「待ってたよ、大蔵坊や。八面六臂の大活躍だったんだってねえ。早速、武勇伝を聞かせておくれ」
 馴染み……などと言っては怒られそうなほどたまにしか通えないのに不思議に私のことを可愛がってくれる仲町《なかちょう》の娼妓・橘は、ひと月振りに姿を見せた私の顔を見るなり悪戯っぽい笑みを浮かべて、開口一番そんなことを言った。
 私は、面食らった。
「武勇伝?」
「嫌だねえ。ついひと月ばかり前、拐かされそうになったお師匠さんのお嬢さんを助ける為に大奮闘して、当たるを幸い悪い奴らを薙ぎ倒してたって、そりゃもう、太助から、うんと聞かされたよ。……まあ、あの小間物屋の話だから、三割ぐらい割り引いて聞かなきゃならないけどね」
「……ちょ……ちょっと待ってくれ」
 私は赤面を禁じ得なかった。……橘が言っているのは、あの話か。
「武勇伝も大奮闘もないよ。……早とちりで危うく取り返しの付かない騒ぎを引き起こすところだったってだけで。それにその、当たるを幸い薙ぎ倒すって……そんなことしてたら今頃、伝馬町《てんまちょう》に放り込まれてるよ」
「それもそうだ。じゃあ、一体何処までが本当なんだい。……教えてくれないかなあ、私《わっち》にだけでも」
 ……橘からそういう迫り方をされてしまうと、弱い。
 私は、橘が勧めてくれた座布団に腰を下ろすと、屏風ひとつ隔てただけの場所で声高に猥雑な遣り取りをしている他の娼妓や酔客達の耳を些少気にしながらも、ひと月ほど前に起こった出来事を、語り始めた。

     ※※※

 伊東先生のひとり娘、うめ殿が、姿を消した。
 その日のお供役だった私と、富岡八幡へ参詣に出掛けた、その帰りに。

 その日、私は、直しを重ねて橘と過ごした上での、朝帰りだった。
 と言っても、別段、こそこそしなければならぬような茶屋通いでもない。
 無論、余りに無軌道に遊蕩三昧という為体であれば話は別だろうが、節度さえ守っていれば、殊更に咎められることもない。……そもそも、浪々の身でしかない十九の若造が、そんなに頻々と悪所に通えるほどの金を持っている筈がない。伊東先生の格別の御好意で内弟子にしていただいてはいるが、だからと言って、実家からの、決して多くはない仕送りを好き勝手に使えるわけもない。幼い頃に、父の残した借財の取り立て達に責め立てられた身、手許不如意の苦さは嫌になるほど知っている。まさかの時の為に、倹約を常として、少しは手許に蓄えておかねばならなかった。第一、実家の母は、無論親戚の援助は受けているけれどお世辞にも楽とは言えない暮らしの中からあれこれと遣り繰りして、私にきちんと仕送りを続けてくれているのだ。幾ら何でもその金で、些少の息抜きならともかく、己の本分を忘れて浮かれ遊ぶことなど出来はしない。
 いや、話がずれた。だから……ええと、どんなに多くても月に二度程度の朝帰りに過ぎないということが言いたかったわけだ。兄弟子達と比べてはならないのだろうが、私など、「若いくせによく辛抱出来るな、おとなし過ぎるぞ」と笑われる方だ。……ただ、橘にそれを言うと、「おとなしい? とんでもない、坊やは、なかなか大したもんだと思うけどね。こういうことはね、数を競ったって馬鹿馬鹿しいんだよ。どんなに粋人ぶったところで、中身が伴ってなけりゃ、何にもならないさ」と大真面目に言われてしまうのだが。……もっとも、どういうところが「大したもん」なのかは、「子供だねぇ、そんなに褒めてほしいのかい?」と悪戯っぽい笑みではぐらかされて少しも教えてもらえないから、結局は私も、彼女の、客を繋ぎ留《と》める手管に乗せられているだけなのかもしれないが。
 ともあれ、私は朝帰りだった。
 拙かったのは、その日が、うめ殿のお供の当番が私に回ってくる日であったということだった。
 うめ殿が外出する時のお供役は、内弟子がふたりずつ、交代で務めることになっていた。が、その日は生憎、もうひとりお役に就く筈だった兄弟子が、早朝稽古で足をひどく挫いたとのことで、私ひとりにその役が回ってきていたのだった。……何でも、伊東先生が他の者を代わりに付けようとしたところが、うめ殿が「今日は八幡様へお参りに行きたいだけですから、大仰にふたりも付けてもらうのは申し訳ない」と断わったらしい。
 ところが、今ひとりの当番であった私が、間の悪いことに朝帰りであった。決して自分の当番を忘れていたわけではないのだが、折角ふた月振りに橘に会えたのにちょんの間《ま》では別れ難かったのと、出掛けるのはきっといつものように昼を回ってからだろうという考えとで、呑気に直しを重ねて朝まで居着いてしまったのだ。
 だが……うめ殿は、どうやら、朝の内に出掛けたかったらしい。
 茶屋に遊びに出ていなければすぐに対処出来た筈のそれら諸々の事情も知らずに“遊び呆けて”戻ってきたわけだから、うめ殿の私に対する態度が余り温かいものになり得なかったのは当然かもしれない。
 とは言え、うめ殿は常日頃、特定の門人に対して格別冷たく当たったり、逆に殊更に懐いたり、ということをしない娘だ。それなりに隆盛を見ている道場の主のひと粒種であり、将来は婿を取らねばならない立場に在る自分が特定の門人に好い顔や悪い顔をしてはならない、門人達に妙な予断を与えてはならないと、十三の幼さながら、きちんと弁えているようなのだ。何となれば、言わずもがな、彼女の婿は将来、伊東家と道場とを継ぐことになるわけで……それが、今現在の住み込み乃至は道場に通う門人達の内の誰かになるという可能性は、常にある。無論、全くの他家から婿を連れてくるということもあり得るわけだが、兄弟子達の中には、誰とは言わないが、あわよくば、とばかりに彼女と親しくなろうとしている者も複数人いたくらいだ。
 ……此処でこっそり小声で言わせてもらうなら、それは全く陳腐な努力だ。武家の婚姻は、当人同士の意思よりも、親同士の意思が大きい。同じ取り入るなら、伊東先生に婿がねとして気に入られるように振る舞う方が余程賢いと思う。……もっとも、私は、それすら無駄な努力だと思うが。伊東先生は、そのような浅はかな考えの者を不用意に近付けることは決してないお方だから。
 また話が脱線したが、ともあれ、うめ殿は滅多なことでは、門人達に対して感情的に接することはない。是々非々で、一線を引く。
 だのに、その日の彼女は、最初から、少し、変だった。
 一体何が気に入らないのか、受け答えに、そこはかとない刺が混じっていた。私が声をかけても、返事もしないことさえあった。そんな彼女は非常に珍しく、困惑するしかなかった。
 しかし、最初こそ訳がわからずに戸惑っていた私も、ある言葉をきっかけに、彼女が一体何を不満に思っているかを察し、流石に穏やかではいられなくなった。
 八幡様の縁日だったから、人出は多かった。中には、日のある内から明らかにその筋の茶屋へ流れていこうとしている者達の姿もあった。そんな人々を見ながら、うめ殿は呟いたのだ。皆様はどうして岡場所などに入り浸られるのか、悪い遊び女《め》に引っ掛けられ、それで日々の稽古や勉学が疎かになるのではありませんか、と。
『聞き捨てなりません。いつ私が入り浸りましたか。稽古や勉学を疎かにしましたか』
 私がカッとなったのは、何故なのだろう。彼女が、「皆様」と口にしながら実は私を咎めている──そんな確信に囚われてしまったせいもある。入り浸ってなどいないし、稽古や勉学を疎かにした覚えもないのに、そんな風に見られているのかと心外だったせいもある。
『私は、鈴木様のことを申した覚えはありません。なのにそのようにお取りになるのは、鈴木様に後ろめたい気持ちがおありだからでしょう』
『後ろめたいことなど何もありません。私は、日々の稽古でも勉学でも、手を抜いたことはありません』
『でも今朝はおいでになりませんでした。朝の稽古を疎かになさったではありませんか』
『それは──早朝稽古は、必ず出ねばならぬとされているものではありません。それに、何も、私だけがいなかったわけではないでしょう』
『ですから、鈴木様のことを申した覚えはないと申し上げました。どうしてそのようにムキになられるのですか。……これまでにも、そのようにして岡場所の悪い女に骨抜きにされて身を持ち崩す門人を、何人か見てまいりました。鈴木様も、もう、そうなろうとしているように見えます』
『──橘はそんな女ではない。橘のことを何ひとつ知りもしないくせに、何処かで聞きかじったような話をしないでいただきたい』
 私は、背筋を伸ばして言い返した。橘のことだけは、誰からも悪く言われたくなかった。
 うめ殿は、ほんの一瞬、何とも言いようのない表情を浮かべた。それは、強いて言うなら、今にも泣き出しそうな、けれども絶対に泣けないと意志の力で押し殺しているような、そんな表情だった。私がはっと見直した時には、それはもう綺麗に消えて、多少青ざめながらも冷静な面に戻っていたけれど。
『……鈴木様こそ、父がどのような思いでいるか、何ひとつ御存じないでしょう』
『先生が?』
『父は、鈴木様のことを高く買っております。小さく収まる器ではない、必ず将来ひと廉の人物となるであろうと。……それなのに、鈴木様は一体、何をなさっておいでなのですか』
 普段であれば、些少はうろたえたかもしれない。だが、その時の私には、うめ殿が伊東先生のことを持ち出したのは単に私を責め咎める口実にしたに過ぎない、としか受け取れなかった。
 しかし、そんなことを師匠の娘に対してまともに言い返すのも、流石に憚られた。その程度には、私にも、分別は残っていた。
 私は、言葉を返す代わりに、うめ殿に背を向けた。そして、そろそろ帰りましょう、とだけ促し、先に立って歩き始めた。
 歩きながら、胸の燻りを持て余した。
 大体、「鈴木様」とは何だ。
 いつもは誰に対しても、分け隔てなく下の名前に「さん」付けではないか。それをいきなり、上の名前に「様」だなんて、突き放されたようにしか聞こえない。
 無性に腹が立った。
 志を忘れ、遊女にうつつを抜かして身を持ち崩す、その程度の男だと思われているのか。
 我知らずどんどん足を速めながら、私は、自分が一体何に腹を立てているのか、段々わからなくなってきた。ただ、無性に、胸の辺りがふつふつと煮えていた。
 縁日の賑わいから少しずつ離れて、佐賀町《さがちょう》の道場が近くなってくる頃になって、私は、はっと我に返った。
 うめ殿が、さっきから、ひとことも口を利いてくれていない。
 足を止めて、振り返った。
 ──うめ殿の姿は、なかった。

     ※※※

「……何でそんなに、むかっ腹を立てちまったんだい? 坊やらしくもない」
 橘は、くすくすと笑う。
「この橘さんのことを、悪く言われたから?」
「……わからない」
 私は目を伏せた。今思い返してみても、どうしてあれほどに胸を掻き回されたのか、自分でもよくわからないのだ。
「私には、何となく、わかる気がするね」
「え?」
「私のことを悪く言われた、ってのもあるけど、それを、おうめちゃんから言われたってのが応えたんだねぇ」
「お、おうめちゃん?」
「おや。そう呼んじゃいけないかい?」
「い、いや……」
 日頃、皆から「お嬢さん」或いは「うめ殿」と呼ばれているのしか聞いていないから、「おうめちゃん」などと言われると、別人の話をされているみたいな……ハッキリ言って、その辺の町娘の話をされているような、妙な気分になってしまう。
「いけないわけじゃないけど……誰も、そんな呼び方しないから」
「同じこと言うねえ」
「え?」
「いや、こっちの話。で、それからどうしたの、坊や。八幡様まで戻ってみたの?」
 私は頷き、再びぽつぽつと、話し始めた。

     ※※※

 うめ殿の姿が見えなくなった時、私がまず思ったのは、このままおめおめとひとりで道場に帰るわけには行かない、ということだった。
 このまま帰って皆に助けを求めるのは、己の無能を曝すようなものだ。それに、何より、私が悪かったのだ。つまらない腹立ちに囚われていたばかりに、彼女よりも先にすたすたと歩を進めてしまった私が。
 自力で、何とかして捜し出さなければならない。
 一体何処をどう捜せばいいのか、とは思ったが、立ち止まって考えていても始まらないと、私は、うめ殿がその辺の露店に立ち寄っていないか、ひょっとしたら水茶屋の店先ででも休んでいないか、と片っ端から覗いて回りながら、来た道を引き返した。
 けれども、彼女の姿は何処にも見当たらず、気付いた時には富岡八幡の近くまで戻ってきてしまっていた。
 黄昏時が近付いていた。
 秋の日は釣瓶落としである。一旦暗くなり始めたら、一気に暮れてしまう。
 辺りが暗くなってしまっては、人捜しは尚のこと困難になる。
 きっと、うめ殿も、追い付けずに姿を見失ってしまった私を捜しているだろう。なのに何処でも出会えなかったということは、うめ殿は既にひとりで道場に戻っているか……或いは……
 最悪の想像が、私の胸を苛んだ。
 見目の好い子供が白昼堂々拐かしに遭って、上方へ売られてしまうということだって、あると聞く。
 もしも、うめ殿の身の上にそんなことが降り掛かりでもしていたら、百回腹を捌いても申し訳が立たない。
 その時になって初めて私は、自分ひとりで捜そうなどと考えず、すぐに他の門人達に知らせて総出で捜してもらうべきだったのだ、ということに思い至った。
(それを……私が、つまらない見栄を張ったばっかりに……)
 ひとりで捜そうとしたのは、師や兄弟子達から無能者とは思われたくない、責められたくないという見栄からだった。なに、すぐに見付かるさと、心の何処かで高を括っていた部分もあった。
 だが、そんな甘い考えが、最悪の事態を招いてしまったのなら、すぐに適切な対処が出来なかった私は、無能者どころか、とんでもない愚か者ではないか。
 己の余りの浅はかさに泣き出しそうな思いで青ざめながら、しかし私は歯を食い縛った。諦めてなるものか。全ての手を尽くしたわけではない。
 そう思った時だった。
 雑踏のざわめきの中で、女の子の泣き声が耳に届いた。
 私は、はっとなって振り返った。
 年の頃十二、三の泣きじゃくる童女と、その手を引きずるようにして路地へ引き込もうとしている、如何にも性質《たち》の悪そうな男どもの姿が、目に飛び込んだ。

 ……私は、相当に、どうかしていたに違いない。

 ちょっと見直せば、只の町方の娘だと風体から容易に知れる童女だったのに、気が付いた時には体が勝手に動いていた。
『放せ!』
 自分でも吃驚するような怒声が、喉も裂けよとばかり迸った。雑踏のざわめきが遠くなり、駆け寄る視野が一挙に狭窄した。
 邪魔されるなど予想もしていなかったらしく不意を衝かれて驚いている相手の手首に手刀を叩き込み、童女の手を引き剥がす。そのまま素早く飛び離れ、油断なく相手と間合を取る。
『なに、しやがる──』
 やっと事態が飲み込めたらしい男どもが殺気立つ。
『黙れ、人攫い。伊東家のお嬢さんに不埒な真似をすれば、容赦なく斬り捨てる』
『はあぁ? 何がお嬢さんだ、寝惚けやがって! その子が迷子になったってんで、親ンとこへ連れてってやろうとしてただけじゃねえかっ』
『……え?』
 気を殺がれ、自分が引き戻した童女を見直す。……うめ殿とは、着ているものすら似ても似つかぬ、全くの別人だった。
『そら、人違いだろ?』
『誰と間違えたかは知らねえが、御免なさいと謝って、とっとと大事なお嬢さんとやらを捜しに行きな』
『もたもたしてたら、それこそどっかで人攫いに拐かされちまうぜ』
 私が流石に困惑して立ち尽くしたその時、周囲の群衆の中から、誰とも知れぬ女の声が飛んできた。
『騙されちゃ駄目だよ、お侍さん! そいつら、お不動さんや八幡様の縁日になるとこの辺をうろついちャアちっちゃな子を拐かそうとして回ってる、破落戸《ごろつき》どもだよ!』
『──誰だ、今の!』
 猫撫で声になっていた男どもが再び殺気立ち、野次馬達を睨み回す。
 と、それまで男どもの後ろで手を拱いて何気ない様子で佇んでいた浪人風体の男が、ふらりと私の方へ寄ってきた。
 相手の目に潜む底の浅い危険な光を感じ取って反射的に鯉口に手を掛けた時、泣きじゃくり続けていた童女が、ひっく、と引き攣ったような声を洩らして泣きやみ、私の右腰にしがみついた。
 ……本当に彼らが親切心で何かしようとしていたのなら、子供がこんなに怯える筈がない。
 行きがかり上とは言え、このまま立ち去るわけには行かなかった。
『……抜く気かい、若造』
『……無闇に抜刀するなと言われてはいますが、万やむを得なければ』
『まあ、この状況で尻尾を巻いて逃げるなんてのは、余程の腰抜けでもない限り無理だろうな。……可惜若い命を落としたな、若造』
『……貴公こそ』
『強がるのはやめておけ。人を斬ったこともない生白い青二才のくせに』
 鼻で笑う相手に向け、私は、皮肉に見えるだろう笑みを返した。
『……何だ、見掛けの割に、大したこともない御仁でしたか』
『なに?』
『自らの対する相手が人を斬ったことがあるかないかも見抜けないようでは大したこともない御仁だなと申し上げたのですよ』
 相手の唇から笑みが消え、白目の多い目が底浅で物騒な光を強める。低い唸り声と共に、刀の柄に手が掛かった。
『ほざけ、若造』
『──御免、下がって』
 私は、右手で、童女の頭を軽く叩くように撫でた。腰にしがみつかれていては、立ち回りなど出来ない。巻き込むわけには行かなかった。
 しかし、相手は、そんなことなどお構いなしだった。抜刀したかと思うと、何かに憑かれたように、雄叫びあげて突っ込んできた。
 やむなく私は、童女を抱えて跳び退った。不思議なほど相手の太刀筋は見えていて、かわすのは簡単だった。が、相手は妙に執拗だった。かわされても、かわされても、何とか間合を取ろうとする私に追い縋り、刀を振り下ろしてきた。
 私が挑発めいたことを口にしたのが拙かったのかもしれない。
 間合を──取らなければ。
 この距離で刀を抜いてしまえば、抜き打ちになる。抜き打ちでは、峰に返せない──少なくとも今の私には、この至近距離で抜いて相手を傷付けずに済ませられるだけの技量はない。けれども、このままこの童女を庇っていたのでは、間合を取る為の行動にも出られない。
 それに、他の連中の動きも気になる。下手に童女を後ろに遣っては、目の前の浪人に気を取られている間に連れ去られてしまう。そんな羽目になりでもしたら、それこそ、何の為に奮闘したのかということになる。
 私は、何度目かの太刀をかわしながら、素早く野次馬達の中に目を走らせた。
 そして、他の連中が、近付こうにも近付けないでいるのを見て取った。
(──そうか)
 つまりは、用心棒だか何だか知れないこの浪人がぶんぶん刀を振り回しているものだから、危なっかしくて近寄れないのだ。
 そうとわかれば、こっちのものだ。
 私は、離すまじと私の腰にしがみついたままの童女を無理強いに背後へ回し、両手を空けた。
『下がって!』
 鋭く叫びながら、しつこく迫ってきた相手の懐に躍り込む。躍り込みざま鯉口を切り、右拳を相手の腹に叩き込む。
 ……いや、実は鳩尾《みぞおち》を狙ったのだが、そこはやはり余裕の乏しさが災いして、狙いが外れてしまったのだ。
 けれど、最悪でも相手との間合を取る時を稼ぎたかった私の目算だけは、何とか外されずに済んだ。相手はぐふっと言って後ろによろめき、踏鞴《たたら》を踏んだ。その貴重な時の間に私は、相手との距離を取り、腰の長刀を抜き放っていた。
 野次馬達が、やんやの喝采で沸き返る。
 だが、こちらはそれをどうこう思うゆとりはなかった。相手の太刀筋が見えると言ったって、真剣同士での立ち合いは殆ど経験がない。人を斬ったことがあると言ったって、昨年の上府の道中、野宿の折に賊に遭い、身を守る為に夢中で相手を手に掛けた、その一度きりだ。
 どんな達人でも、一瞬の油断が致命傷に繋がる。ましてや、実戦経験の乏しい私では尚更のこと。
 それでも、後には引けなかった。一度刀を抜いてしまったからには、相手を地に倒すまで、鞘に収めるわけには行かぬ。──無論、相手を殺傷する気は毛頭なく、峰打ちにするつもりではいるのだが。
 しかし、私が腰を据え、己の大刀を下段に構えた時であった。
『──大蔵さま! 斬ってはなりませぬ!』
 聞き間違えようのない声が、耳を打った。
 私は一瞬呆け、そして慌てて、声のした方を見た。
 うめ殿だった。
 うめ殿が、今にも泣き出しそうな顔で、野次馬達の最前列に飛び出してきた。
(──馬鹿!)
 危ないから下がっていろ、と叫ぼうとした私の頭上に、勝ち誇ったような笑いが降ってきた。
『間抜け! 他所見をするな!』
 風。
 初めて人を斬った時も、この風を感じた。
 相手の刀が纏う風。
 そして──応じて繰り出す己の刀が纏う風。
 明白な殺気を受けて、体が動いた。
『大蔵さま!』
『──斬らぬ!』
 気合のように、私は叫び返した。
 そして、相手の急所に刀を叩き込んだ。
 ──但し、柄頭を。
 今度は、外さなかった。咄嗟の間《かん》だったのに、さっきよりも相手の動きがよく見えていた。身を沈めて相手の太刀を外しざま斜め上方に飛び込み、抉るような勢いで相手の鳩尾に柄頭を打ち込んでいた。夢中で、と言うよりはもっと冷静に、しかし脳裡の何処かが白く弾けるような感覚を味わいながら。

     ※※※

「……で、相手を見事に伸しちゃったんだね」
 橘は、ふっと息をついて、それから、思い出したように微笑んだ。
「他の破落戸どもは、どうしたの?」
「逃げた」
 ややぶっきらぼうに聞こえるだろう口調で、私は答えた。……本当に、呆気なかった。他の連中は、私の一撃で浪人が倒れたのを見るや否や、敵《かたき》を取ろうともせず一目散に遁走してしまったのだ。
「良かったじゃない。破れかぶれで一遍に襲いかかられてたら、逆に危なかったかもしれないよ」
「……先生と同じことを言うんだな、橘は」
「あら、そう? お師匠さんには? 怒られたのかい?」
「……下手に変な噂になる前に話しておかないと拙いと思ったから、ちゃんと話したよ。五日の禁足を言い渡されたけど、それ以上にはお咎めなしだった」
「おうめちゃんは?」
「……今日、やっと、禁足が解けた」
「あれま、ひと月も禁足? 騒ぎを起こした大蔵坊やより重罪扱いじゃないか。そりゃまたどうして」
「……姿を消していた間に何処にいたのか、全然、先生に話そうとしなかったから……それでとうとう先生が怒ってしまわれて、話すまで禁足、って」
「じゃあ、やっと話してくれたんだ?」
 私は苦笑してかぶりを振った。
「いや、先生が根負けされたんだ。頭を抱えていらっしゃったよ。普段は聞き分けが良くて素直なんだけど、一旦強情を張り始めると、絶対に我を曲げようとしないんだって」
「大蔵坊やは、訊いてみなかったのかい」
「そんな……いなくなってしまって御免なさい、と先に言われて頭を下げられたら、もう何も訊けないよ。先生のお嬢さんなのに」
「……そこでちゃんと訊けば話してくれたかもしれないよ。奥ゆかしいねえ、坊やは。それとも、変なところで鈍いのかねえ」
 橘は、ため息をつくような笑いを洩らした。
「ま、変な勘違いを仕出かす男よりマシか、って感じだけど。……そう言えば、迷子の娘さんは? 親は見付かったのかい?」
「うん。騒ぎのおかげで、幸か不幸か人が寄ったから……娘さんの方は、隠れんぼしよう、お母さんが鬼ね、って言ったのに見付けてくれなかったの、って泣いてたけど、親の方は娘が急にいなくなったんで、必死で捜してたんだって」
「そっか、良かったね」
 橘は、微妙なかげりの潜む笑みを見せた。喜んでいるのか、そうでないのかと、一瞬、こちらが惑うような。
「……どうしたの、橘?」
「ん? 何が」
「いや……何か、言ってるほどには『良かった』って感じに聞こえなかったから」
「……変なところで鋭いんだよねえ、坊やは」
 彼女は苦笑しながら、襟足に手をやった。
「……私の父親はね、捜してくれなかったんだよ。こっちは精一杯、隠れんぼすれば捜してくれると思ってたんだけど、父親には通じなかったんだねえ」
 日々の糧にも事欠くくらい、暮らしが苦しかったからね、と呟いて、さらっと、彼女は笑った。
「私を道連れに死のうと思って連れ出したことは、幼心にわかってたよ。でも、死んでほしくなかったし、死にたくなかったからね。大川のほとりまで来た時に、手を振りほどいて、隠れんぼしよう、父上が鬼ね、って走って逃げたんだ」
 何処か遠くを見るような目をして淡々と語る橘を、私は、返す言葉も覚えず見つめた。勿論、初めて聞く話だった。橘が自分の身の上話をすることなんて、今迄にはなかったから。訊いてみても、「昔は昔さ、野暮はおよしよ」と笑ってはぐらかすのが常だったのだ。……もしかして、橘は、元は武家の娘だったのだろうか。「父上」なんて、この深川界隈の町娘が使う言葉ではないような気がする。そう言えば、「橘」という名前だって、本名かどうかは確かめたことはないが、何処となく、武家の香りがしないでもない。
 橘は、私の視線に気付いたらしく、悪戯っぽい表情を見せた。
「……あら。大蔵坊や、駄目だよ、遊女の身の上話なんて本気にしちゃ。一々信じてたら、ころっと騙されちゃうよ。何でも話半分に聞いておかないとね」
 私は静かにかぶりを振ると、手を伸ばして相手を抱き寄せた。
「いいよ。橘からなら、騙されても」
「……馬鹿だねえ」
「馬鹿でいい。……嘘か真かの見分けぐらい、自分で付ける」
 言って、私は、橘の唇を封じた。もうそれ以上何も言わなくていいから、という気持ちを込めて。

「……明日は、当番は大丈夫なの?」
 褥に起き上がり、背中の汗を拭ってくれながら、ふと、橘がそんなことを尋ねた。
「何の?」
 咄嗟に何のことだかわからず反問した後で、思い当たった。……うめ殿のお供をする当番のことだ。さっき、そういう話をしたのだった。
「もしかして、うめ殿の?」
「他にもあるのかい? 当番で回ってくるお役目って」
「うん……賄いの手伝いとか、厩の掃除とか、色々。でも、別に先生の言い付けでやってるわけじゃないんだけど」
 衣食住を丸抱えしてもらっている身なのだから、せめてそのくらいはせねば罰が当たる……と、口には出さないが、我々内弟子は皆、思っている。ただ、うめ殿のお供だけは、ひとり娘のひとり歩きを心配する先生が、悪いが目を離さないでやってくれと我々に頼んでいることなのだが。
「うめ殿は今日が禁足明けだったから、私に当番が回ってくるのは、また暫く先だよ。……どうして?」
「そりゃあ、もし明日が当番の日だったら、朝帰りしたんじゃ、おうめちゃんの機嫌がまた悪くなるからさ」
「……あれは……私の朝帰り云々よりも、伊東先生が常日頃から高く評価している筈の弟子が、日々の稽古や勉学を疎かにしているように思えたから、快く思わなかったというだけで……」
「おうめちゃんが、そう言ったの?」
「だって、あの時には、そう言ってたも同然だし……それ以外、考えられないから」
 橘は、大仰なため息をついた。
「鈍くて気付かないんだか、気付かない振りをしてるんだか。後者だとしたら、坊やもなかなか、食えないねぇ」
「気付くって……何を」
「私なんか、すぐにわかっちまったけどねえ。私に向けてくる目を見ただけで、ああ、これが大蔵坊やのいつも話してる、お師匠さんのひとり娘さんだね、って」
「……は?」
 私は、耳を疑った。
「橘……うめ殿に会ったことあるの?」
「あるよ。一度だけ」
 けろりとして、橘は応じた。
「さっき坊やが座ってたお座布団ね、ひと月前に、おうめちゃんが座ってたお座布団」
「──ええッ!?」
 文字通り、飛び上がりそうになった。
 ひと月前……ひと月前ということは、うめ殿が姿を消した、あの時のことなのか?
「な……な、何で? 何で此処に、うめ殿が?」
「このお座敷じゃないよ。お座布団の話だよ。……坊やが来たっていうんで、急いで私の部屋から持ってきてもらったんだけどね」
 くすくすと笑いながら、橘は、私の頬を指で軽く突いた。
「まさか……橘を訪ねてきたとか?」
「おや。どうしてそう思うの」
「いや……だって、いなくなる前に、私が、橘の名前を、口に出したから……それで、もしかして、うちの道場の弟子を誑《たぶら》かさないでください、とか何とか、直訴しに……」
「……そういう所まですぐに考えが回るのに、どうして、おうめちゃんの本心には気付かないかなぁ、坊やは。……気付いてて気付かない振りをしてるのかしらねぇ、やっぱり」
 そこまで言われてしまえば、私も流石に、橘が何を仄めかしているのか、わからないでもない。
「……橘、もしかして、うめ殿が私を憎からず思っている、って言いたいの? だとしたら、それは違うと思うけど。うめ殿は、誰に対しても分け隔てなく接するし、依怙贔屓もしないし……」
「ふーん……分け隔てないの?」
「ないよ。誰に対しても、下の名前に『さん』を付けて呼ぶし、節度を守って話し掛けるし、私達がお供をする時でも、どちらか一方に馴れ馴れしくしたり、逆に邪慳にしたりしないよう、気を付けてるみたいだし」
「……坊やったら、そこまでしっかり見て取ってるくせに、今一歩、踏み込みが甘いんだよねえ」
 橘の嘆息は、これで何度目だろう。
「教えておくけど、おうめちゃん、私の前では、坊やのことを一度も『大蔵さん』なんて言わなかったよ」
「……え?」
「ずーっと、『大蔵さま』って、呼んでたよ。……だから、他のお弟子さん達のことも『さま』付けで呼んでるのかと思ったけど、坊やの話を聞く限りじゃ、違うんだね」
 私は、思い出していた。
 確かにあの時、今にも私があの浪人と斬り結ぼうとしていたところへ飛び出してきた時、うめ殿は、『大蔵さま』と叫んだ。……でも、あの時だけだ。道場に戻ってから今迄、一度もそんな呼ばれ方はしていない。だから、気にも留《と》めていなかった。
「贔屓しちゃいけない、みんなに分け隔てなくしなきゃいけない、って気を付けるのは、よっぽど気を付けておかないと、つい贔屓しちゃいそうになるからだよ。誰のことも何とも思ってなけりゃ、気を付けなきゃならないことなんて少しもありゃしないよ。違うかい?」
「……だとしても、贔屓したい相手が私だなんて、考えられない」
「どうして」
「考えてはいけないことだから。……私は、只の内弟子に過ぎない。先生の御息女を不埒な目で見るなんて、考えただけで罰が当たる。私を内弟子に迎え入れてくださった先生の御恩に、仇で報いるようなものだ」
 私は、低く呟いた。そして、橘の手から手拭いを引き取ると、額や頬や喉を叩くようにして、汗を拭いた。
「そもそも、うめ殿だって、私に限らず、誰からだって、そんな目で見られては迷惑に思う筈だよ。誰が想いを寄せてくれたところで、いずれは婿を取らなきゃならないんだし。……私だって、腐っても鈴木家の当主なんだから、いずれは嫁を取らなきゃならない。……一旦武門の家に生まれたら、男も女も、好きな相手と夫婦《めおと》になるなんて、土台、無理な話なんだ」
「……何だか言ってることが段々無茶苦茶になってきたよ、大蔵坊や」
 橘は、苦笑しながら私の正面に回った。
「お武家さんは何かと面倒だねえ。……単刀直入に訊くけど、おうめちゃんのこと、好きかい?」
 私は即答を避け、暫く無言で汗を拭い続けた。橘は、そんな私を問い詰めようとはせず、ただ、じいっと、私の顔を見つめ続けた。
「……嫌いじゃないけど、惚れたとか腫れたとか、そんな深刻なものじゃない」
「そうは見えないけどねえ」
「何処が」
「日頃の坊やの言葉と態度さ。うめ殿はあの幼さなのに気丈で賢くて思い遣り深くて控えめで云々、婿の座を狙ってお嬢さんに取り入ろうとする兄弟子を見ているとその浅ましさに反吐が出そうになる云々……おうめちゃんのことを喋ってる時の坊やの目の、いつも生き生きとしてることと来たら。どう見ても、私はお嬢さんのことが愛しくてたまらない、他の男になんか渡したくない、って大声で言ってるようにしか思えないんだけどねえ」
 私は動揺した。自分がそんなことを橘の前で話したことがあるなど、覚えてもいなかったのだ。──話したことを一々記憶していない、ということは、覚えていられないほどに何気なく洩らしたということに他ならない。
 よもや、普段から私は、そんな風に、誰の前でも軽々しく、うめ殿のことを口にしているのだろうか。
「……安心おし。この橘さんの前だから、坊やも安心して、気楽に話してくれたんだろうからね。大丈夫、おうめちゃんは全然、坊やの気持ちには気付いてないみたいだから」
 軽くなだめるような口調で言われて、私はほっと息をついた。橘には、私が何を懸念しているかなど、簡単に見透かされてしまうのだ。
 私は気を取り直し、さっきからずっと気になっていたことを口にした。
「……あの……うめ殿と、何を話したの?」
「あ、それは内緒。女同士の約束で、それはお互いに内緒にしようってね。悪いけど、男連中には到底聞かせられないような話も、色々したからねえ」
「……ひどいな」
「女同士だから出来る話ってのも、あるんだよ。坊や達にだって、男同士なら出来る話があるだろ。それと同じさ。……なかなか綺麗な娘さんだね、おうめちゃん。まだ十三なのに、随分としっかり者で、でも、ちゃんと年齢相応の可愛らしさが愛おしくってね。坊やが惚れるのも無理ないなと思ったよ、正直」
「……私は、橘が好きなんだ」
 半ばむくれ気味に、私は呟いた。
「うめ殿に向かう気持ちは、惚れた腫れたとは違う。橘が好きだ、と思う時の気持ちとは全然違う」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、人を好きになる気持ちってのは、ひとつじゃないからね。……うん、坊やの言葉は嘘じゃない。でも、今は嘘じゃない、というだけのこと。哀しいけど、時間が経てば、人の心は変わるんだよ。今は大好きだと思う相手が、十年後には嫌いになっているかもしれない。嫌いにならなくても、違う相手のことを、もっともっと好きになっているかもしれない。……今の坊やには考えられないかもしれないけど、本当に、先の自分の心なんて、わかんないものなんだよ。私は、色んな男を見てきたからね。……極端な話をひとつ、してあげようか。今も私の所へは通ってくれる客なんだけど、三十過ぎて突然、男に惚れちゃってねえ」
「……男に?」
「そ。陰間でも何でもない、同輩なんだって」
「……その道の好き者?」
「全然。だって、私の所だけじゃなく、前は他所の岡場所へも通ってたくらいだよ」
「いや……相手が、そっちの……」
「ないない。だから、大変なんだ。自分はそっちの道を全く知らないから、その道の作法も何もわからない。相手にだってその道の好みがないらしいから、好きでたまらないんだけど、無理には想いを遂げられないってんで、そりゃあもう、見てて痛々しいよ。私の所へ未だに通うのだって、他には打ち明け話の出来る相手がいないから、だしね」
 橘には、確かに、色々と込み入った打ち明け話や人前ではこぼせない愚痴を聞いてもらいたくなってしまう、奇妙な魅力がある。褥を共にしなくてもいい、ただ一緒に飲み食いして話をするだけでもいい、と贔屓にしている男も、存外多いらしいのだ。
「……橘、手ほどきしてやらないの?」
 私は小さく呟いた。
「ああすればいいとか、こうすればいいとか……よく知ってるのに」
 呟いてから、私は赤面した。知り合ってから一年近く、橘とは色々なことがあった。……此処だけの話、話の流れと勢いから、何事も勉強だよなどと上手に丸め込まれて、余り人には言えないような教えを受けてしまったことだって、ないではないのだ。
「あれは坊や相手だから出来たんだよ。無理に想いを遂げるなんて出来ないって悩んでる相手にそんな手ほどきしたんじゃ、却って酷いじゃないか」
「……じゃあ、私にあんなことをしたのは、面白がってただけ?」
「坊や、筋がいいから。教え甲斐がある相手だとね、教える方も嬉しくなって、ついつい、あれもこれもと欲張って、熱がこもっちまうもんさ」
「……勘違いされないようにハッキリ言っておくけど、私は、橘だったから、悪くないって思ったんだからね。他の、その、男だったら、断固、拒否するから」
「有難き幸せにござんす」
 ふふふと笑って、橘は、むくれていた私の脇腹をちょんと小突いた。
「でもね……そいつだって、坊や並には、自分が男に惚れるなんてあり得ない……って思ってた男なんだから。ただ、そいつに言わせると、『男に惚れたんじゃない』って。『その相手に惚れたんだ』って。それがたまたま男だったっていうだけなんだって。……その時まで、全っ然、その道の好みなんてなかった男なんだよ。それが突然、男相手に恋に落ちちまった。……そういうことだって、世の中にはあるんだ。だから、今の自分が知ってる想いだけが世の中の色恋の全てだなんて思わない方がいい。この先、どんな相手と出会うか、何が起こるか、わからないんだから」
 素直には頷けない気分だったが、いつまでも「そんなことはない、私には橘が一番なんだ」と言い張るのも子供じみている気がして、私は、反論しなかった。
「……ま、だけど、今は私が一番なんだって折角坊やが言ってくれるんだ、素直に喜んでおくよ。おうめちゃんには悪いけどね。……ふたりきりで、話をしたこと、ある?」
「うめ殿と? ……ないよ」
「じゃあ、この間が初めてだったんだ」
「え? ……うん、そう言われれば、そうだ」
「だったら、努力して、ふたりきりで話をする機会を作ってごらん。そうしたら、色々と気付けることもあると思うよ」
「そんなの駄目だよ。そんな、下手をしたら妙な噂が立ってしまうような軽率な真似は出来ない。私が後ろ指を指されるだけならまだしも、うめ殿に変な噂が立ってしまったら、申し訳ない」
「……ほんッとに面倒だねえ、お武家さまは!」
 橘はまたしても、呆れ果てたような嘆息を洩らした。
「じゃあ、私と約束してちょうだいな。明日、ほんのちょっとだけでいいから、おうめちゃんと話をするって。勿論、誰も見ていない所でね。はい、指切りげんまん」

 ……そんなことを無理矢理約束させられても、途方に暮れるだけだった。
 結局、翌朝道場へ戻ってから、その日が暮れるまで、私は、うめ殿と話をするどころか、顔を合わせることすらしなかった。
 むしろ、意図的に、顔を合わせてしまうのを避けるように振る舞ったほどだった。
 日暮れまでの稽古が終わっても、夕餉の席に出向かず、ひとり稽古場に残り、木刀を手に、素振りを続けた。百回までは数えていたが、そこから先は、数えるのをやめた。回数を重ねたいわけではなかった。草臥れ果てて何も考えられなくなるまで、ひたすらに、体を苛めたかった。いつの間にか滴り落ちた汗で出来た汗だまりに足を取られて滑るようになっても、足の力が続く限りと踏み留まった。
 どうにもこうにも踏ん張れなくなってしまってようやく、私は、素振りをやめた。
 そして、稽古場の床に、ぱたりと仰向けに引っくり返った。
 目を閉じて、全身の力を抜く。
 体は指先の果てまでくたくたになっていたが、奇妙な充実感があった。秋も半ばを過ぎ、時として肌寒いほどの風も、存分に汗を流した肌には心地好かった。息は情けないほどに荒く乱れていたが、貪る空気は爽やかに甘かった。

 ……いや……

 この香りは……?

 はっと目を開くと、既に月闇に慣れていた目に、うめ殿の顔が映った。
 不安に震える表情が、余りにも間近から、私を覗き込んでいた。
 使い古した襤褸布のようになっていた筈の体の何処に力が残っていたのかと思うほどの素早さで、私は跳ね起きた。どうして今こんな所に彼女が、と心底驚き、へたっていたくせに咄嗟に見栄を張ってしまったからであったのだが、彼女の方も私に不意を衝かれる恰好になって吃驚したのか、息を呑むような小さな声と共に、ぺたっと尻餅を突いてしまった。
「──だ、大丈夫ですか」
「お……大蔵さまこそ……」
「私は、大丈夫です……別に、疲れて動けなくなったわけでは、ないですから……」
 うめ殿は、後ろに突いていた両手をはっと思い出したように床から離し、急いで膝を揃えて座り直した。それを見て私も、慌てて座り直そうとして──
 ──諦めた。
 急に、体裁を繕うのが虚しくなった。何だか、自分がひどくつまらない次元でうろうろしているような気がして、たまらなくなった。
 ありのままで、いい。
 みっともない姿かもしれないが、この場だけ、この時だけのことだ。
 私は再び、ぱたりと大の字に寝転がった。そして、目を閉じた。
「……こうしていると、気持ちがいいのです」
 問わず語りに、私は言った。
「体をとことんまで苛め抜いて、こうして、何もかも投げ出すようにして寝転がっていると、体の中から、要らないものだけがすーっと抜けていくような気がするのです」
「要らないもの……?」
「雑念や……煩悩や……その他の、色んな……下らない心が」
 返事は、なかった。
 けれども、仄かな香りが、彼女がまだそこにいることを教えてくれていた。
「……私は……まだまだ、未熟者です。だからこうして……鍛練を重ねています。……私は……一日でも早く、国事に力を尽くすことの出来る武士《もののふ》となりたい。ですから……時に立ち止まって、こうして、ひと息ついて休むことはあっても……花の色香に惑うことは、ありません。……不甲斐ない弟子よと先生を落胆させるような真似は、決して、致しません。それだけは、信じていただきたい」
「……はい」
「あと……それから、私のことを、どうして突然、『大蔵さま』などと? 他の者が聞いたら、何事かと思いましょう。お控えいただけませんか」
「……御迷惑、でしょうか」
「私は別に……ですが、周りの者が、うめ殿のお心に、あらぬ勘繰りを向けかねません」
「……私は、二度、大蔵さまに助けていただきました」
 うめ殿の声は、思いの外《ほか》に、しっかりとしていた。
「二度……?」
 私は内心で首をかしげた。一度目はわかる。多分、昨年の夏、永代橋の袂で初めて出会った時のことだ。あの時、上府してきたばかりだった私は、彼女が気丈にも狼藉者どもに立ち向かおうとしていたのを見かねて間に割って入り、先方から斬り掛かられたこともあって、狼藉者をひとり残らず峰打ちで地に這わせたのだ。……だが、二度目は、いつのことだろう。
「大蔵さまが、あの時、拐かされそうになっていた娘を庇ったのも、私だと早とちりなさったからだと人伝に伺いました」
「え……いや……しかしあれは……二度目と数えられるようなものでは……」
「いいえ。あれは、本当は、私になっていたかもしれないのです。もしも橘さまが助けてくださらなかったら」
「……橘が?」
「あの界隈を、慣れない様子で訪ね歩く内に、ならず者どもに目を付けられて……追い掛け回されて、茶屋の庭先へ逃げ込んだところを、武家の男《お》の子でも斯くあらんや、と驚くほど肝の据わった態度で匿ってくださいました。……あのならず者どもは、私を捕まえ損なってしまった腹癒せに、たまたま目に付いたあの娘を拐かそうとしたのでしょう。……本当はそうではないのかもしれませんが、私は、そう思っています。……ですから、大蔵さまに助けていただいたのは、これで二度目だと思えるのです。……これまでに二度も危ないところを救ってくださった殿方に、少しだけ、他の方に向けるよりも敬意を込めた呼び方を向けるのは、それほどいけないことなのでしょうか」
 私は、思わず目を開き、まじまじと相手を見つめた。
「いや……ですが……私は何も、していないのに……」
「……では、他の方の前では、これまで通り、大蔵さんとお呼びします。それならば、宜しゅうございますか?」
「ああ……いや、その……はい」
 何だか理屈に合わない、訳のわからない無体な押し切られ方をしているような気がしたが、咄嗟には、反駁の言葉が思い付けなかった。
 体を苛め抜いたせいで頭が呆けてしまい、物がまともに考えられなくなっているのかもしれない。
 うめ殿は、短く、安堵したような息をついた。
「……橘さまは、何か、私のことをお話しになりましたか」
 ぽつりと問われて、私は苦笑した。
「ひとつだけ……私が座った座布団に、ひと月前、うめ殿が座られたと。それだけです。それ以上のことは、何も、教えてくれませんでした。お互いに何を話したかは誰にも言わない約束だからと。……橘は、そういう女なのです。確かに遊女ではありますが、信義に悖るような真似はしない。守れないとわかっている約束は絶対にしようとしませんし、一旦約束したら、誠心誠意、守り抜く」
 元々、橘に限らず、深川の芸妓娼妓は、多かれ少なかれそういう気風を持っている。吉原に意気地あれば深川に達引《たてひ》きあり、と言われるくらいだ。一旦「よし」と口にしたら、とことん意地を張り、義理を通し抜き、己の名に賭けても約束を守り抜く。
「……でも、私が橘さまを訪ねたことは、お話しになったのですね」
「それも、話してはならぬことでしたか」
「いいえ……それだけは、お互いに、大蔵さまにだけは話しましょうと、申し合わせておりました」
「私にだけ?」
「……父に正直に話せば、きっと、叱られてしまいます。お前は、何と、はしたない真似をしたのかと。ですから、話すことは出来ませんでした。……その怒りがもしも大蔵さまにまで向いてしまえば、大蔵さまが橘さまの許へ通えなくなってしまうこともあるやもしれませぬ」
 私は、またもや無躾にも、うめ殿の顔をまじろぎもせずに見つめてしまった。
「……もしかしたら、その方が、うめ殿は……私が誑かされずに済んで、良かったのではありませんか?」
「いいえ。……お会いしてみて、よくわかりました。橘さまは、むしろ、大蔵さまが間違ったことをなさろうとしたら、きちんと叱って引き留めてくださるお人です」
 ──うめ殿が、橘の為人を、認めてくれた。
 それが、私には、何故かしら、とても……知らず心がふわふわと浮き立ってしまうほどに、嬉しく思われた。
「驚くほど沢山、興味深いお話をしてくださるお人で……私の方が、随分と学ばせていただきました。……大蔵さまのことも、色々と」
「え……」
 私は一転、わずかながら表情を引き攣らせた。橘は……私の恰好悪い姿を、それこそ山のように知っている。大体、最初に逢った時からして、『嘴の黄色い子供のくせに爺むさい子』などと容赦なく切って捨てられ、散々に罵られ扱き下ろされた挙句に、駄目押しで『大人の振りしたまんま図体だけでかくなった子供ほど嫌な奴はいねぇや』と決め付けられ、みっともないほどぼろぼろに泣かされてしまったくらいなのだ。……ま、まさか、それを、うめ殿に、暴露されてしまったのではなかろうか。橘はあれで、結構な悪戯好きで、ひどい面白がりなのだ……。
「……私のことを……何と?」
 返ってくる答は橘に問い掛けた時と同じとわかっていたが、それでも私は、問わずにはいられなかった。
「御免なさい、それは、申し上げられません」
 ……ああ、やっぱり。
 私は、ため息をついて目を閉じた。
「うめ殿も……駄目ですか」
「だって、女同士の約束ですから」
 うめ殿は、ごく小さく、けれども本当に心の底から楽しそうに、ふふふ、と笑った。



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