一九九五年五月二十三日、日曜日、お仕事の打ち合わせの為に上京していらした星村朱美てんてーと、土方さんの故郷である日野へ出掛けた。本当は『まなざし』を書き終えるまではけじめ[#「けじめ」に傍点]が……などと思っていたのだが、他ならぬてんてーのお誘いであったこと、また『まなざし』第四部分が終了したばかりであったこと、更には『月石《げっせき》の民』シリーズの第一作(になるだろう話)で土方さんの戦死場面を書き終えていたこと、等、心理的にも多少行き易い条件が揃っていたので、思い切って訪ねてみることにしたのである。
 
 訪問前一週間、何が気になったって、そりゃあもう、毎日の週間天気予報。晴れマークが入っていると言っては喜び、曇りマークが強くなったと言っては「お願い、嫌わないでね[#ひとつ汗たらりマーク]」と呟く。だって、やっぱり、初めての御挨拶(当然、野外)に伺う日に雨に降られたりなんぞしたら、嫌われてんのかなって思っちゃわない? だから、前々日に到って遂にその日が曇りマークのかけらもないピーカンの晴れ予報に変わった時には、思わず「良かったー[#ひとつ汗たらりマーク] 有難う、嫌わないでくれて[#ふたつ汗たらりマーク]」とテレビの前で両手を合わせてしまったのだった。
 
 さて、当日。
 黒のタンクトップに白の薄いカーディガン、すっきりしたパンツスタイルの朱美てんてーと、朝十時半に、渋谷駅某所で待ち合わせ。井の頭線から京王線へと乗り継いで、まずは高幡不動前で下車した。三一〇円。安い。勿論、私にとっては初めての“日野参り”である。改札を抜けてその場に立った時は、今でも好きな中学時代からの片想いの君《きみ》と不意に町ですれ違った時のような心持ちに陥った。心拍数が一気に上昇したのが、自分でわかった。もしかしたら、ちょっと足許がふらついていたかもしれない。
 ともあれ、最初は取り敢えず、高幡不動さんへ。改札抜けて右手へ向かうと、すぐに参道である。ある程度予想していたこととはいえ、現実に、あちこちの店先に歳三さん(以後、この文章ではこう呼ぶ。だって、この土地ってば“土方さんだらけ”なんだもーん[#ふたつ汗たらりマーク])のお名前を冠した品や御尊顔のお写真が出ているのを見ると、心臓ばくばく。
 三、四分程度でお不動さんに辿り着く。向かって左側に、歳三さんの立像と、殉節両雄之碑(近藤勇さんと歳三さんの顕彰碑)。八年振りだとおっしゃる朱美てんてーとふたりで、「……目、合わせらんないよねー[#ふたつ汗たらりマーク]」と言いながら、歳三さんの立像にぺこり御挨拶。たとえ“御本人”ではなくとも、頭真っ白、体カチカチ。正面から見上げて写真を撮っている男性がいらしたが、いやー、とてもあんな大胆なことは我々には……
 ちなみに、この立像は近年建てられたもので、当然、てんてーの八年前の御訪問時にはなかったものである。殉節両雄之碑は昔は別の場所にあったと思う──とてんてーはおっしゃるので、そうだとすると恐らく、立像建立の折に隣に移設されたのだろう。……でも、その碑の真ん前でタコ焼きの屋台を開くのは勘弁してほしいんだけどな、おじさんっ[#ふたつ汗たらりマーク]
 去る前に、入ってきた時から気になっていた“とうふアイス”を買いに土産物屋(境内にあるんだ[#ひとつ汗たらりマーク])へ寄ると、試飲の昆布茶をくれた店のおじさんに「何処から来たの?」等々色々訊かれ(いや、それはいーんだけどね)、最後の止《とど》めに「で、お姉さん達も[#「も」に傍点]新選組好きで? こっちにお土産物あるよー?」 ……うひー[#ひとつ汗たらりマーク] 頼むからそっとしといてー[#三つ汗飛散マーク] 複雑な乙女心である。“あじさいアイス”を買って、半ば逃げるようにそこを後にしたふたりであった。
 
 再び高幡不動駅前へ戻り、今度は左手側へ。ガード下をくぐり、暫く行くと、工事中の多摩モノレールの高架が見えてきた。これには、朱美てんてーがびっくり。「変わったー[#ひとつ汗たらりマーク] 変わったわー[#ふたつ汗たらりマーク]」と頻りにおっしゃりながら歩く。
 途中の木陰で“あじさいアイス”を食べた後(美味だった)、高架下の道路を横断し、やがて、浅川の上に架かる橋まで来た。
 広島県呉市育ちの私は、広い緑の河川敷を持つ大きな川を間近に見るのは初めて。私の知っている“川”は、峡谷の間を流れ下る川か、両岸を固められた町中の小さな川、もしくは広島市内の、水を満々と湛えた大きな、しかしやはり両岸を固められた川。緑の河川敷がある川も知らないではないが、小さい川。広い河川敷を持つ大きな川など、列車の窓から鉄橋通過時に眺める程度だった。
 それを、足を止めて見渡す。
 ──素晴らしい眺望。
 成程、関東平野は広い。
 視界を“遮る”ものは何もない。
 歳三さんは“遮るもののない”所で育った人なんだなァ、ということを感じる。そういう人間が、目の前を塞がれるような狭い場所で暮らすとなれば、そのストレスたるや……察するに余りある。奉公(=何年間も家に戻れない)が続かなかったのも、宜なる哉。私もずっと“目の前を遮るものが何もない、市中を一望出来る高台の家”で育ったものだから、四方が塞がれていると気が滅入る。今暮らしている寮室のように、狭くても見通しが良ければ大丈夫なんだが……
 とと、話がそれた。日野参りの記載に戻ろう。
 
 浅川を越えて、川沿いに道を下ると、学校(確か高校だったか)に行き当たる。その学校沿い、テニスコート外をぐるっと迂回するように歩いてゆけば、程なく石田寺が見えてくる。歳三さんのお墓(空墓だが)があるお寺だ。
 あらかじめ知ってはいたけれど、とにかく“土方家之墓”だらけである。案内札と墓前ノートの詰まった透明ケースとお写真がなかったら、結構探すのは大変……でもないかな。割合入ってすぐの辺りだし。
 取り敢えず墓前に跪き、何もありませんがと両手を合わせて瞑目。妙な話ばかり書かせていただいてます、というお礼とお詫びをし、きちんと最後まで書きます、書き上げたらまた改めて参ります、と伝えて腰を上げ、てんてーと替わる。前日の強風の為か墓前の供花が倒れていたので、せっせと直し、それからその場を去る(……え? 墓前ノートの読み書き? こ、心の準備がそこまでは……)。親戚の墓参りすらしたことがない私の生まれて初めての墓参(!!)は、特に怖い話もなく終わった。近くの土方さん(笑)宅の雄鳥達の時のつくり合いと、境内にあった樹齢四〇〇年らしいカヤの大木(雌株)とが、とても印象に残っている。
 ……ところで……
 今の今になって気が付いたんだけど……
 よりによって真っ赤なシャツ姿で墓参りした馬鹿者って、やっぱ、私だけ!?
 
 墓参を終えた私達は、次に、歳三さんの生家(正確には六歳からだし、当時の建物のままでもないが)を目指した。
 ところが、周囲の建物が八年前と随分違っているとのことで、てんてーは自信なげ。うろうろと歩く内に、一画だけこんもりと何本かの大木が茂っている区画を発見。うわー、凄い木だなー、と何の気なしに覗きに行ったら、そこは何と“とうかん森”であった。土方一族の氏神であるお稲荷様を祀ってある場所だ。全くの偶然で、訪問予定地以外の史跡に出会ったわけである。「きっと土方さんが教えてくれたのね」などとたわけたことを(笑)ふたりして言いながら、折角だから、と祠に手を合わせる。本当は拍手《かしわで》は大きな音を立てて打つべきなのだが、人声のする隣家が気になって、小さな拍手《かしわで》。ついでに辺りのゴミ(捨てるんじゃねえッ[#青筋マーク])を拾って回ってから、場を後にした。
 それにしても、よく、あれだけの狭い区画に、数本の大木がお互いを枯らすことなく元気でいられるものだ。不思議な気がする。
 
 さて、嬉しい寄り道もあって、いよいよ目的地近し。
 私は少しも心配していなかったのだが──今迄の経緯からして、嫌われてはいないと信じていたので(笑)──しかしやはり、辺りの風景が八年前と違うというので、てんてーはいよいよ自信なげ。迷ったらごめん、とおっしゃりながら、バス停近くの道に入る。空き地のミニショベルカーや各戸の表札に書かれている“土方”の二文字に心臓ばくばくしつつ歩き回るも、辿り着けない。私は呑気に「大丈夫ですよ、きっと、ちょっとその辺歩いてこいって言われてんですよ(笑)」などと吐かしていたのだが、てんてーは結構どうしようと心配されていたようである。
 小一時間もうろうろと歩き回った後で、ともあれ最初の場所に戻ろう(道に迷った時は、わかる場所まで戻るのが鉄則だ)と、初めの頃に目にした丸ポスト(おお!)の所まで戻る。
「さっきはこっちに行ったんですよ、あっちから来て」
 こっち、とは進行方向右手の道。あっち、は正面の道。それじゃあ、あと通《とお》っていないのは左手の道だけ……
 ……って、あるじゃん、そこにー(笑)。
 何と私達は、一番最初に、御丁寧にも歳三さんの生家前だけを[#「だけを」に傍点]迂回してしまい、そんでもって延々うろうろしてしまったのであった(図を参照)。遊ばれたー[#ふたつ汗たらりマーク] でも、とても素敵な土地だなー、いーなー、遠距離通勤になってもいいから此処に住みたいなー、と思ってしまうほど歩いたので、結果オーライである。ふたりしてクスクス笑いながら、「どうもー」と頭下げて、“警察官立寄所”の垂れ幕下がる門扉の前を通り過ぎたのであった。

図「大散策への道」/『双子座の歳さん』20ページの図を撮影加工

 これが一週間前(第三日曜日)なら、敷地内にある土方歳三資料館に入れたのだが……まあ、こちらはまたの機会を待つことにしよう。
 
 三たび高幡不動駅へと向かう。
 道々、時折後ろからやってくる自転車のおじさん達は、皆、大変礼儀正しい。狭い道なのでどうしても歩行者が脇に寄らねばならないのだが、おじさん達は押し並《な》べて「済みません」「有難う」と言って追い抜いてゆく。おかげでこちらも気持ち良く「いーえー」と返せる。
 いい土地だ。
 道沿いの小川で、水草の間を泳ぐカルガモに遭遇。うーん、可愛い。先へ行くと、今度は別のカルガモが飛んでゆくのを目撃。きっと沢山いるのだろうな。
 いい土地だ。
 何か、本当に住みたくなったぞ。
 
 駅前に戻り、そこから、JR日野駅行きのバスに乗る。高幡不動や日野郵便局の前を通りながら走るバスの中で、朱美てんてーと、歳三さんについて話す。
 「こんなに地元に貢献するとは思ってなかったろうねー」とは、てんてーのお言葉。しかしそれも元を辿れば故・司馬遼太郎先生が『燃えよ剣』で、それまで冷酷非情の策士としてのみ扱われがちだった脇役土方歳三を、主役として世に示したからこそ。“司馬土方”にはどーしても馴染めない私だが(苦笑)、その事績は認めるに吝かではない。
 やがて終点。一九〇円払って、バスを降りた。此処から日野駅前を通り、旧佐藤家(歳三さんのお姉さんが嫁いだ先)である“日の館”へお蕎麦を頂きに行こうというのが、当初の予定。
 ……お?
 此処で「あらら?」と思ったあなたは、相当の通か、さもなければ、同じ目にあったクチだね。
 ……ま、とにかく、先へ進もう。
 JR中央線の日野駅は、私の目から見て、小さな駅である。でも、駅前ではしっかり(笑)ポスターやブロマイドなどの歳三さんグッズを売っている! うおー、心臓に悪いー[#三つ汗飛散マーク] ポスターなんて部屋に貼ったら、きっと寿命が縮むだろうなァ[#ふたつ汗たらりマーク]
 などと思いつつ、駅前を通過。こっちは十年ぐらい前に一回しか来たことないから……とやはり少し自信なげな朱美てんてーと、そのまま甲州街道沿いに歩く。道中道端の地図(出資した人の店の名前だけが記入されている案内板)を見付けたはいいが、現在地が何処だかの記述が全くなしで、見てもすぐにはわからない。暫く周りと見比べてみて、ようやく、もう少し先へ歩いた場所から向こうの案内だと判明。……おいおい、置く場所を考えてくれ〜[#青筋マーク] 文句を言いながら、ともあれ、道に誤りがないことを確認して、再び歩き出す。
 ところが。
 辿り着いた“日の館”の門が閉まっているではないか。
 ……何と、日曜定休だったのであった。
 ちゃんと調べてこなかった私達が悪いのだが、まさか飲食店が日曜に休むとは思わなかったのが敗因。きっと、私達だけじゃないと思うなー、同じよーにあそこまで行ってボーゼンとし、すごすご(?)引き返した人。特に、毎月の第三日曜なんか、確率高いと思うぞー(笑)。
 
 日野駅近くまで戻り、広島風お好み焼きの“あいうえお”という店に入って遅過ぎる昼食(もう十五時が近かった)を摂った私達は、帰る前に、駅から程近い宝泉寺へ立ち寄った。
 此処には、源さんこと井上源三郎さんのお墓(やはり空墓だが)がある。境内に入って暫く行くと、右手に顕彰碑がひっそりと(?)佇んでいる。そこから更に先へ進むと、ちゃんと案内札があって、墓前ノートの詰まった透明ケースが置かれていて、在所はわかり易くなっている。ファンの方々のおかげで、後から来る人は迷わずに済むということだな──と感じる。源さんのお墓のように些か奥まったところにある場合は、尚更である。有難いことだ。将来、京都の某先生のお墓にも謝りに行くつもりだが、もしかして、そこにもノートがあるのだろうか? ううう、あっても絶対何も書けないけど(涙)。
 ところで、源さんの墓誌に“明元・一・四”とあるのが、ちょーっと気になった私。
 あのー……“慶四・一・五”では……?
 
 お墓参りを済ませて宝泉寺を去った私達、次の(別の)約束の場所へ向かうべく、取り敢えず池袋まで出る切符を買う。
 ……六二〇円!?
 倍じゃねーか、JR!!
 もし住むとしたら絶対京王線沿線近くにしようと思いつつ、オレンジ色の列車に乗り込む。
 走り出した列車の座席に腰を下ろして暫時、ふと前を見ると、あの浅川の風景が、窓の外から私達を静かに見送ってくれていた。
 
 こうして、私の初めての“日野参り”は終わった。
 引っ張り出してくださった朱美てんてーに、改めて多謝である。
 でも、頻りにいーよいーよ〜と住むことを勧めるのは……あうう、誘惑しないで〜[#三つ汗飛散マーク]
 
 最後に、歳三さんへ。
 素晴らしい上天気──風が爽やかで、暑いと感じなかった。三〇度近く行ってた筈なんだけどな──と、楽しい大散策(笑)を、どうも有難う。絶対きちんと、最後まで書いて出すからねっ。
 
 
※私がこの雑文の中で回っている辺りのことをよく御存じの方にはおわかりだろうが、おーきな勘違いや、無知ゆえの記載、また発表当時とは変わってしまっている事柄などが、この雑文には潜んでいる(汗)。
 なので、頭から順に挙げておく。

・向かって左側に、歳三さんの立像と、殉節両雄之碑:殉節両雄之碑は、当時、歳三さんの立像の隣にはなかった(爆)。「昔は別の場所に……」という朱美てんてーの疑念は正しかったわけだ。うーん、タコ焼き屋のおかげで近付いて確認出来なかったのが敗因だったかな(苦笑)。なお、現在この碑は、本当に立像の傍らへ移設されている。

・工事中の多摩モノレールの高架:勿論、現在は既に開通している。

・案内札と墓前ノートの詰まった透明ケースとお写真:現在では、墓前ノートのケースは墓前にはない。余談ながら、お墓自体も、私達がお参りした後で建て替えられている。

・これが一週間前(第三日曜日)なら敷地内にある土方歳三資料館に入れたのだが:ごく最近開館日が増え、第一日曜日にも開館されるようになった。

・日の館:何か資料を見て、わざわざこう書いた筈なんだが……“日野館”と書くのが正しい。近々、旧佐藤家から移転するとのことである。蕎麦好きでもある私としては、個人的には、あの空間で美味な蕎麦を食する贅沢が味わえなくなるのは残念。

・駅前ではしっかり(笑)ポスターやブロマイドなどの歳三さんグッズを売っている:二年後に再訪した時には、売店自体が閉鎖されていたような……

・広島風お好み焼きの“あいうえお”という店:二〇〇一年七月二十日、同じ場所へ行ってみると、既に廃業していた……

・源さんの墓誌:その後、特に源さんのお墓についての記載ではないが、「幕軍側に味方して戦死した人間の墓では、明治政府を憚って没年月日をわざと変えて記し、別人の墓であるように見せかけていた」という話を何かで読み、ハッと膝を叩くことになる。その辺りの事情に思い至れなかった我が身の浅はかさに恥じ入るばかり。……ただ、後年再度お参りした時に墓誌が新しくなっており、この「日野参り」の時に見たものとも没年月日が違っていたので、かなり面食らったが(苦笑)。

・あの浅川の風景が:……既に『いとしのとっしー』「リターンマッチ」で懺悔済みだが、これは多摩川である(爆)。

── この「※」部分のみ、二〇〇三年九月七日記す ──



Copyright (c) 1999, 2003 Mika Sadayuki
背景素材:「Kigen」さま(加工品につき当ページからの持出厳禁)