この「筆のあと」は、『まなざし』本編では描かなかったエピソードを扱っています。
 本編の章題で言えば「命」と「胎動」の間──時期で言えば慶応二年の初秋七月のお話。
 ……が、此処でばらしてしまいますと、実は、伊東甲子太郎がいつ妻うめ女を離縁したのかは、はっきりとは、わかっていません。
 子母澤寛《しもざわ かん》先生の『新選組物語』「伊東兄弟」を読む限り、新選組在隊時期の話らしいので、元治元年〜慶応二年、もしくは三年の早い時期、ということは言えますが……
 それをこの時期にしたのは、以下のような考え方をした為です。

 そもそも、上洛後の伊東さんが江戸へ赴いた明確な記録は、隊士募集に伴う土方さんの東下に同行した、元治二年の一回切りです。
 公式記録に残らなかったのは、大病に罹った母を見舞う為という私的な東下だったからとも考えられますね。
 ……はて、如何《いか》に親の生き死にがかかっているとはいえ、私的な東下を、近藤さんはともかく、土方さんが許すかしらん。
 何しろ、局長たる近藤さんが以前、大恩ある養父・近藤周斎《こんどう しゅうさい》の大病の知らせにも京を離れず隊務に専念した──という、八時四十五分の葵の御紋の印籠にも匹敵する前例がありますからね。
 という訳で、東下するなら、公用を兼ねる方が無難に決まっています。
 しかし、そんな、東下するのに都合のいい公用なんて、当時の新選組にあるんでしょうか。
 ……あったんです。
 それが、今回使った「大石鍬次郎の大石家相続問題」です。
 まず、

 1.日付宛先共に不詳の近藤さんの書簡の中に、「伊東」姓の人物が大石君の相続の件で東下したとわかる記述があり、此処でこの「伊東」姓の人物が大石君の親戚筋である山崎新蔵の反対意見を聞いてきていることが知れる

 この「伊東」姓の人物をカッシー先生……もとい伊東さんだと仮定することが、大前提となります。
 その上で、以下のように続けて考えます。

 2.大石君の相続問題が発生するきっかけとなった「大石造酒蔵横死?事件」は、慶応二年二月に発生した事件である
 3.慶応二月八月に東下することになっていた別の隊士がこの相続問題での周旋を依頼されているとわかる、大石君の八月一日付書簡があり、その中に、山崎某が反対している旨を大石君も聞いていることが判明する記述がある

 此処までの段階で、前述の近藤さんの書簡は山崎某の意見内容に詳しく触れているので、「伊東」姓の人物は、近藤さんに頼まれて東下し、その結果を伝えた、大石君はそれを恐らく近藤さんから聞かされたのであろう、ことが推測されます。
 そこで、伊東さんの東下の時期を慶応二年二月〜七月と絞ります。
 次は、消去法です。

 4.慶応二月三月下旬までは、伊東さんは広島出張中である
 5.慶応二月六月は、脱走隊士の捜索だ捕縛だ処刑(切腹)だ、と局内が非常に慌ただしい

 これで、四月・五月・七月が残ります。
 次に、

 6.近藤さんの書簡は日付不詳だが、大石君の書簡と同時期のもので同じ隊士に預けられたものと考えることも出来る

 と考えると、

 7.近藤さんの書簡には、「伊東」姓の人物が「過日」に東下・上京したという記述があり、この「過日」が四月や五月のような離れた月の日とは考えにくい(あくまで「にくい」であって、「られない」ではないので、注意)

 あと、傍証として、

 8.慶応二年八月に伊東さん(と実弟の三木君)が母と姉に宛てて書き送った書簡の中には、既に妻の名も妻への言伝めいたものも一切記されていないらしい

 これは、『新選組大人名辞典』(新人物往来社 二〇〇一)の「伊東ウメ」の項に書かれていたことです。
 ただ、この項を書かれた菊地明氏は、既に妻のことは眼中になかったことが窺える、てな風に書いていらっしゃいましたが、もし離縁した「ばっかり」だったら、逆に絶対触れたくないだろうなあと、私などは思うのでした。
 ……という次第で、七月が選ばれたのです。

 『まなざし』の筋立てから行くと、この頃の土方さんは、伊東さんを新選組から追い出してやろうと、あの手この手でいたぶりにかかっているところです。でも、まだまだ、試行錯誤の時期。だから、折角散々いぢめておきながら、最終的には逆効果になる発言をしてしまって、目論見を外されてしまうといふわけで……
 きっと、これ以後は篠原さんの耳目がある時の挑発だけに専念したに違いないと思う、野間でした。

※2001年12月 旧宅「野間りん、続きは〜?」掲載の文章を加筆修正




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