ……」
「宜しかったら作れるかどうか奥で訊いてきますよ。ちょっと訊いてきましょうか?」
 
 ……へっ?
 
 我が耳を疑う。あの……今、何と?
「え……出来るんですか?」
「奥で訊いてみて出来るようでしたら、御注文出来ますよ」
 なな何と! 厨房の方でOKが出れば作ってくださるとのこと! もし食べられるのであれば是非、とお願いしたところ、一旦奥へ退いた店員さんが程なく戻ってこられた。
「大丈夫です、出来るそうです」
「あ、有難うございますっ、済みません、我儘申し上げてっ」
「いえいえ、空《す》いてる時でしたら、言ってくだされば、土日でも作れますから」
 感涙に咽びたい気分で、改めて伊東甲子太郎丼を注文。最初に頼んだ蕎麦は流石に取り消したものの、お礼の気持ち込みで、デザートまでは取り消さずにそのまま頼む。……寒かったけど(苦笑)。
 作るのに時間がかかるとの話だったので長々待たされるかと思ったが、この喜びを早速伝えようとパソコンを立ち上げて交換日記に書き込みを始めて半分ほど叩いたところで、もう到着。多分、ぼんやりと待っていれば長いのだろうが、何かしていればそれほど長くない程度の時間なのだ。ただ、私よりも後に来て相席になった兄妹らしきふたり連れが後から注文したお蕎麦と土方歳三丼(=鮭イクラ丼)の方が先に届いていたので、やはり時間のかかる料理ではあるのだろう。
 
 ……さて、やっとお目文字出来た、伊東甲子太郎丼。

伊東甲子太郎丼/全景(笑)

 蜆の味噌汁と、何故かコアラ親子の人形焼きとが付いている。裏に「動物公園」という文字の型が付けられていたので、恐らく、同じ日野市内にある多摩動物公園の土産物として売られている品。土産代わりに持ち帰ったので、お味の程はまだ見ていないが。
 
 では、丼そのものをもっと間近で拝見してみよう。

伊東甲子太郎丼/アップ(笑) 御覧の通り、下の御飯が殆ど見えないほどに、豚肉生姜焼き満載である。下に敷かれているのはキャベツの千切り。横に添えられているのは、胡瓜とプチトマトにマヨネーズ。私が嫌いな食材が何ひとつ使われていないばかりか、好きな食材ばかりの組み合わせ。これだけで、もう、葱や玉葱のような“まるで当たり前のように何にでも入ってくる”食材が大の苦手で外食時に苦労する私にとっては、食べる前から幸せ気分になれる一品である。
 ……それにしても、何故これだけ沢山外来の食材が使われていて、“伊東甲子太郎丼”なんだろうなあ(苦笑)。
 写真撮影後、両手を合わせ、箸を取り、まずは、山盛満載されている豚肉の生姜焼きをかじってみる。……ふむむ。かんだ時に口の中に広がる程良い肉汁が、なかなか美味だ。先程メニューを見た時に豚肉生姜焼きは単品掲載されていたので、他のメニューと一緒に頼んでみるのも一手か。しかし、御飯と一緒に咀嚼する方がより美味しい気がするなあ。
 ……あ、そうそう。御飯についてのサービスを書き忘れるところであった。
 後で改めて訊いたところでは最近始めたサービスだそうだが、丼物は全て、白御飯か麦混ぜ御飯かを選ぶことが出来る。お店の方く「やっぱり幕末ですから(笑)」という理由で、麦飯も選べるようにしたとのこと。私よりも後に来店して注文していたお客さん達──こんな時間でありながら、私が店を出るまでに五、六組も入ってきた(苦笑)──の声を聞いていた限りでは、およそ半数の人は麦飯を選んでいたようだ。私も勿論、そちらにしてみた。お味はと言えば、麦は“少し混ざっている”程度なので別段ぱさついてもいないし、結構宜しい。麦御飯に抵抗のない方は、話の種に選んでみては如何だろうか。
 
 何故か「はい、土方丼おひとつですね」「土方お願いしまーす」「土方のお客様は」「はい、土方お待たせしました」という言葉ばかりが飛び交う店内で、黙々と有難くカッシー先生丼を頂く。……いや、本当に、後から来たお客さん、みんな土方歳三丼ばかり頼むんだってば〜[#ひとつ汗たらりマーク] ううう、心臓に悪いな〜、少しは他の物を頼んでよ〜[#ふたつ汗たらりマーク]
 粗方食べ終えたところで、そろそろお持ちしましょうかと断わりがあって、デザートが運ばれてきた。半年前にも食した、歳三・おゆきセットである。
 ……今回は、若い女店員さんも「さいぞう」とは言わなかった。よしよーし(笑)。
 甘い物も辛い物も薄味の物も好きだけれど一番最後に口にする物は辛い物か渋いお茶でないと嫌だ、という嗜好を持つ私、豚肉生姜焼きが残り一枚になった時点で、デザートを頂こうとした。
 が……

歳三・おゆきセット/……よく見てね(汗)

 ……はて。
 食べたいけれども……匙がないぞよ(爆)。
 うーむ、このままでは、抹茶プリンはともかく、アイスクリーム(とあるけど実態は今回もフローズンヨーグルトだった)が冷房の風で融けてしまう。……が、こういう時に限って、店内を動き回るお店の人の姿がない。私が座っていたのは、厨房からは一番遠いテーブル。背中合わせにもお客さんが座っていて椅子同士の背凭れが接しているので、席を立って頼みに行くのもなかなかつらい。最悪、箸で食べようかなあ……と思いながら暫く店の奥の方を振り返って見ていたら、先程の親切なやや年嵩の女店員さんが気付いて来てくれたので、アイスが融けてしまう前に何とか匙を入手することが出来たのであった。ほっ。
 
 最後に、豚肉生姜焼きのラスト一枚を平らげ、半年前の無念を晴らしたぞという記念写真を。

伊東甲子太郎丼/完食後(笑)

 ……勿論、飯粒ひとつ残しとりまへん。白く見える粒は、器に貼り付いて取れなかったキャベツの切れ端(爆)。
 御馳走様でした(合掌)。
 
 斯くして、伊東参謀殿にお逢い出来るのは、通常、平日の早めの時間帯のみであることが判明した。
 しかし、もしもあなたが土日祝日にしか池田屋さんを訪れることが出来ないけれど伊東甲子太郎丼を食べてみたいと望むのであれば、お昼時を避け、客の少ない時間帯を狙って訪ねてみてほしい。渡されたメニューにその名がなくとも、厨房にゆとりがある時なら、頼めば拵えてもらえるだろうから。……いや、本当に。帰り際に、お店の人ともう一度話をして、確かめたんだからー(笑)。



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