慶応四年、正月三日。
 遂に、伏見で戦が始まった。
 多くの新選組隊士達が命を落とすことになる、大戦《おおいくさ》である。
 初日、二日目と、私は、重傷の為に大坂《おおざか》へ退いた近藤に代わって新選組の指揮を執る土方の傍らで、じっと身を潜めていた。
 この身を此岸に繋ぎ留《と》める為に必要な“力”は、まだ、充分には戻っていない。いや……明らかに不足していると言ってもいい。
 だが、うっかり“うたた寝”するわけにも行かなかった。
 そんな呑気なことをしていては、あっと言う間に、真っ当に川を渡ろうとする死者達に捕われてしまう。
 そもそも、亡者である私は、圧倒的に、真っ当な死者に対しては弱い立場にある。それなのに、私は今、この世に留まる為の“力”を磨り減らし、弱り切っているのだ。
 あの時に土方から貰った“力”を無駄に使わず残しておけば良かったのだと気付いたのは、愚かにも、この戦が始まってしまってからであった。
 何しろ戦である。当然、初日から、多くの死者が出ている。そして、大抵の死者の魂は、ひとりで川を渡るのが心細く思われるのか、連れを探して共に行こうとするかのように、暫くの間うろうろしていた。そして、同じように彷徨《さまよ》っている者を見付けると、近付き、一緒に行こうとでも言うかのように、腕に、肩に、体に手を掛け、そうしながらどんどんと道連れを増やしていた。
 もしもそんな彼らが私を見付けたら、御親切にも一緒に連れてゆこうと寄ってくるのは間違いない。
 奮戦空しく退却せざるを得ない状況に追い込まれてゆく土方に言葉をかけることも出来ず、ただ見ていることしか出来ないという状態は正直つらかったが、今その側《そば》を離れるわけにはいかなかった。今のところ、彼の近くでは死者は出ていない。指揮を執らねばという自覚があるのか、彼はまだ、直接に血刀振るって敵中に斬り込むという真似まではしていない。だから、彼の傍らは現在、比較的“安全”な場所なのである。
 もし今彼の側《そば》を離れて市中を彷徨うようなことをすれば、死者達は容易《たやす》く私を見付けてしまうだろう。そうなったら、彼らから逃れる為に大変な苦労を強いられることになる。
 土方の行く末に気を揉みながらも、私は、時折彼方を通り過ぎてゆく死者達に見付からぬよう、ひたすら“息を殺し”続けていた。

「上の奴らは、一体、何を考えてやがる!」
 土方は、この二日間、頻りに苛立っていた。無理もない。どんなに彼らが奮戦しても、肝心の幕府軍が有効に動いてくれないどころか、押し気味に進めている戦場から退却しろとまで言ってくるのである。敵と戦っている後ろから味方に足を引っ張られる、とは、このことであった。
 周囲にこそこぼさぬが、ひとりになった時に激しく罵り吐き捨てる姿を、私は、幾たびも目にすることになった。
「この期に及んでも動かねえのはまだしも邪魔にだけはならねえ、だが、勝ってるのに、援軍に来るどころか退却しろだと!?」
 撤退命令が来た時など、周囲の耳目がなくなると、大荒れであった。
「戦場に在りては君命もこれを受けずと言うじゃねえか──それくらい、戦となりゃ機を見て動かにゃならねえのに、肝心な時には上の命令がねえからと動きゃしねえ──何もしねえで手を拱いていながら、こっちが明らかに押してる時に、戦況も弁えずによこしてきやがったこんな間の抜けた命令に従えと言う! 上に立つ奴らの目は何処に付いてやがるっ!!」
 どんなに悔しくても、新選組一隊だけでは戦は出来ない。後ろからの命令に逆らって戦場に留まったところで、他の隊が撤退して一隊だけ取り残されては、敵の恰好の餌食でしかない。それが冷静に判断出来ているからこそ、苛立ちを自分ひとりの胸に押し込めて、「間の抜けた」命令にも従っているのだろうが……。
 だが、土方の苛立ちの原因は、幕府上層部の腰が定まらないこと以外にもあるようだった。時折もたらされる戦況報告によると、敵との交戦に於いて、押し気味に進める局面もあるとはいえ、銃器中心の敵に刀槍中心の自分達が打撃を与え切れずに退かざるを得なくなる、という傾向がしばしば見受けられるらしい。数で圧倒的に勝《まさ》っている筈の自軍が何故押されなければならないのか──周囲の耳目がある場では表情にも出そうとしないが、それがなくなると、彼の口からは「旗本御家人は役に立たねェてのは本当だったな」とか「武士は新選組にしかいねえのか」とか、彼に似合わぬ愚痴めいた独白までこぼれていた。
「あんなもん、何の根拠があって、出てきやがるんだ。薩長の連中の騙りに決まってるだろうが」
 ……「あんなもん」とは、敵が押し立てたという“錦旗”のことである。国学・史学を修めたこの私でさえ、寡聞にしてそのようなものが我が国の歴史上に登場したことがあるかどうかは知らない……と言うか俄には思い起こせないのだが、やってくる報告から推察するに、錦の布《きれ》に皇室の紋章である菊の御紋を縫い付けるか何かした幟らしい。これが敵軍に揚がった、というので、幕府軍は「我らは賊軍になったのか」と浮き足立っていたのだ。
「布切れ一枚で、おたおたしやがって──言った者《もん》勝ち、やった者《もん》勝ち、ってだけだ。こっちが勝ちャア、何てこたァねえんだ」
 だが、そう吐き捨てた後で、そう考えてるのは俺だけかもな、と呟いて、土方は苦笑いを浮かべる。文句を言いながらも、味方の心理を見据え推し量る冷静さと怜悧さは失わない。近藤の受禍に動転していた時に比べれば、まだまだ、精神的にゆとりがあると見て良かった。

 三日目──
 伏見、鳥羽口と戦ってきた新選組は、淀まで退却していた。
 私は、土方の側《そば》を一時《いっとき》離れるべきか否か、迷っていた。私の知る限り、今日は、新選組に多くの犠牲者が出る日だ。今迄は土方の近くにいるのが安全だったが、今日は、そうとは言えないのではないか……しかし、土方の側《そば》を離れる方が安全だという確証もない……出来ることなら、土方の傍らに居続けたいのだが……
 決断出来ぬままに、戦は始まり、時が過ぎた。
 戦況は、幕府軍側に不利であった。新選組も、千両松の堤に布陣し、最初こそ互角に戦っていたものの、薩摩藩兵が竹薮に潜んで銃を撃ち掛けてくるに至って、戦列を大きく乱した。
 味方不利の報が次々と、後方、愛馬射干玉《ぬばたま》の鞍上で具足に身を包んでいる土方の許へと入ってくる。
 その度に土方は、ぎゅっと口を真一文字に引き結んで、戦場を睨み据える。
 今日の彼は、苛立ちよりも無力感と戦っているように見えた。
 周囲が殺気立ってくる。荒れる前線が段々に近付きつつあるのを、皆、肌で感じているのだ。
 土方の愛馬の足許で蹲る私もまた、迫りくる危機を感じ取っていた。彼岸からの風が辺りに吹き始めているのが、ひしひしと感じられる。
 もう間もなく、此処でも、誰かが命を落とすだろう。
 私は、我と我が身を抱き締めて震えた。
 人の死を見るのが怖いわけではない。
 己もまた何度か人を斬り殺したことのある身、そして己の遺骸も目の当たりにしたことのある身、血を流し斃れゆく者達の姿を見て“青ざめる”ような胆は持ちたくても持ち合わせぬ。けれども、疲労から立ち直れていないこの身には、そこから彷徨い出る魂達が恐ろしいのだ。
 朝の内なら何処か戦場を離れた場所へ逃げ出すことも出来ただろうと、今更ながらに悔やまれる。だが、そちこちで死人が大量に出ているであろう今となっては、この場を離れるのも危険であった。
「土方さんッ、このままじゃ埒があかねえ──」
 具足を脱ぎ捨てて身軽な恰好となった永倉新八が、駆け寄ってきて叫ぶ。──この男には、死の影はない。いずれ遠くない将来に土方とは袂を分かつことになるからその先は知れないが、少なくとも、この戦では命を落とすことはない。
「とにかく、近付いて、突っ込んで、斬り伏せてくからッ!」
「馬鹿!」
 永倉の鉢金草鞋掛けという余りの軽装を見た馬上の土方は、こわばった顔で怒鳴った。
「そんならせめて胴丸だけでも着ていけッ! 突っ込む前に撃ち倒されたら何にもならんッ!」
「なァに、具足なんざ着けてても、鉄砲玉は通るみてえだから。あってもなくても同じなら、少しでも軽い方がいいじゃねえか……」
 笑い飛ばした永倉は、ふと、何かに戸惑ったように土方の顔を見直し、そしてまた笑った。
「こんな時に何だけど──俺ァ、今の、情けねえ面してる土方さんの方がずっと好きだね」
 いきなりと言えばいきなりの場違いな発言に、土方は、咄嗟には物が言えないといった顔で喉を詰まらせた。
「いや、元々あんたはそういう人だったんだ」
 屈託なく、永倉は続ける。
「それが、上洛してから段々におかしくなってただけさ。だけど、今そうやって俺のことを心配してくれたその顔は、昔のまんまの土方さんだ」
 私は、改めて永倉の顔を見つめた。
 注目はしていた。何と言っても、局中一、二を争う剣客であった。味方に引き入れることが出来ないかと考えたこともある。何処か近藤・土方の路線とは距離を置いているような印象があったし、近藤や土方にも臆せず物言うところがあったからだ。けれども、それは私に対してもまた同様であった。突っ張ったり尖ったりしているわけでは決してないのだが、誰に対しても批判の目を忘れない、と言おうか。
 新選組からの分離が決まった時、実は私は、永倉にも声をかけた。土方は、永倉を連れてゆきたいという私の申し出に対して、当人の意思に任せると明言していた。だから、永倉が新選組を離れることに、何ら制約はなかった。
 だが、永倉は首を横に振った。
『俺には、御陵衛士なんて立派な肩書は重過ぎる。新選組の二番組長って肩書の方が、まだ分相応な気がするんですよ』
 さらりとした笑顔での、それが、拒絶の言葉であった。
 そして私は今、何故彼を味方に出来なかったのか、わかった気がしていた。
 甲乙双方の理を自身の裡で秤にかけて釣り合った時、それでもどちらかを選ばねばならぬとなれば、決め手になるのは、甲乙との情誼のみである。
 永倉は多分、どんなに批判的な目を向けても、江戸で近藤達と共に過ごした頃の絆を忘れることまでは出来なかったのだ。私的な絆の有無……それが、私ではなく近藤を選んだ理由だったのだ。
 そうやって近藤達試衛館の同志と共に在ることを選んだ永倉だからこそ、今の「昔のまんまの」土方を、躊躇《ためら》いもなく「好きだね」と言ってのけるのだ。
(土方は元来、鬼でも修羅でもない)
 それは、私にもわかっていた。
 けれども、私と違って「昔の」土方を実見してきている永倉の言葉は、何ものにも換え難く、重く思われた。
(──迷うことなど、なかった)
 私がこの世に留まったのは、土方の本当の姿を、もっと沢山見たかったからではないか。
 戦という極限状態の下《もと》では、えてして、生身の部分が剥き出しになるもの。それを見ずして、何のこの世にしがみつく意味があろう。
(残るも去るも地獄なら、同じ地獄であるなら、このまま土方の側《そば》にいよう)
 永倉から話を振られた今井祐次郎が元気よく返事をしているのを見ながら、私がようやく決心した時──
 至近距離で、銃声が響いた。
 悲痛な嘶きが、辺りを引き裂いた。
 差し迫った何か[#「何か」に傍点]の気配に反応して咄嗟に場から跳び退《の》いた私は、竿立ちになる土方の愛馬に目を奪われた。
 一体何が起こったのだ。
 理解する間もなく、土方がその背中から放り出される。彼がかろうじて受身を取って地に転がり、半ば身を起こしかけたところへ、漆黒の塊がどさりと降ってきた。──彼の愛馬だった。
 腹を、撃ち抜かれていた。
 さっきの銃声は、これだったのか。
 副長の突然の落馬に驚き騒ぐ周囲の声も耳に入らぬげに、土方は、虚しくもがく愛馬を茫然と見つめる。
「射干玉……」
 ぼんやりとした呼びかけに、青毛の牝馬はかすかに啼き、まるで土方の方を見ようとするかのように大きくもがいた。
 そして、不意に糸が切れたように、力尽きた。
 私は、瞑目した。
 馬の死までは、私にもわからなかった。土方と関わりのある者の将来《さき》がわかってしまうという私の“力”は、どうやら、人にしか及ばぬものらしい……
〈こいつ、死んでんのか〉
 不意に身の裡に響いた他人の“声”にギョッとなって“目”を開けたと同時、背後からいきなり伸びてきた手がぐいと、私の口と肩を押さえた。
〈──何だ、簡単に捕まえられるじゃねえか〉
 しまった、と思ったのは一瞬、考えるより早く“体”が動いた。生身を持っていた頃の感覚での、咄嗟の護身だった。背後に叩き込んだ肘は、確かな手応えと共に、まともに相手の鳩尾に入った。
 ぐうっ、と呻いた相手の手が離れる。
 私はすかさず横っ跳び、目に付いた路地へ飛び込んだ。生きている人間が潜んでいる姿もちらと見えたが、構わなかった。強いて触ろうとしさえしていなければ、ぶつかってしまうことはない。そのまま、駆け抜けた。
 さっきの死者は、追ってまではこなかった。
(危なかった……)
 ひとつ“息をついて”、私は物陰に蹲り直した。もっともっと周囲に気を配っていなければ、またさっきのようなことになる。だが、今の出来事は無駄ではなかった。わかったことが、ふたつあるからだ。ひとつは、真っ当な死者に捕まってしまったら、とにかく相手が自ら手を離すように仕向ければ、逃れることも出来るということ。そしてもうひとつは、死にたての死者の魂は、自分が痛みを感じることもなくなった身であることに気付いていないらしいこと。
(殴られれば痛い、という感覚から、恐らく、抜け切れていないのだな)
 などと考えた時、誰かが目の前を走り抜けた。えっ、と思った時にはもう相手は通り過ぎていたが、少し置いて今度は「待て曲者!」とか「逃がすな!」とかいう怒号と共に、原田左之助を先頭にした新選組隊士達が殺到し抜けていったので、それが何かしらの狼藉を隊士に働いた者であろうことは見当が付いた。
(……隊士に?)
 ふっと──
 私は、自分で自分の見当に疑問を持った。隊士に狼藉を働かれたぐらいで、原田や山崎烝といった組長級の人間が隊士を引き連れ血相変えて追うものか?
(──まさか、土方!?)
 恐ろしい直感に貫かれ、私は、“血の気の引く”ような感覚に襲われた。少なくとも幹部隊士に危害が加えられたのでなければ、組長級の人間がふたりも、ああまで血相変えて駆け込んではこないだろう。
 私は路地から飛び出した。あの、土方の馬を倒した銃弾。あれが単なる流れ弾ではなく、土方を狙ったものだったとしたら。
 だが、私が見たのは、愛馬の亡骸の向こうで慌ただしく他の者の身を抱き起こす土方の姿であった。
「今井! しっかりしろ! 大した傷じゃねえぞ!!」
 ……今井……あの今井祐次郎か?
 歩み寄ると、確かにそれは今井青年であった。呼びかけに応じてか、閉ざされていた目が開く。土方の姿を認めたその目が、心底嬉しそうな光を帯びた。
「……土方先生……御無事で……」
「ぴんぴんしてらァ──他人《ひと》の命よか手前《てめえ》の命を心配《しんぺえ》しろッ!」
 今にも息絶えそうなほど弱々しい声に、土方はかみ付くような怒声を浴びせる。
「命を無駄にすんなって言ったろうがッ──おめェの命は──」
「土方先生に……頂いた命ですから……先生の為に……使います……」
「馬鹿! 誰がそんな使い方してくれって頼んだよッ──勝手に、俺の許しもなしに、死ぬんじゃねえッ!!」
 私は、今井の姿を見直した。
 脾腹に傷を受けたらしい。……流れ出す血の勢いからすると、そう長くはあるまい。
 ようやく私は、彼の将来について落ちてきた言葉の意味を悟った。
 篠原泰之進に狙撃され、淀にて戦死……
 篠原さん──多分、最初に私の前を抜けて走り去ったのが、篠原さんだったのだ──が狙ったのは、十中八九、土方であったに違いない。土方の命であれば、篠原さんには十二分に狙う理由がある。私の土方への恋着を知っていた篠原さんなら、私の死を知った時、近藤よりもむしろ土方を憎んだかもしれない。隙あらば──と狙ったとて、何の不思議もない。
 だが、狙撃した弾がそれるか何かで、土方の間近にいた今井が、その弾を受けることになったのだろう……。
 ……にしては、土方の反応が訝しい。
「許さねえぞ──絶対許さねえからなッ! こんなつまらねえ鉄砲傷、すぐに治せ!!」
 ちょっと目を掛けていた隊士が撃たれて死にそうになっているくらいで、これほど言葉遣いも乱してしまう男だったか……?
 ……まさか……“ちょっと目を掛けていた”どころではなく……
 首をもたげかけた愚かしい勘繰りは、だが、すぐに消えた。
「俺なんかの──俺なんかの身代わりになるなんて、百年早過ぎるんだぞッ!!」
 ……ああ。
 そうか。土方がよけられなかった弾を、すんでのところで、今井が身代わりになって受けたのか。
 それならば、土方が激しく動揺しているのも頷ける。元々が、押し隠してはいるが、人一倍感受性の強い男だ。自分を庇ったせいで死に瀕している相手を目の前にしては、まして自分がそれなりに目を掛けていた相手であれば尚のこと、落ち着き払ってなどいられまい……。
 感慨に耽るには、だが、余りにも場所が悪過ぎた。
 迫る気配に気付いた時には遅かった。複数の手が後ろから組み付いてきた。抗う暇《いとま》もなく、私は、その場から引きずり離されていた。
 確かめるまでもなく、それは、死者達の手であった。彼岸からの抗し難い引き寄せの力が、そこから伝わってきた。引きずられながら、私は、死に物狂いで暴れた。恰好など構ってはおれなかった。しかし、それこそ病み衰えた者が屈強な男達に引きずられるようなもので、私の抵抗など、品のない表現だが、屁の突っ張りにもなりはしなかった。
 嘲笑が、耳を刺した。
〈へへ、今度は逃がさねえぞ〉
 さっき私が肘打ちを喰らわせた相手の“声”であった。
〈よくも殴ってくれやがったな〉
〈のこのこ戻ってくるなんて、間の抜けた奴だな〉
 路地に引き込まれ、ねじ伏せられて押さえ付けられる。──と思ってしまったら、そうなってしまう。亡霊の身では感じる筈のない地面の感触までが、生身を持って生きていた頃のように戻ってきてしまうからだ。そして、一旦そう思ってしまったら、余程のことがない限り、その感覚からは逃れられない。そのことは、ひと月以上亡霊として彷徨った身、熟知していた。
 どうやら、相手は三人に増えているか、最初から三人だったかしたらしい。最終的に馬乗りに押さえ込まれて抵抗出来なくなってしまって初めて辺りを見た私は、自分を覗き込む死者達が、何処かで会ったことのあるような人間ばかりであることに気付いた。だが、思い出せない。思い出せないということは、それほど深い関わりがあったわけではなく、たまにすれ違う程度の繋がりしかなかったのだろうが……。
〈そら見ろ、やっぱり伊東先生じゃないか〉
〈あ、本当だ〉
〈だども、この間、殺されたって話じゃねえか?〉
 ……私を見知っているということは、新選組の隊士か。思い出せないのだから、断じてかつての同志ではない。よりによって最も拙い相手に捕まってしまったのではないか。出る筈もない脂汗がにじみそうな心地がした。
〈俺達に捕まえられるんだから、幽霊に決まってんだろ〉
〈はは、俺達も今じゃ立派な幽霊だもんな〉
 何処か投げやりな笑いが降ってくる。
〈ああ先生、俺みたいな平隊士なんて絶対に覚えてらっしゃらないでしょうねえ。俺、ずうっと、先生に憧れてたんですよ〉
 馬乗りになっている青年が、妙に粘りのある笑みを浮かべて、そんなことを言う。
〈お声を拝聴するだけでも、お姿を拝見するだけでも、身震いしちまうくらいに……〉
〈なーに勿体振ってんだよ。さっさと言っちまえよ〉
〈夜這いかけて泣かせてえって、いつも言ってたくせに〉
〈典雅さのかけらもない横槍入れるなよ。俺と一緒に極楽へ参りましょうって言おうと思ってたのに〉
〈典雅って面かよ〉
 周囲から起こる下卑た笑いに、私は、“鳥肌が立つ”ような感覚に襲われた。相手が私に何を欲しているかは、明々白々であった。
 だが、私は同時に、奇妙な感慨に捕われていた。
 土方も、私から迫られる度に、きっと、こんな思いに襲われていたに違いない。
 今、私は、生前の己の醜悪な鏡像を見せられているようなものだ。
 今こうして自分が土方に対して強いてきたと同じことを強いられようとしているのは、因果が巡ってきたに過ぎないのかもしれない。
 ……とは思えど、だからと観念して相手の言いなりになるつもりは、更になかった。
 この世に留まるためなら、一時《いっとき》の屈辱には耐えてもいい。だが、一緒に川を渡るなど、断じて御免だ。
 私は、ちりっと左手の中で熱く動いたものを握り締めた。──糸だった。あの、命を失った直後川のほとりから引き返してきた時に命綱のように手繰り寄せた、私と土方とを繋ぐ、奇妙な糸。見えないほどに細く、しかし不思議に強靭だった糸。ふと気付けばその糸は、掌と指に、すぐにはほどけないほど複雑に絡み付いている。
 あの時以来今迄、絡み付いていることすら意識していなかった。が、どうやら、この身が“危機”に晒されると、私の助けになろうとするかのように存在を主張してくるものであるらしい。
 その糸に心励まされ、私は、相手を静かに見据えた。
〈──肉の身を喪ってもなお狼藉を働きたいと言うのなら、この世の名残に許してやっても構いませんよ〉
 一見穏やかに、言葉の糸を紡ぐ。
〈ですが、君達と共に彼岸への川を渡るのは、絶対に、お断わりです〉
〈つれないじゃありませんか、先生〉
 相手の目が、嫌な光を帯びてくる。
〈俺は、先生の所へ移りたいばっかりに、処分を覚悟で移籍を希望する仲間に加わったんだ。なのに、追放された俺達を、先生は、衛士に加えてはくれなかった〉
〈……私の預かり知らぬ話を恨み言のように並べられても困るのですが〉
 些か困惑したような表情で私は呟いてみせたが、無論、相手の言葉で、悟った事柄はあった。
 私達の分離後、新選組の隊士達を幕臣に取り立てるという話が本決まりになった時に、新選組に残留していた──正確には、させていた──佐野七五三之助《さの しめのすけ》君や茨木司君達が、幕臣になるのを潔しとせず我々御陵衛士側への移籍を求めた、という出来事があった。その時私は、分離時に新選組と取り交わした約定があったが為に彼らの移籍を認めるわけにも行かず、訪れた佐野君達に「約定をこちらから破るわけには行かない、今は自重して時期を待て」と告げたのだが、納得してはもらえなかった。
 結局佐野君達は、預かり主である会津藩にまで掛け合い、局長副長と論を戦わせた末に、新選組に戻るしかないという結論を突きつけられ、行くもならず戻るもならず、割腹して果てた。深川以来の弟子でもあった佐野君や、信頼していた茨木君の死の知らせを受け取った時には、さしも温和な私も、何故そこまで追い詰めたのかと激怒したのだが……
 ……確かその時に、腹を切った四名の他にも、追放処分にされた者が数名いたと聞いた。察するに、この三名は、その追放された元隊士であろう。追放後にこちらへ接触してきたかどうか私は知らないが、もしかしたら、接触を受けた同志の誰かが、私の意を汲んで断わっていたのかもしれない。
〈嫌ですよ、先生。幽霊ってのは、恨み言を並べるもんでしょう〉
 気の利いた冗談でも言ったつもりか、相手は、けたけたと癇に障る“声”で笑った。
〈先生がどうして幽霊になってまでこの世にしがみついていらっしゃるのか、なんて、俺は訊きませんよ。どうせ、土方先生のお側にいたいから、とか何とかでしょうからね〉
 不覚にも、私は返す言葉を失った。名前も覚えておらぬ相手が、何故、そんなことを知っているのだ。
 動揺が外に出てしまったか、相手は、また癇に障る笑いを発した。
〈ああ、やっぱりそうだったんだ。勘が働くんですよね。俺みたいに、先生が恋しくって恋しくって仕方がないって奴の目で見てるとね。……悔しいなぁ。土方先生みたいな冷血漢に想いを懸けたって報われっこないでしょうに……俺なら幾らでも満足させてさしあげられたのに〉
〈──彼の心優しさを知る機会に恵まれなかったとは気の毒に〉
 段々に不穏な粘りを強める言葉に身をこわばらながらも、私は、言い返さずにはおれなかった。自分への恨みつらみを聞かされるのは甘受出来たが、土方のことを悪し様に貶されるのは我慢がならなかった。
〈生憎ですが、私は、君が思うほどに報われなかったわけではありませんよ〉
〈ますます悔しいなぁ〉
 青年は、唇を笑みの形に歪めた。
〈心底からお好きだってのが嫌でも伝わってくるじゃありませんか。……ひどいなぁ、先生。そんな風に冷たくされると、意地でも泣かせたくなってくる〉
〈出来るものなら、やってみるがいい〉
 私は冷然と言い放った。抑え難くなった嫌悪感に、言葉が一気に尖った。
〈それで私と土方との絆を断ち切れると浅はかにも思うなら、やってみるがいい!〉
〈──言ったなぁ!〉
 相手の形相が、悪鬼のそれに一変した。
 もはや、受禍は避けられまい。
 だが、耐えてみせる。己がこの世に遺した土方への想いに賭けても。
 両肩を鷲づかみにされながら、この身に強いられる屈辱への覚悟を決めた、その瞬間であった。
〈お前ら、そこで何をしているっ!〉
 何処かで聞いた覚えのある“声”と共に、何者かが疾風のように飛び込んできた。私の上に馬乗りになっていた青年が、悲鳴をあげて消え失せる。何が起こったのか理解出来ず呆然となる私の“目”に映ったのは、白刃《はくじん》を鮮やかに閃かせて残るふたりをあっと言う間に“斬り伏せる”ひとりの若者の姿であった。
 死にたての死者は、自分に加えられた危害をまともに受け止めてしまう。私ぐらい亡霊としての自分の“体”に馴れて図太くなってくると、“殴られたって痛くない”とか“斬りつけられたって平気”とか認識しているから、大抵の場合は平然としていられるのだが、死んだばかりの者は、生前の肉の身の感覚から逃れ得ていない者が殆どなのだ。
 だからこそ、さっきの青年も、私に無体を働こうという気になったに違いない。最低でも私ぐらい亡霊として過ごしていれば、そういった肉欲とはかなり縁遠くなっていた筈だ。
 ともあれ、私を此処へ引き込んだ死者達は、ひとり残らず、飛び込んできた若者──彼もまた死者であることは歴然としていたが──に“斬り捨てられて”、姿を消した。
 私も含め、死者の魂にとっては、“気を失う”ということは、有無を言わせず彼岸へ引き込まれることと同義である。斬り掛けられて“やられた”と思った刹那に、彼らは、この世に留まる力を失ってしまったのだ。
 そうと理解したところで、若者が刀を収め、戻ってきた。
 私は、改めて相手の顔を見直し、はっとなった。
 それは相手も同様だったらしく、実直そうな顔が驚きに惚《ほう》けた。
〈──伊東先生!〉
〈今井君……〉
 そうか、あれからそのまま息を引き取ったのだな、と思いつつ、私は、身を起こそうとした。だが、どうにも起き上がれなかった。なけなしの“力”を、さっきまでの抵抗で粗方使い果たしてしまったのだ。これ以上無理をして動こうとすれば、私もたちまち彼岸へと引き込まれてしまいかねない……
 ……待て。
 私は、つと、青ざめる思いに捕われた。
 この状況は……一難去ってまた一難、ではなかろうか?
 今井とて既に死者である。三人がかりで暴行されそうになっている者を見て生前の感覚で咄嗟に助けに飛び込んできたのだろうが、自分が川を渡る連れに、私を引きずっていくかもしれない。だが、そうされても、もう私には抵抗することすら出来ない。その為の“力”は、もう、私には残されていない……
 だが、今井は、そういう存念は今のところ持っていないのか、
〈お怪我はありませんか?〉
 などと、生真面目に尋ねてきた。
〈怪我も何も……私は亡霊ですから〉
〈御無事で何よりでした〉
 今井はホッとしたように微笑むと、片膝突いて、私を抱え起こした。奇妙なことに、その手から感じる彼岸からの引き寄せの力は、何処か遠かった。
〈でも、どうして先生が、このような所に? もう……ひと月以上前だと思うのですが〉
〈……この世に未練があり過ぎましてね〉
 用心深く、私は呟いた。
〈それで……留まっているんですよ〉
〈そうでしたか……〉
 今井はわずかに首を傾けたが、すぐに、深く頭を下げた。
〈有難うございます。おかげで私は、先生に御恩返しが出来ます〉
〈はあ?〉
 私は思わず、間の抜けた返事をしてしまった。
〈恩……? 私が君に……何か、しましたか?〉
〈はい。先生のお口添えのおかげで、私は、新選組に入ることが出来たんです〉
 顔を上げた今井は、照れたような笑みを浮かべた。
〈江戸で隊士の徴募に応じた際、先生方の前で他の入隊希望者と立ち合いをしたのですが、私は、その時、負けてしまいまして。そのまま帰れと言われても仕方がなかったところ、伊東先生が『負けた側にも見るべきところがあった、精進次第で幾らでも化けますよ』とおっしゃってくださったので、入隊を許されたんです〉
〈そんなことも……ありましたかね……〉
 私は目をしばたいた。迂闊にも覚えていなかった──と言うよりは、そんな風に口添えをした相手は他にも何人もいたものだから、特に取り立てて記憶に留めてはいなかったのだ。
〈しかし……口添えをしたからといって、全てが認められたわけではない。最終的には土方が……副長がうんと首を縦に振らなければ、認められなかった筈です。私のおかげでも何でもありませんよ、それは〉
〈ですが、希望者同士の立ち合いに敗れた者で、先生がお口添えをなさらなかった者は、誰ひとり、残りませんでした〉
 今井は生真面目にかぶりを振った。
〈先生が覚えていらっしゃらないからといって、恩義が価値を失うわけではありません。──どうか、私に、川を渡る前に、御恩返しをさせてください〉
〈……では、このまま、私がこの世に留まることを見逃してくれますか〉
 呟くように、私は言った。
〈それだけで充分です〉
〈充分……〉
 戸惑ったように、今井はまたかぶりを振った。
〈それは、何もしてくれるな、というお言葉なんでしょうか〉
〈そうではありません。……彼岸へ連れてゆかないでほしい、と言っているのです〉
〈あの……もしかして先生、先程の不届者は、先生を無理矢理彼岸へ連れてゆこうとしていたのですか?〉
 いよいよ困惑したような問を聞いて、私も流石に気付いた。この若者には、最初から、私を道連れに川を渡ろうなどという考えそのものがないのだ。
 だから、何もするなと言われたのか、と戸惑ったのだ。
 私は苦笑した。
 全ての死者が、道連れを探すわけではないらしい。生者に様々な性分の者がいるのだから、死者にも、色々な性格の者がいるだろう。それを一概に死者は亡霊を見逃さないものと思い込んでいた私の考えが浅かった。無論、概ねそういうものだと考えて用心するに越したことはないが、全ての死者がそういうものではないということも、心の片隅に入れておかねばなるまい。
〈……したいことをした後で、そうするつもりでいたようですよ〉
〈斬り捨てて良かった〉
 何処か憤然とした口調で、今井は呟いた。
〈今考えれば、お互い死んでいるのに斬ったり斬られたりというのも変な話ですが……あの時は夢中で〉
〈その方がいいんですよ。自分も相手も死んでいるのだから斬ったり斬られたりなんて出来る筈がない、などと考えてしまうと、斬ったとも思えず、斬られたと相手に思わせることも出来ないものなのです〉
 私は微苦笑し、簡単に、自分が一か月《よ》の体験から得た事柄を色々説明してやった。
〈……先生、質問しても宜しいですか?〉
 今井は興味深そうに聞いていたが、私がひと通りのことを話し終えると、疑問を投げかけてきた。
〈通り抜けられないと思ってしまったら壁も通り抜けられないとおっしゃいましたけれど、では、拾えると思ったら針でも拾えるということにはならないのですか?〉
〈そこが難しいところでしてね〉
 私は微笑んだ。何やら、生前新選組隊士達を相手に学問の講義をしていた時のような気分が、甦ってきた。
〈魂を持たぬ物に対する時、こちらは己の思い込みに影響を受けてしまうのですが、物の方は影響を受けてはくれないのですよ。魂同士であればお互いに影響を受け合って触ったの触られたのということになりますけれど、物相手では、こちらの方だけが、物に触れたの触れないのと感じてしまうだけなのです。……わかりますか?〉
〈ええと、つまり……本当は物には一切触れられない、それだけが本当のことなのに、自分で自分の思い込みに騙されて、物に触ったと感じてしまうだけ……ということでしょうか〉
〈まさに然り〉
〈ということは、針に触れることが出来たと感じても、針は持ち上がってくれない?〉
〈そういうことです〉
 私は、にっこりと笑った。多少わかりにくい言い回しを使ったという自覚があったので、それを自分でしっかりかみ砕いて平易な言葉で説明出来た相手に、良い弟子を得た時のような嬉しさを覚えてしまったのだ。
〈こちらだけが影響を受けるなんて、何だか、理不尽なものですね〉
〈でも、一概に不便とは言えませんからね。疲れて壁に寄りかかりたいと思う時などは、便利ですよ。もし思い込みに関わらず壁を通り抜けてしまうことしか出来ないなら、寄りかかったところで突き抜けて引っくり返ってしまうだけですし……こうして我々が地面に座っていられるのも、だからですよ〉
〈あ……そうか〉
 頭を掻く今井を、私は、じっと見つめた。
〈……何となく、わかった気がする〉
〈え?〉
〈どうして土方が、君にそれとなく目を掛けていたのかが。……何となく、だけれど〉
 半ば以上ひとりごとのように呟くと、今井は目をしばたいた。
〈伊東先生?〉
〈施した当人が覚えてもいないような恩義を忘れず、命を失ってさえも返そうとする……物事に対して真摯で、そして素直だ。……適うことなら、君のような者が、生きて土方の傍らに在るべきだったのでしょう〉
 だが、現実には、彼は死して川を渡る。何の力にもなることの出来ぬ私だけが、側にしがみついている。
〈……今井君〉
〈は、はい〉
〈恩を返したいという言葉に甘えても良いなら、私を、土方の側《そば》まで連れ戻ってほしい〉
〈土方先生のですか?〉
 今井は戸惑い気味の表情を見せたが、すぐに、
〈わかりました。何処にいらっしゃるか、お探ししてみましょう〉
 と頷くと、私の脇を支えるようにして立ち上がった。
 戸惑ったのは、今度は私の方だった。何故、とも問わず、願い通りにしてくれようというのか。
〈今井君……何も、訊かないのですか?〉
〈え?〉
〈いや……どうして土方の所なのかとか……〉
 口籠もると、今井はかすかに笑った。
〈恩を受けた先生からのお願いなのに、何故そうしてほしいのかなどと尋ねるのは、如何《いか》にも詮索がましく無躾なことかと存じます〉
 私は、返す言葉に詰まった。
 と、今井はそれを察したか、申し訳なさそうな顔をした。
〈……勿論、私がそう感じただけです。生意気なことを申し上げて、お気を悪くなされませんでしたでしょうか〉
〈いや……決してそんなことはありません〉
 支えられて歩き出しながら、私は、静かにかぶりを振った。
〈……不思議なものです。尋ねたりなどしない、と言い切られてしまうと、自分から話したくなってしまう〉
〈先生、別段私は、そんなつもりでは……〉
〈いいのです。大したことではない。……私がこの世に未練がましく留まっているのは、ただ、土方の傍らにいたいからです。それ以外に、何の理由もありません〉
 今井は、何と応じていいのかと暫く考えていたようであったが、やがて、言いにくそうに口を開いた。
〈……先日、土方先生が、おっしゃっていたのですが……〉
〈言い寄っていたのは私ですよ〉
 言葉の先を読み取って、私は、答えた。
〈私だけではありませんが、ええ、私です〉
〈聞いて……いらっしゃったのですか?〉
〈あの時にはもう、私は、土方の側《そば》にいましたからね。君と話している横から私が色々と言うものだから、彼は、返事も出来ずに困っていましたよ〉
〈ええっ!?〉
 吃驚したような“声”をあげ、今井は足を止めてしまった。
〈伊東先生は──土方先生とお話が出来るのですか!?〉
〈話しかけさえすれば、彼だけとは〉
 私は苦笑した。
〈見せようと思えば、姿を見せることも出来ますよ〉
〈す、凄いお力をお持ちなんですね……〉
〈凄くなど……ただ、姿を見せたり話しかけたりすると恐ろしく疲れてしまうもので、今は、じっと傍らで身を潜めていることしか出来ません〉
 そこをさっきの連中に見付かって路地へ引きずり込まれたのですよ、と付け足すと、今井は“嘆息”し、再び歩き始めた。
〈……私は、土方先生に、命を頂きました。御存じかとは思いますが、私は、知らずとは言え大石殿の弟を殺めたということで、大石殿から命を狙われていました。その命を、先生は、今井に何かあったら腹を切れと局長に言われた、と大石殿におっしゃって、預かってくださったのです〉
 問わず語りに、彼は、話した。
〈先生は、頭を下げた私に、君の命を預かったのは、君が新選組の隊士だからに過ぎない、とおっしゃいました。私は、そのお言葉に、より一層感激致しました。それは、役付きでもない一介の隊士の命であろうと無意味に失われることは許さない、自分の命を楯にしてでも守る、とおっしゃったのと同じでしたから。……その時以来、私は、土方先生のお為になろう、先生の為にこそこの命を捨てよう、楯になろう、と、ずっと、思ってきました。だから、どんなことでも土方先生のお役に立てたと思うと嬉しく、今日、この命を先生の為に捨てることが出来たというだけで、もう、本望でした〉
〈……幸せ者だ、土方は〉
 私は、暮れ始めている空を仰ぎながら呟いた。
 そんな風に“お前を特別扱いしたわけではない”と告げるも同然の突き放した言われ方をされたら、多くの者は、何だ、と心ひそかに失望するだろう。なのに、この若者は、言葉の表面に惑わされずにその本質を見抜き、土方の為になろうと誓ったのだ。……本当に命まで投げ出してしまうほどに。
 不思議に、嫉妬の気持ちは起こらなかった。むしろ、そこまで土方のことを理解し好意を抱《いだ》いていてくれたのかと頭を下げたくなるような思いさえした。そういう点では今井もまた、沖田と同じ、私の憎悪や悋気を空回りさせてしまう性格の持ち主であるに違いない。
〈君のように、報われた、もう思い残す事はない、と思って死ぬことが出来たなら、私も、こうして彷徨うことまではなかったでしょう。けれど……私は、それまで、余りにも報われなさ過ぎた〉
〈正直、私には、その……道のことは、よく、わからないのですが……〉
〈私にだって、わかりませんよ〉
 私は苦笑を洩らした。
〈私はただ、彼に惹き寄せられた。どうしようもなく、惹き寄せられた。ただそれだけなのです。別に、その道[#「その道」に傍点]の好みがあったわけでも何でもありません。だから、最初は色々と理屈を付けて、自分自身をも誤魔化していました。新選組を手中にする為の方便だ、とか何とかね。でも、本当は、逆だった。新選組を手に入れるということの方が、方便に過ぎなかったのですよ〉
〈……ええと……?〉
〈わかりにくいですか。新選組を手に入れる為には、組織の要である副長の土方を手に入れなければ、と考えていたのが、実は、新選組を手に入れたいと考え始めたその元々の動機が、土方への自身の恋着だった、ということに、ずっと後になってから気付いた……という意味ですよ〉
 ゆっくりと言い直す私の言葉を頭から順繰りに辿り直していたらしい今井が、やっと、理解したような表情を見せる。
〈つまり……目的の為の手段だと思っていたら、手段の方こそが目的で、目的の方は手段に過ぎなかったのだ……ということなのですね?〉
〈……今井君、君と話をしていると、私は、自分が物凄く頭の悪い人間であるような気がしてくる〉
 苦笑いしながら、私は言った。実際、私が説明する言葉よりも、今井が理解して後に確認の為に発する言葉の方が、ずっと他人に対してわかり易い。世間では、しばしば、知識を駆使して小難しいことを言う人間を偉いと錯覚する。だが、難しい言葉を簡単な言葉に置き換えて平易に物事を説明出来る人間の方が余程賢いと、私は思う。頭の良し悪しは、学のあるなしではないのだ。
 考えてみれば、土方がそうだ。私ほどの学がないことは明らかだったが、物事に対する洞察力や直観力は私よりも余程優れていた。また、他人の話を飲み込むのも早く、いいと感じたらすかさず取り入れる柔軟さを持っていた。……まあ、相手次第では幾らでも頑なになるところはあったが、それ以外の場面では、隊務の処理など、実に融通無碍であった。本当に賢い男というのはこういう男なのだなと、生前、何度心ひそかに思わされたことか……。
〈あ〉
 今井が、不意に足を止める。どうしのかと顔を上げた私の“目”に映ったのは、行く手すぐの場所に佇む、漆黒の毛並も美しい一頭の牝馬の姿であった──明らかに、生身ではない[#「ではない」に傍点]
〈射干玉……?〉
 思わず呟くと、馬は──いや、馬の魂は、ひん、と短く啼いて、ひらりと身を翻した。そして、とととっと少し走ったかと思うと、足を止め、私達を振り返った。
〈……付いてこいと、言われているような〉
〈確かに……そんな感じですね〉
 もしかしたら、土方先生がおいでの場所を知っているのかもしれません、と言われて、私は頷いた。まだ左手指に絡まっている糸が、かすかに温かくなった。まるで、いいから安心してこの馬に付いてゆけ、と促されているような気がした。同時に、実はこの糸を辿れば土方の許へ戻ることが出来るのだということにも私は気付いたが、しかし、折角あの、土方以外にはいい顔を殆ど見せなかった気難しい牝馬が道案内をしてくれようというのだ。此処は黙って、その好意に甘えよう。
 私達が付いて歩き出すのを確かめると、射干玉は再び前を向き、今度は軽やかな歩様で往《ゆ》き始めた。
 既に戦場では、幕府側がどんどん撤退を始めている。我々の目にしか見えぬ死者達もそちこちで彷徨っていたが、今井が肩を貸してくれているせいか、私を見ても、寄ってくる者は殆ど皆無だった。一度、〈ありゃ亡者じゃぞ〉と興味深そうに寄ってきた者達もいたが、苦笑いさせられたことに射干玉が、ぱかんぱかんと、まるで「邪魔よ、おどき」とでも言わんばかりの風情で蹴散らしてしまった。
〈私など、嫌われていると思っていましたよ。一度、土方の休息所で、繋がれている近くに寄ったら、後肢で蹴られそうになったんですがねぇ〉
 しみじみ呟くと、その言葉が聞こえたかのように、彼女は振り返った。ぶる、と軽く鼻を鳴らして──ふふんと笑ったようにも感じられた──また前を向く。
〈……覚えてるよ、と言ったような気がしたのですが〉
 控え目に、今井が述べる。
〈……そうかもしれませんね〉
 私は苦笑いした。あの時は蹴られても無理はなかった、とは思っている。何しろその日の朝に、私は、この馬の目の前で、彼女の主人に対して相当に身に応える“嫌がらせ”を仕掛けたのだ。かなり賢そうな馬だったし、気性は難しいが土方にだけは随分と懐いていた馬だから、あの出来事で私を“敵”と見做したに違いない。後で危うく蹴飛ばされそうになったことからそうと判断出来たので、以後、距離を保つようにはしていた。
 が、その彼女が、今私を土方の許へ案内してくれている。大袈裟かもしれないが、お互い死によってわだかまりを超越したような、そんな感慨を覚えてしまう……いや、彼女は単に、今井を案内しているだけなのかもしれないが。
 などとつらつら思う間に、私達は、淀城の傍らを通り過ぎていた。
 ……どうやら、淀藩は、幕府軍を受け入れず、薩長軍に城門を開いたらしい。裏切りと言って良い。
(明日以降、この流れは、止《とど》めようもなくなる)
 恐らく、今後諸藩は、薩長側へ雪崩を打つことになる。思わぬ敗走に、錦旗の存在。幕府側に付いている諸藩の動揺は、淀藩の寝返りを見ても察し得る。
 生前の己の思想信条からすれば、これは、喜ぶべきことなのかもしれない。
 だが、今の私は、何よりもまず土方のことを思ってしまう身である。それは亡者となる時に定まってしまったことであり、自分ではどうすることも出来ない。
 どんなに生前の思想信条に立ち戻って物事を考えようとしても、心が土方から離れられないのだ。
 どんなに己を叱っても、土方のことしか考えられないのだ。
 そんな私には、彼の手の届かないところで激しく動いてゆく時の勢いが、切なく苛立たしい。彼がどんなに孤軍奮闘しても報いてくれぬ四囲の状況が、歯がゆく腹立たしい。
(……亡者とは、成程、愚かしい存在だ)
 自嘲気味に、私は考えた。
(いや、土方が、私を此処まで愚かにしてしまうほどに、私にとって特別過ぎたのか……)
 考えてみれば、生前から既にそうだったではないか。
 日頃どんなに国事を思っているつもりでも、土方のまなざしに晒され、その声に晒されると、私にとって我が身よりも大切な筈の国事さえもが遠くなった。
 どんなに国事第一と己に言い聞かせてみても、土方の前では、私は、愚かしいひとりの男に過ぎなくなった。
 そして……息絶える時、私の心を占めていたのは、国事ではなく土方のことだったのだ。
 もしもその時に私の心が志半ばにして死なねばならぬ無念に占められていたなら、今のような愚かしい亡者にはならずに済んだだろう。けれども、もしそうであったなら、そもそも、亡者と成り果てることもなかった筈だ。何故なら、私の抱《いだ》いていた志は、私が斃れても誰かが必ず継いでくれる性格のものであった。無念には思えても、未練を残すようなことではないのである。
 しかし、土方へのこの想いだけは……
〈射干玉?〉
 今井の“声”で、私は、現実に引き戻された。
 目の前を見直すと、私達の先を歩いていた青毛の牝馬が、すうっと姿を消すところであった。
 だが、姿を消す直前に、私達の方を振り返って軽く“鼻を鳴らし”、「此処よ」と告げるような様子を垣間見せていた。
 此処は何処だ、と辺りを見回したところへ、
「こんな所で兵糧をいじっている場合ではありますまい」
 と聞こえてきたのは、紛れもない土方の声であった。言葉遣いからすると、幕軍か他藩かの指揮官か誰かに物を言っているのだろう。些か厳しかったが比較的落ち着いた声で、変な昂りも動揺も窺えなかった。あれだけの出来事がありながら普段の怜悧さを失ってはいないことが、その声ひとつ聞いただけで、私にはわかった。
「もう小橋の辺りも敗れてしまって、味方はおりませんぞ」
「いやしかし我ら──の命《めい》でこの──死守せねば申し訳が立たぬ」
 答える声は余りよく聞き取れないが、誰か上役に当たる人間に頼まれて此処を守っているから動けない、とでも言っているのだろう。
「何を馬鹿な」
 一方の土方の声は明瞭だ。
「松平豊前守ならばとうの昔に八幡の方へ引き揚げられている。命じた相手がいなくなっているのに諸兄ばかりが此処へ残っても、むざと敵にその兵糧を渡すようなもの。今の内に退去してその兵糧を敵の手から守る方が余程賢明でしょう」
 今井に支えられながら声を頼りに歩いてゆくと、丁度、目に毅い光を湛えた土方が斎藤一改め山口次郎を従えて歩いてくるところと行き会った。
「永倉君達が合流したと?」
「はい、あちらに」
「他の組長は」
「今のところ消息がつかめません」
「……各組長には淀城に入れなかったら橋本まで退けと伝えてはあるから、無事なら戻ってくるだろう。嫌な予想が当たったのは癪に障るが、不幸中の幸いか」
 土方は、煤けた頬を両手でこすった。
「……この戦、難しいな」
「難しい、ですか」
「勝てない筈がなかった。それなのに、現実には、此処まで押されている……その原因の一端が、此処にある。退却と決めたなら、余計な犠牲を出さん為にも、速やかに全ての隊に知らせねばならん。なのに、此処のように取り残される者が出ている。前線の各隊と後方との連絡が全く取れていない証拠だ。……この分では、他の者が何処へ退却したかも知らずに置き去りにされて無駄死にする者も多かろう」
 ひとつ小さな息をついて、土方はかぶりを振った。
「こんな状況では、上の指示など待っていては、皆、犬死にだ。……上が役に立たん時の戦い方を、もっとしっかり教えておくべきだったな」
 後ろ半分は殆ど口の中での呟きだったが、何故か私にははっきりと聞き取れた。
 考えてみれば、新選組は、基本的に、実力本位の組織であった。上に立つ役、殊に実際に隊士を動かす各組の組長や伍長は、無能者では務まらぬ。だが、だからこそ隊士達は、上からの下知に安心して従えた。
 新選組一隊だけの戦いの内は、それで良かった。
 しかし、大きな軍の一隊として戦うことになった時、如何《いか》に土方以下の指揮官が有能であっても、更にその上で指示を出すべき人間が無能であったら、どうなるか。
 ……幕府には、無能でありながら要職に就いている人間は幾らでもいるのである。
 今日の土方の表情に垣間見えていた無力感は、その辺りからも来ていたのかもしれないと、私は思った。

 もう見失ってはなるまいと、私は、それからずっと土方の側《そば》にいた。
 負傷者達を見舞って回り、瀕死の重傷を負った山崎烝を迎え、井上源三郎の死を知らされ──橋本の陣地での土方は、重傷者と幼い見習隊士達とを船で大坂へ送り出すまでの間、少しも気の休まる暇がないように見えた。
 今井は、土方が橋本の陣地に入って落ち着くまで、私に付き添ってくれた。おかげで私は、その辺りをうろつく亡者に目を付けられてしまうこともなく、土方を追って橋本の陣地へ行き、その傍らにいることが出来た。
〈これからも、土方先生のお側に?〉
〈ええ〉
 問われて、私は即答する。
〈今日のような目に遭っても……それでも私は、彼の側《そば》にいたい〉
〈このようなことを申し上げるのは気が引けるのですが〉
 今井は、控え目に切り出した。
〈亡者として留まることは、善いことなのでしょうか〉
〈善悪を述べるなら、恐らく、悪なのでしょう〉
 星空を見上げながら、私は、呟いた。
〈亡者がこの世に留まる為には、この世に生きるものの生気を吸い取らねばならない。それが、段々と、わかってきました。たとえ生者に触《ふ》れていなくても、じっとしているだけでも、私は、少しずつ、周囲の生気を引き寄せて、自身が留まる糧としているのです。それを思えば、悪しき存在であるように思えてならない〉
〈それでも……お側に?〉
〈……勝手だと言いたいのでしょう。何もせず側に居続けるだけでも、彼の生気を少しずつ削ってゆくとわかっていて、それでも側に留まるのかと〉
〈それは、申し上げません〉
 今井は静かに答えた。
〈お話を伺う限りでは、土方先生は、伊東先生がお側に留まることを認めておいでです。土方先生は、御納得の上で、伊東先生をお側に置いていらっしゃるのだと思います〉
〈……それは、どうだろう〉
 うつむき、私は、低く呟いた。
〈私を側に置くことが寿命を縮めることだとまでは、彼は、知らない〉
〈……そうでしょうか?〉
 今井は、かすかに笑った。
〈私の存じあげている土方先生は、とても察しの良いお方です。物事を捉える時に理詰めでも理解されますが、理屈を超えたところでも色々なことを直観されるお方です。きっと、知られていないに違いないと伊東先生が思っていらっしゃることでも、理屈抜きで御承知なのではないかと思います〉
〈……どうでしょうね〉
 確かに土方には、そういうところがある。だが、彼が私を傍らに置く弊害を直観しているというのは、それは流石に買いかぶりか贔屓目に過ぎるのではないかと、私には思えた。しかし、今井が真摯に語ってくれていることを絶対に違うと否定も出来ない。そんな気持ちで、私は“嘆息”した。
〈私はそう感じます。ただ……それだと、伊東先生御自身がおつらいのではないかと、思うのです〉
〈私が?〉
〈はい。……留まることが悪しきことなのだとお思いなのでしたら、今は良くても、先で、御自身がその思いに苛まれてしまうのではないかと〉
〈……もう、苛まれていますよ〉
 苦笑が洩れた。
〈けれども、亡者として留まることで苦しんだりつらい思いをしたりするのは、私にとっては当然の報いですから〉
〈報い……?〉
〈……君のような純朴な青年に話していいこととは思えない。ただ、こうとだけ理解してください。私は、生前、皆の目の届かぬところで土方を苦しめ続けた。今私が皆の目の届かぬところで苦しみ続けるのは、その報い。今日の出来事も、これから我が身に降りかかってくるだろう禍《わざわい》も……つらかろうと苦しかろうと、耐えて当然なのです〉
 今井は、暫く沈黙した。
 だが、やがて、真摯なまなざしを私に当て、静かに口を開いた。
〈先生は、敢えて困難な道を選ばれたのですね〉
〈え?〉
〈つらくても耐えて留まりたいと願うほどに、先生のお気持ちは深い〉
〈単なる身勝手ですよ〉
 私は、苦笑いを浮かべてかぶりを振った。
〈文字通り往生際が悪いというだけのこと。……美化してもらっても困ります〉

 今井祐次郎が川向こうへの道へ赴いてしまうと、私は、陣中に唯ひとりの死者となった。
 周囲を行き交う生者達が漂わせていた生気を少しずつ取り込めたおかげで、自力で身動き出来るようにはなっていた。だが、積極的に動き回ればそれだけ消耗する。私は、床机に座ったままで眠り込んでいる土方の傍らに、じっと膝を抱えて座り込んでいた。
 互いに、束の間の休息だった。
 どんな夢を見ているものか、土方の寝顔は、何処か寂しげであった。
 その表情をぼんやりと見ながら、私は、自分の思いと向かい合っていた。
(彼の……見るべき姿を見終えた気は……しない)
 最低でも、近藤との離別に至るまでの道筋を見るまでは、彼の側《そば》を離れたくないと思う。愉しみ、と言えば言い過ぎになるが、私には、何故土方がみすみす近藤を敵の手に渡す羽目に陥るのか、さっぱり見当が付かないのだ。
 私が近藤のこれからについて知っている言葉は、江戸へ引き揚げた後、甲州勝沼で戦って敗れること。その後、江戸で永倉・原田と袂を分かつこと。そして最後には、下総流山で土方とも離れて敵に身柄を拘束され、やがて斬首に至ること……
 永倉達との別離は、何となくわかる気がする。分裂の芽は常に潜んでいた。私が誘った時には近藤から離れることを拒んだ永倉だが、弾みさえあれば存外思い切り良く離れてしまうのではないかと感じる。それは、原田にしても同じことだ。
 しかし、土方と近藤が──あの土方と近藤とが[#「あの土方と近藤とが」に傍点]、どうして離れることになるのか。
 私の目が嫉妬に曇っているだけで、本当は既にふたりの間には溝が出来ているのか。
 だが、その時[#「その時」に傍点]恐らく、土方は奔走するだろう。己の力が及ばない敵の手中から、近藤を救い出す為に。夢の中で私に泣いて懇願したように、頭を下げたくない相手にでも頭を下げながら。
 では……近藤の方なのか。
 近藤の方が、土方と袂を分かちたいと望んで離れてゆくのだろうか。
 果たして、そんなことが起こり得るのだろうか……
 考えれば考えるほど、わからなくなってゆく。
(せめて……せめて、それを見届けるまでは)
 成仏など、出来はしない……。
 ふっと、何かが、ぼんやりとしていた頬をかすめた。はっと傍らを見直すと、そこに、あの青毛の牝馬がいた。首を下げ、私の顔を覗き込むようにして。
 別れを告げに来た……のだろうか。
 戸惑いつつも、私は、通じる筈もない言葉をかけた。
〈……今日は有難う、射干玉〉
 ちょっと考えて、もうひとことだけ付け足す。
〈不満かもしれないが、これからは私が、出来る限り彼の側《そば》にいるから〉
 その言葉を聞くと、射干玉は短く鼻を鳴らし、つんと私の額を鼻先で突いた。
 まるで、「ふん、気に入らないけど仕方ないね、しっかりおやり」と笑いながら励まされたような、そんな印象を覚えた。
 ……ひどく懐かしい気持ちに襲われた。
 ずっとずっと昔、私に、こんな風に、突き放すようでいて、それでいて細やかな慈愛を感じさせる接し方をしてくれた女がいたことを、不意に思い出して。

 彼女がそのまま空気に溶け込むように姿を消してしまうと、再び私は、眠る土方とふたりきりになった。
『馬鹿。大人の振りしたって、子供は子供なんだよっ』
 女の声が、懐かしく思える。
 私は、十三の時には家を背負って立たねばならなかった。理不尽な罪を負わせられて出奔した父の代わりに一家の主としてしっかりせねばならず、母にも、唯ひとりの姉にも、甘えることは出来なかった。借財の取り立てに責め立てられ、遂には家名断絶となった時には、大人達に対処し切れなかった己の子供の部分を恥じた。それからずっと、私は、自分の中の子供の部分を消そう消そうとし続けた。家の期待も背負って学んだ水戸でも、許されて戻った父の開いた塾を手伝う為に水戸から帰ってからも、私はいつも、気を張り続けていた。大人の中に混じって、侮られてはならないと、精一杯に、大人らしく振る舞ってきた。
 十八で江戸へ出て深川の伊東道場に居着いてからも、私は、年齢に似合わぬ落ち着いた青年として、周囲に認められていた。
 それを、『嘴《くちばし》の黄色い子供のくせに爺むさい子だね、あんたは』と、容赦なく言ってのけた女。
 ……深川は仲町《なかちょう》の娼妓、名は橘《たちばな》
 最初は、大人の態度で受け流そうとした。だが、彼女はそれを許さなかった。散々に罵られ、こき下ろされ、挙句、駄目押しに決めつけられた。
『大人の振りしたまんま図体だけでかくなった子供ほど嫌な奴はいねぇや』
 その言葉は、胸にざくりと突き刺さった。それまでの罵倒で既に頭が十二分に混乱していた私は、もうどう返事をすればいいのかわからなくなって、ぼろぼろと泣き出してしまった。人前で、しかも女の前で泣くなど何とみっともないと自分を叱っても、裡から突き上げてくる激情の方が勝《まさ》った。こらえようとするほどに余計涙がこみ上げて、却って泣き声が止まらなくなった。
 だが、彼女は、その時初めて優しく微笑み、嗚咽に引きつり震える私を体ごとぎゅっと抱き締めて、言った。
『泣きたい時は、泣けばいいんだよ。甘えたい時には、しっかり甘えな』
 限りなく無様な姿を晒していた私をこそ、彼女は、丸ごと受け止めてくれたのだ。
 ……後にも先にも、彼女だけだった。そんな風に、私を扱ったのは。
 彼女が胸の病で亡くなるまでのわずか三年ほどの縁《えにし》だったが、彼女がいたからこそ、私は、素直に感情を表に出すことも決して悪いことではないのだと、いや、時としてその方が他人から人として信頼してもらえるようになるのだと、悟ることが出来たのだ。
 だから、例えば私の詠む歌も、国学を学び始めた水戸在府の頃には何処か作り物めいていたが、橘と出逢った頃から、明らかに変わった。技巧は技巧として意識しつつも、湧き上がる思いを素直にぶつけられるようになった。
(……だが)
 上洛してから、私は次第に、橘の教えてくれたことを忘れていった。新選組を手に入れたいという正道ならぬ思いに取り憑かれ、その為に他人を陥れ、両手を血で染め、もはや引き返せぬと思い詰める内に、彼女が慈しんでくれた素直さは影を潜め、今度は、大人振った態度ではなく、不可解にも映るだろう笑みで全てを周囲から隠し、自分さえをも誤魔化し続け、そして、遂には命を失った。
 けれども、今、思う。
 最後の最後になって、土方が私を憐れんでくれたのは……私が、橘に無様な姿を晒してしまって却って受け入れられたあの時のように、見栄も恥も外聞も全てかなぐり捨てて、素直に己の弱さを曝け出したからこそではなかったか。
(……そういえば)
 私は苦い笑みを浮かべた。つらつら惟るに、土方も、ある面では、橘とよく似た性格の持ち主ではないか。己を飾り隠そうとしている相手や計算混じりに寄ってくる相手は冷たく突き放すくせに、打算の一切ない感情を剥き出しにして真摯に迫る相手は存外呆気なく懐に飛び込ませてしまう。そして、一旦懐にまで飛び込んできた相手を拒むことが出来ず、情けをかけてしまう……
 してみると、土方にどうしようもなく惹かれたのは、心の何処かで、彼に、忘れ難い橘の面影を見ていたせいなのか。
 無論、それが理由の全てとは言えぬとしても、理由の幾許かにはなっていたかもしれぬ。

 翌日の橋本での戦いも、幕軍側にとっては信じ難い展開となった。
 大急ぎで築かせた胸壁を利用してのほぼ互角の撃ち合いが、味方であった筈の津藩が裏切って横合から発砲してきたことによって、幕軍側の総崩れとなったのだ。
 土方は、その時、兵を分けていた。遊軍として、永倉と山口の組を、本隊とは別に、八幡山に拠らせていた。
 敵が勢いに乗って押し寄せる中、退却合流しろという指示を、そこまで届ける事が出来るのか。
 土方が迷ったのが、私にはわかった。
 客観的に見て、知らせるのは無理だった。愚図愚図していては、退却の機を逸する。だが、知らせなければ当然、永倉達は、何が起こったかわからずに敵中に取り残される。──昨日《きのう》の、何処ぞの兵糧方のように。
 私の見る限り、永倉と山口には死の影は全くない。だから、この危機も何とか切り抜けられるだろうと予想は出来た。けれど、土方がどう判断するかは、私の予想の内にはない。
 私は、興味深く、土方の表情を見つめた。一瞬の間に様々な感情が駆け抜けたのが、意外に容易く見て取れた。
 知らせるのは無理だ。見捨てるしかない。だが、そんな決断はしたくない──
「土方先生っ、永倉さん達にも知らせねえと──」
 そんな土方の苦悩も知らぬげに、原田が口早に急かす。土方は唇を歪め、のろのろと開いた。無理だ、と言おうとしているのだと、それでわかった。
 だが、その言葉が発される寸前に、別の声が飛び込んできた。
「私が伝令に参りますっ!」
 私の全く見知らぬ隊士だった。恐らく、私が新選組を出た後で入隊した人間なのだろう。年の頃は、あの今井祐次郎と変わらぬくらいだろうか。若者らしい、きりっと引き締まった、血気れる顔立ちの青年であった。
 ……よくよく見直してみたが、死の影は、今のところ見当たらない。見直してしまったのは、その青年が、いずれ近藤の供として近藤と共に敵方に捕われる、という将来を有していたからであった。近藤と共に捕われながらその青年が命永らえるということは、供の者まで一緒くたに処刑するという乱暴な真似までは、敵もやらないのであろうか……。
 土方は相手の顔をじっと見据え、それから、何処か確かめるように呟いた。
「……野村利三郎君、だったな」
「はいッ!」
 青年が頬を紅潮させる。まさか自分の名を覚えてくれているとは、という驚きと喜びとが伝わってくるような返事であった。……だが、私は知っている。土方は、別に誰に語るでもないが、特に隊の人数が増え始めた頃から、全ての隊士達の顔と名前は絶対に一致させるよう、自らに課していた筈だ。新入隊士が来る毎に必ず、局長副長そして参謀の私の前に集めて、心得を言い渡しながら、さりげなく各人の名を呼んでは顔を見、また呼びかけては返事をする声を確かめ、頭の中に叩き込んでいた……ように、傍の私には見えた。
 それは、間者が紛れ込むことを防ぐ目的でもあっただろう。自分の見知らぬ顔がうろうろしていれば怪しい、という訳だ。現に、私が新選組にいた頃でも、土方の目は、屯所に紛れ込もうとした何人かの間者を未然に排除している。
「伝令に行くということの意味は、わかっているだろうな」
 土方の問に、野村青年は勢い込んで答えた。
「はいッ、もとより命は惜しみませんッ!」
 だが、土方はその答を聞くと、表情を曇らせ、静かにかぶりを振った。
「それは伝令の役目ではない」
「はッ……」
「命を惜しめ」
 ゆっくりと、かんで含めるように、彼は言った。
「君が永倉君達の所へ辿り着けなければ、君だけではない、八幡山の隊士達ひとり残らず敵中に取り残されて討ち死にすることになる。──いいな、生きろ。生きて私の指示を永倉君達に伝えることが、君の任務だ」
 低く諭すような言葉に、私は、胸を衝かれた。
 もう、誰も死なせたくない。
 言葉の後ろに、彼のそんな思いが横たわっているのが、まざまざと見えて。
「わかったな」
「は……はい」
 野村青年は、少しく気を呑まれたように頷いた。命に換えても果たすべき任務と意気込んでいた身に「生きろ」と命じられるとは、思ってもみなかったのだろう。
 その様子を見て、土方は微笑んだ。敵がすぐそこまで迫っている戦場だというのに、不思議と温かく穏やかな、優しい微笑であった。
「結構。ならば行け。君の勇気に賭けよう」

 隊士達をまとめて大坂に退却した土方の許へ、永倉と山口が戦死したらしい、という知らせがもたらされたのは、夜に入ってからのことであった。
 土方は、目に見えて動揺した。
 真っ青になって立ち尽くしたのだ。
「……本当か」
 相当の時間沈黙した後、ひび割れた声で、問い尋ねる。知らせを持ってきた若い隊士は、うろたえたように口籠もった。
「ら、らしい、という話でございますので……」
「……わかった」
 退《さ》がっていい、と土方が許すと、若い隊士はどぎまぎした様子で退出していった。
 そのまま物も言えずにいる土方の肩を、側にいた原田が叩く。
「土方先生、あんまり思い詰めねえ方がいい。永倉さんも斎藤君……もとい山口君も、そうそう容易くくたばっちまうような玉じゃねえ。きっと、戻ってきますよ」
「……俺の采配が拙かったんだ」
 土方は、唇をかんでうつむいた。呻きに等しい声が、洩れ落ちた。
「いたずらに兵を分けるんじゃなかった……俺のせいだ……」
「らしくねえですよ、先生」
 原田が、困惑したようにかぶりを振る。それはそうだろう。どう聞いても、今の土方の言葉は、言ったところで詮ない愚痴だ。そして、土方は、愚痴や弱音を人前で軽々しくこぼす男ではない。
「済んだことを愚痴らねえのが土方先生の土方先生らしいところじゃねえですか。今日今迄のことより、明日《あした》のことを考えましょうぜ」
「……そうだな。済まない」
 自分でも自分らしくないという自覚があったのだろう、土方は素直に頷くと、そのまま「もう休むから」と原田も退がらせた。
 そして、部屋には、土方と私だけになった。
(好機だ──今なら)
 私は、土方に話し掛けようとした。永倉にも山口にも、私の知り得た将来《さき》がある。ということは、その“討ち死にしたらしい”という知らせは明らかに誤報である。顔色を変えて立ち尽くすほどに衝撃を受けた土方を、何とか安心させてやりたかった。
 だが、そうと考えた刹那だった。
 全身を冷たく絞り上げられるような苦痛が、私を襲った。
(な、なに)
 一体何が起こったのか。
 急激な疲労感を覚えて──生前の感覚で言えば、丁度、立ち眩みを起こしてしまったように──その場に蹲ってしまった私の“耳”に、不意に、以前聞いた土方の言葉が、幻聴のように響いた。
『その将来《さき》とやらが、てめェの願望じゃねえって保証はねえ。下手に聞いて、その通りになりたかねえ。断わる』
 私は呻いた。
 そういう……ことか。
 土方は以前に、私の知っている将来《さき》を知ることを拒んだ。
 その意思を、私は、蔑ろにしてはならぬのだ。
 理非で言うのではない。この恐ろしい苦痛は、私が、土方の意思に逆らうような真似をしようと思った瞬間に来たではないか。
(しません──しませんから──話しませんから)
 幻聴に対して強く裡で答を返すと、苦痛はすうっと引いた。
 間違い……ない。
 今の苦痛は……土方の意思に逆らおうとした私への、懲罰だったのだ。
 考えてみれば、私は、土方への想い故に亡者となった身である。ということは、死者以上に、土方こそが、私の亡者としての死命を制する相手であるに違いない。
 土方が私に向かって「何々しろ」とか「何々するな」とか命じてくる言葉は、余程承服し難い言葉でない限りは、私の行動を大きく縛ってしまうのだ。
 この呪縛が解けるのは、土方が前言を翻して、私の知り得た将来《さき》を知りたいと望んでくる時だけなのだ……。

 翌日、永倉達は、無事に大坂まで退却してきた。
 私にとっては当然の帰結でも、彼らが死んだものと思っていた土方にとっては、思いがけぬ喜びに繋がったに違いない。あの冷静沈着な土方が、永倉に駆け寄って抱きついたくらいなのだから。
 抑え切れず涙ぐむ土方の姿を見ながら、私は、恐ろしい無力感に苛まれていた。
(……私は一体、何故、彼の側《そば》にいるのだろう?)
 側にいても、何の役にも立てはしないのに。
 将来起こることなど、時間さえ経てば嫌でもわかることではないか。
 むしろ、下手に知らない方が、見ろ、こんなに、喜びも深いではないか……
 私が近くにいたところで、土方には何の効用もない……むしろ、私の存在は彼にとって害毒でしかないのではないか……
(──何を考えている!)
 頬をかすめた彼岸からの風に、私は、はっと気を引き締めた。
 危ない。
 己が亡者として留まることに意味がないなどと考えてはならない。
 そんなことを思った瞬間に、私は、彼岸へ引き込まれてしまうだろう。
 疑問など持ってはならない。
 彼の役に立てない己の無力さがつらくてもいいではないか。苦しくてもいいではないか。
 己が味わう全ての苦しみは当然の報いなのだと、お前は、今井に言った筈だ。
 何の役にも立てぬ己に苦しむがいい。そして、耐えるがいい……。
 強く強く自分に言い聞かせながら、私は、指で不器用に涙をこすっている土方を見つめた。
 そうだ。
 あなたのそんな姿を、生前私には決して見せてくれることのなかった素顔を、もっと、私は、見たいのだ。
 だからこそ、だからこそ私は、こうして、この世に留まったのだから。

 あなたの、側に、いたい。
 その為ならば、私は、全ての苦しみを忍ぶ。
 どれほど、つらかろうとも……。



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