近江国《おうみのくに》の琵琶湖のほとり、草津で見られる“矢橋《やばせ》の帰帆《きはん》”は、かの有名な近江八景のひとつである。

      近江路にて
   おもひ入るやまと心の一筋に矢走を渡る船のかす/\
(作者註 :「矢走」とは恐らく「矢橋」のことであろう。昔の人は固有名詞の漢字表記に関して結構いい加減で、自分の名前でさえその時々で違う字で書くのである……迷ったが、使われている表記通りに引用し、本文では「矢橋」を使用した)

 草津・大津と辿って近江を後にした私が、いよいよ京の都に足を踏み入れたのは、元治元年も冬に入った十月の二十七日であった。
 共に旅をしてきた同志達の内、篠原泰之進《しのはら たいのしん》――彼は私よりもずっと年上であるにも拘らず私を師と仰いでくれる、腹を割って話の出来る大切な存在である――ひとりだけは所用があるということとでそのまま大坂に下ったが、残りの者は、新選組屯所となっている前川荘司で、長旅の草鞋《わらじ》を脱いだ。
「いよいよ此処まで来た、という気分ですね」
 衣服を正して後、近藤勇《こんどう いさみ》の居室へと赴き、開口一番そんな言葉を投げかけると、これまた旅装を解いてややくつろいだ風でいた近藤は、いかつい顔に愛嬌れる笑窪を作ってにっこりと笑った。
「期待しておりますよ、伊東先生」
「もとより非才の身ですが、近藤先生の御期待に沿えるよう、微力を尽くしましょう」
「非才などとはとんでもない! 土方君をはじめ留守を預かっていた幹部も皆、伊東先生の御高名は夙に承知。きっと先生の加盟を喜んでくれますとも――」
 私は、ちょっと身じろぐと、曖昧な笑みと共に無言で頭を下げた。
 心に広がった波紋を悟られないように。
 ……何故なのだ?
 小さく、胸の裡に呟いてみる。
 土方歳三
 会ったこともない男だというのに、その名を耳にし口にする度、奇妙なほど心が波立つ。
 何故なのか。
 私が初めてその名を耳にしたのは、今私の側に座して機嫌さげに私の話を聞く近藤と、江戸で、藤堂平助君の紹介で対面した折であった。その時に近藤は、自分が局長――浪士達の頭《かしら》を指すらしい――を務めているという新選組について色々と私に説明してくれたのだが、その話の中の、
『副長の土方歳三』
 という言葉が、何故か私の耳に引っかかったのだ。
『これが、局中の細かなことを一手に引き受け、処理を致しております』
 今も自分が不在の留守を預かってくれている、と語る近藤の態度口調には、その土方とやらに対して全幅の信頼を寄せているらしい様子が、ありありと見えた。
 そこまで頼りにされるほどの男とは、一体どんな男か。
 妙に気になった。
 この時勢、苟《いやしく》も国事の為に力尽くさんとて都へ上るからには、新選組という集団の中で、それこそ時として局長をさえ凌ぐほどの発言力を持てる位置に在らねばならぬ。さなくば、私の才覚を十二分に生かすことなど出来はせぬ。そう考えている私の目から見ると、近藤という男は、比較的し易いように思える。何より、私が加盟することを手放しで素直に喜んでいる。だが、新選組という集団を実際に取り仕切っているのが局長の近藤ではなく副長の土方という男だとすると……その男と巧く付き合ってゆけるか否か。
『え? 土方さんですか? 近藤先生とは同郷の幼馴染みで、同じ天然理心流の人ですよ』
 後で藤堂君に何気なく尋ねてみたところ、そんな答が返ってきた。
『付き合い易い人ですか』
『それは……どうでしょうか……こっちにいた時分は随分と砕けた感じもあって人好きのする人だったんですけど、向こうに行ってからは何となく取っ付きが悪くなって……冗談も言わなくなったし、笑わなくなったし……』
 ……ということは、以前は冗談も言えば笑いもする、付き合い易い男だった[#「だった」に傍点]、というわけか。
 いよいよ加盟と決し、上洛の旅が始まると、私は今度は、近藤に同行してきていた新選組の幹部達に、それとなく、他の話のついでのようにして、土方という男について訊いてみた。
『副長としちゃ文句の付けようはないですよ。頭も切れるし、細かいとこによく気も付きますしね。ただ、昔に比べると性格的にちょっとねェ……元は人当たりのいい、まァちょっとばかし恰好をつけるとこもなくはなかったけど、気の優しい人でしたよ。だけど今は、何だか恐ろしく愛想がなくなっちまってますね』
 藤堂君同様江戸の試衛館道場に入り浸っていたと聞く永倉新八という男は、大体藤堂君と同じようなことを言った。また、尾形俊太郎という男は、
『そうですね……時と場合によっては、それこそ眉ひとつ動かさずに苛烈な行動にも出られますが……副長として大変有能なお方であることは誰もが認めていると思います』
 と、控えめな態度で述べた。そして、武田観柳斎《たけだ かんりゅうさい》という男は、
『まこと、見ていて惚れ惚れするような美男子でしてな――いやいや、先生には及びませんが――とにかく、実に人目を引く美男子ですとも。ええ――ただ、如何せん、何ともひどく冷たい目で人を見下ろすのが難ですなあ、ええ――』
 と、何処か残念そうに――どうも男色の方の好みがあるらしく――話した。
 ……副長として申し分ない才覚の持ち主ながら、人間的には好かれにくい男、というところなのか。
『いや、伊東先生、そう言われては歳――いえ土方君に対して余りに酷というもの』
 近藤はしかし、弁護する。
『彼は元来、他人の気持ちをよく察する男です。だからこそ率先して、人から嫌な顔をされるとわかっている命令だの小言だの、憎まれ者になるようなことを、自分ひとりの手に抱え込んでいるんですよ』
 ……もっとも、当の土方自身が「自分は憎まれ者を引き受けているのだ」と口にしたわけではない、らしいが。
 とまれ、そうして、土方歳三という男に関する予備知識は、上洛途上で、ある程度は仕入れることが出来た。
 だが……
 知識を得たら落ち着けたかといえば、そうではない。肝心な、私のこの得体の知れぬ心持ちの正体は、一向にわからないのだ。
 もっと知りたい――敢えて言葉にしようと試みるなら、そんな感じだろうか。
 旅の途中、気が付けばいつも私は、近藤から、土方という男の話を引き出そうとしていた。無論、あからさまにではなく、ごく自然に話がそこへ流れてゆくように仕向けて。
 一体何ゆえ自分は、一度も会ったことのない男に此処までの関心を寄せているのだろうか……
「どうされました、伊東先生?」
 やや訝しむような近藤の呼びかけで、私は現在《いま》に返った。いつの間にか、黙りこくってしまっていたらしい。
「いえ……少々考え事をしておりましたもので」
 にこりと笑って応じる。
「これからこちらの方々にも御挨拶をさせていただかねばなりませんし……」
「おお、そうそう、そうでしたな、では早速」
 近藤が頷いて嬉しそうな顔をした、その時だった。
「局長――宜しいですか」
 不意に、低過ぎはしないが落ち着いた声が、閉ざされた障子の向こうから届いた。
「土方です」
 私は思わずびくっとなって、障子に映る影を見やった。
「失礼します」
 こちらが心の準備をする暇《いとま》もなく、障子がからりと開く。
 瞬間、息が止まった。
 あ……あの男[#「あの男」に傍点]
 上洛前に見た夢に現われた、氷のまなざし持つ、あの美男子!!
 どんな夢であったかは結局思い出せぬまま。だが、男の端整な容貌だけは、何故か、いまだにハッキリと胸裡に焼き付いている。殊に、あの漆黒のまなざし……あの、相対《あいたい》する者の心を凍てつかせるほどに冷ややかな……それでいながらどうしようもなく見る者の心を吸い寄せて已まぬ、あのまなざしは……
 障子を開けて入来したその男は、凝視する私の目には気付いた風もなく、近藤から嬉しそうに「歳、歳さん」と呼びかけられると、少し咎めるような目をして「局長」とひとこと返した。けじめ[#「けじめ」に傍点]を忘れないでくれ、とでも言いたげな声である。果たして、近藤がちょっとバツの悪そうな顔で「今、土方君[#「土方君」に傍点]を呼ぼうと思っていた」と言うと、男の目はフッと綻んだ。
 私は、胸がドキリと動くのを覚えた。
 何と温かい目をする男か……
 男が端座する姿をまじろぎもせずに見つめながら、私は裡にひとりごちる。
 こんな目で見られたら、大抵の女は、いや、もしかしたら男でさえ、胸ときめかせてしまうのではなかろうか……
 だが、正座して私の方に顔を振り向けてきた時にはもう、男の目はその温かみを失っていた。私の膝先から頭の先までをまるで一種値踏みでもするかのように見上げ、それから初めて私の目を見る。何故かわずかに息を呑んだような色が動いたが、私が微笑して黙礼すると、そつなく黙礼を返してきた。きゅっと引き締める端整な唇が、私に対してどうやら好意とは別種の感情を覚えたらしいことを伝えてくる。何を考えているのか、そのままじっと私を見つめ、何かを訝るようであった。
「伊東先生、こちらが、副長の土方歳三です」
 近藤から私に紹介されると、男は「土方と申します」と短く口にして一礼した。ひと括りに束ねただけの総髪が、さらりと肩を滑った。
「土方君、こちらは、この度新選組に加盟した、伊東甲子太郎《いとう かしたろう》君だ。元は、ほら、あの深川の――」
 私のことを色々と説明する近藤は、私とこの男とを引き合わせるのがとにかく嬉しくて仕方がない様子だ。しかし男の方はというと、私が「あの深川の」伊東大蔵であると耳にした時には流石に驚いたような表情を見せたものの、後は概して“何をそんなにはしゃいでいるのか”と言わんばかりの無表情であった。
 どうも、私のことが気に入らないらしい。
 だが、まだ初対面である。ゆっくりと語り合えば、初見の印象を変えてくれることもあろう。焦ることはない。そう内心に言い聞かせながら、私は、近藤と入れ替わりで、男に話しかけた。
「伊東です。……土方君のこと、近藤先生から色々とお噂は伺っています。お会いするのを楽しみにしながら参りましたよ。以後どうぞ宜しく」
「こちらこそ……宜しくお願い申します」
 男は軽く答礼したが、そこでちょっと何事かを考えるような目をし、それから、静かに口を開いた。
「……失礼ながら、お生まれは常陸《ひたち》の方《ほう》ではありませんか」
 私は驚いた。
 出身を言い当てられたことに、ではない。この男の方から私に話しかけてきたことに、である。
 覚えず、笑みがこぼれた。
 私を歓迎しない様子を隠そうともせぬこの男が、思いがけなくも、私のことを知ろうとしてくれた――そう思うと、我ながら訝しいほどに心が躍った。
「ええ……訛りが、ありますか」
「少し」
 ひとこと呟いて、男はそっと目を伏せる。その仕草が、何故か今度は、奇妙な不安を惹起した。
(……常陸訛りに何か特別な思いでもあるのか……?)
 先生先生と嬉しげに話しかけてくる近藤の相手をしながら、しかし私はその時既に、土方歳三という男から目を離し去ることが出来なくなってしまっている己に、ぼんやりとではあるが、気付き始めていた。



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