どうして、こんな羽目になったのだか。
 俺は、苦い笑みを浮かべながら、宙吊りのケージの中で扉にもたれ、ケージのガラス面から見える遠くの山を眺めていた。
 ……いや、何と言うか……正しくは、扉にもたれて外を眺めざるを得ない状態と言うか。
 何故かと言うと、今俺は、この妙な位置で停止して久しいエレベータのケージの中で、乗り合わせた壮年女性にひし[#「ひし」に傍点]としがみつかれ、扉側に押し付けられてしまっているからだ。
(リンの奴が此処にいなくて、良かったな)
 いや、別に、リンの奴にこういう場面を見られたら拙いとか、そういう意味じゃなくて。
 純粋に、こんなトラブルに彼女を巻き込まずに済んで良かったと、そう言いたいわけで。
 第一、あいつは滅多なことじゃ焼餅を焼いてくれないと言うか何と言うか……
 ……いやその、焼餅を焼かれたいって言ってるわけじゃねえぞ。ただ、何だ、ちいっとな、たまには悋気のひとつも見せてくれよなって思うことはあって。
 とにかく、リン……俺、内藤隼人が後見役を務めている伊東倫命《いとう りんめい》の奴は、今此処にはいない。俺よりも先にこのエレベータに乗り込み、既に地上へ降りてしまっている。そもそも、そうでなければ、この小さなエレベータが展望レストランへ戻ってきて俺達を乗せられた筈がない。展望レストランまで上がれるのは、二基あるエレベータの内の一基、この直通エレベータだけなんだから。
 ……実を言うと、さっきリンと一緒に乗ろうとしたんだが、あいにく無粋な重量オーバーブザーが鳴っちまって、苦笑しつつ身を引いたわけさ。その結果がこれだから、何とも運が悪い。
「んもぉ、いい加減にしてよっ、みっともないっ」
 ガラス面に両手を当て、顔をくっつけるようにして下を覗き込んでいた娘さんが、振り返って、俺にしがみついてぶるぶる震えている御婦人に向かい、遠慮会釈のない口を利く。結構顔立ちのはっきりした、可愛いがしっかりした感じの娘さんだ。年の頃は、満で十七、八。エレベータ待ちしていた時からの会話を聞く限り、どうもこの御婦人の娘さんらしいが……御婦人はどう見ても三十代半ば、ちょっと年齢が近過ぎるようにも思えるので、断定は出来ない。
 などと考えていたら、その娘さんが俺に向かってぺこりと頭を下げた。
「済みません、母が御迷惑をおかけして」
 ん、やっぱり母娘《おやこ》か。してみると、母親が若く見えるのか、娘が大人びて見えるのか、それとも、母親が随分若い頃の子供なのか……
 ……おっと、要らぬ詮索はしないに限る。人にはそれぞれ、事情ってモンがあるからな。
「いや、別に迷惑なんてしてませんから、お気になさらず」
 サングラスの蔓を意味もなく直しながら、俺は苦笑した。相手が気心知れた人間なら、その後に「それに、俺は女性に抱き付かれるのは嫌いじゃありませんし」などと続けて、場を少しでも和ませたいところだが……初対面の人間相手では、些か気が引ける。相手の過敏さの度合によっては、「セクハラ発言だ」と気分を害するかもしれない。この手の問題は、言った側がどう思っていたかじゃなく、言われた側がどう思うかで決まってしまう側面がある。どんなにこっちがジョークのつもりであっても、向こうが「嫌だ」と思えばそれで嫌がらせになるのだ。
 おっと、話がそれちまった。
「このケージが停止して、かれこれ五分か十分……明かりも消えているから、多分停電だと思いますよ」
 本当は、非常灯も点かない上に非常用の通話装置までうんともすんとも言わないというのは気になるのだが……多少年代を感じさせる内装のケージだし、よく見れば床も埃っぽくて掃除が全く行き届いていないから、諸々のメンテナンスを長期に亙ってサボっていたということかもしれない。
「……まあ、待っていればその内に動き出すでしょう」
 俺ひとりなら、さっさと“瞬間移動”で脱出している。が、乗り合わせた相手がいては、それも出来ない。陽光の民の前で無闇に月石の民の“力”を揮うのは良くないというのが、長年の経験で得た認識だ。
 月石の民──そう、俺もリンも、一旦“陽光の民”すなわち普通の人間としての一生を終えた後に生まれ変わった、不老難死の存在である。不老、というぐらいだから、無論、外見年齢は、最初に死んだ時と変わらない。そして、陽光の民の目から見れば化物と言われても仕方ないような様々な“力”──今風に言うなら超能力を持ち、しかも滅多な怪我や病気では命を落とさない。それどころか、死んでさえも、何度かは、生き返ってしまう。
 ……ちなみに、生まれ変わってまだ年月が浅いリンの奴には、こういう時に物の役に立つような“力”はない。心配はしてくれているかもしれないが、俺を助け出す為に何かしてくれる、という類の期待は出来ない。いや……それ以前に、何しろコンミンの奴が……かつて俺が生まれ変わった時の後見役だった海千山千の男が一緒だから、「なあに、彼は殺しても死なないよ」などと宣ってさっさと連れて帰ってしまっている可能性が……否定出来ねえぞ、畜生。
「そそそそれまでに落ちたらどうしましょう〜」
 俺にしがみ付いている御婦人が、半泣きで訴える。……十中八九、高所恐怖症って奴なんだろう。このビルの最上階の展望レストランから下りエレベータに乗った時も、絶対に外を見ようとしなかったしな。
「どうしましょうって、どうしようもないじゃないっ。もうっ、いつもはのほほーんとしてのーてんきなくせに、こういう時だけ悪い方にばっか考えるんだからっ。こーんなふっといワイヤーが、そう簡単にぶっちぎれるわけないでしょっ。三人しか乗ってないのにっ」
 娘さんは、ケージから見える隣のエレベータのワイヤーを指差す。……隣も、動いていない。ということは、隣にも、俺達のように閉じ込められた不幸な客はいるってことか。
「大体、たまたま一緒になった人にしがみついてきゃあきゃあ騒いでべそかいてっ。慎みとか嗜みって単語は母さんの辞書にはないの?」
「ふ、ふんっ、な、何よ有希っ。ま、まだ彼氏のひとりもいないくせに偉そうにっ。あ、あたしがあんたの年の頃にはもうあんたを生んでたんだからねっ」
「そんなの自慢になるもんかいっ。あんたがとろくさかっただけでしょうがっ。出来ちゃった上に逃げられたんだからっ」
 ……おいお〜い。
 割り込んでいいものかどうかと苦笑いしながら、俺は天を仰いだ。まあ、此処までお互いにずけずけ言い合えるということは、仲の好い母娘なんだろう。お互い何処までなら言ってもいいかがわかっている間柄でなければ、喧嘩も出来ない。
 とは言うものの、見ず知らずの他人の前でする言い合いではないような。
 俺は殊更に咳払いをして、母娘の注意を喚起した。
「……確かにどうしようもありませんが、まあ、重力に任せて急降下する航空機の中は何十秒か無重力になると言いますし、そんなに叩きつけられることもないでしょう」
 現実このケージが落下するようなことになったら、その時は無論、気付かれないように“力”を使って最後の衝撃を和らげようとは考えている。が、そんなことをぺらぺら喋るわけにも行かないので、うろ覚えの怪しげな知識を持ち出したわけだ。
「あ、弾道飛行ですね。でも、あれ、確か、何万フィートも上空から急降下しないといけなかったような」
 げげっ。この娘さん、俺より詳しそうだ。迂闊な知ったかぶりは禁物だぞ。
「ええ、まあ。でも、エレベータのケージで普通に下る時も、体が軽くなるような感じがしますしね。重力任せの垂直落下なら、少しは無重力に近くなると思いますよ」
「うーん、そう言えばそうですね。そっか、遊園地のフリーフォールみたいなもんかあ」
 娘さん、納得したように笑った。ふー。助かった。
 と思った、次の瞬間だった。
 その娘さんが頓狂な悲鳴をあげて飛び上がり、母親にしがみついた。飛びつかれた母親も、吃驚したような声をあげる。
「な、な、何よ有希ったらっ」
「いっ、いやーっ、出たのーっ!」
 何が出たんだ、と思ったら、母親の方も娘に負けない悲鳴をあげた。
「いや〜っ、そんならこっち来ないでよ馬鹿〜っ、こっちに来るじゃないの〜っっ!」
 だから何が……
 ……あ。
 ケージの隅に積んだ埃の間から、平べったくて黒茶色の、小さな虫がお出ましだ。戸惑ったように触角を動かして、辺りの空気を探っている。……結構羽がつやつやしてるから、きっと、餌がいいんだろう。さっきの展望レストランに棲息しているのかもしれない。何かの間違いでうっかりこのケージに閉じ込められた、俺達と同じ犠牲者と見える。
 などと呑気なことを言っている場合でもなかった。少壮の御婦人だけならともかく、若い娘さんからまで間接的に、ケージの扉にぎゅうぎゅうに押し付けられているのだ。ちょ……ちょっと……息が苦しいぞ、俺でも。
 し、仕方ない。些か危険だが、ゴキブリ閣下には早急に脱出いただくとしよう。失礼ながら、おふた方ともパニックに陥っているから、俺がちょっとぐらい“力”を使っても気付くまい。
 俺は、うろうろし始めたゴキブリ閣下に視線を定め、さっき後にしてきた展望レストランのエレベータ乗り場に置かれていた、葉先が枯れかけた観葉植物の鉢、そのすぐ脇の床板を、脳裡に思い描いた。──そこにいるべきなのだ、目の前の小さな虫は。
 次の瞬間、その虫は消えた。
 俺は、“瞬間移動”を行使した直後の悪癖で、ふっと力を抜いた。……ぐっ、げふっ、そっ、そうだ、ふたりがかりでぎゅうぎゅうに押さえ付けられていたんだった。
「あのー……もしもし……」
 書き文字では書き表わせないが、全ての音に濁点が付いているような声で、俺はふたりに声をかけた。
「何が……起こったんですかっ……」
「ひーん、済みませーんっっ、ゴッ、ゴキブリは駄目なんです〜」
 見事なまでに、母娘の声がハモる。俺は苦笑いを浮かべようと努力し、何とかそれらしいものを作ることに成功した。
「あのう……ゴキブリって……別に……見えませんけど……?」
「えっ?」
 反応して振り返ったのは、母親の方であった。娘と違って実際には出現を目にしていない分、信じ易かったのかもしれない。その目が埃だらけの床を恐る恐る探り、そして、ほっとしたように緩んだ。
「くぉら有希っ! 何処にゴキブリがいるってのっ! 離れんかいっ!」
 此処が見晴らしの良い高所であることも失念したか、自分にしがみついている娘を叱り飛ばしながら、俺から離れる。やっと押し付けから解放されて、流石にほっと息が洩れた。
「その辺の葉っぱと見間違えたんでしょっ!」
「葉っぱなんてないもんっ、見間違えてなんかないもんっ、だっていたんだもんっ、絶対いたんだもんっ!」
 御免な、と心の中で呟きながら、俺は、辺りの気配を探った。さっき“力”を使った直後に、ほんのわずかにだが、向けられる“注視”のようなものを感じたせいだった。
 だが、探りを入れるや否や、
〈相変わらず鋭いねえ、土方君〉
 という馴染みの“声”が胸裡に響き、俺はその“注視”の相手を知った。
「コ、コンミンっ」
 うっかり声に出して呟いてしまったが、幸いにも、あの母娘はまだ出た出ないの言い合いをしていて、俺の奇妙な呟きには耳を惹かれなかったようだった。
 ……え? 何故「土方君」と呼ばれて返事をするのかって?
 うーん……昔はそういう名前だったが今は内藤隼人と名乗っている身なんだ、という程度で勘弁してくれ。コンミンの奴が「土方君」と俺の“本名”を呼ぶのだって……それを聞かれては困るような他人の目がない時だけなんだから。
〈大したことではなかったのかな。“力”を使ったようだから何か危急の事があったのかと探りを入れただけなんだけれど。……まあいい。折角君が私に気付いてくれたのだから、教えておこう。地上では、ちょっと、奇妙なことになっている〉
〈奇妙なこと?〉
〈隣のケージには客が乗っていないから、宙ぶらりんになっているのは君達だけだ。これは私も“力”を使って確かめた〉
〈はあ……いやまあ、それは不幸中の幸い、結構なことだが〉
〈そうかな?〉
 コンミンの奴の“声”が、微妙な含みを帯びる。
〈それが、地上では、どちらのケージも幸い無人だった、ということになっているのだよ〉
「なにィ?」
 覚えず洩れた声は、今度は大き過ぎたらしい。争いも終えつつあった母娘の注意を惹いてしまった。俺はその怪訝そうな視線には気付かぬ振りで、指を折り、天井に目を上げ、何事かを考えている風に装った。
〈ど、どういうこったよ、無人ってのは〉
〈言った通りだよ。ビルの管理室のモニターには、君達の姿が映っていない〉
〈んなこたァ当たり前だろッ、電源が死んで監視カメラだって動いてねえのに──〉
〈監視カメラは動いているよ。そして確かに、君達の乗っているケージの中を映し出しているというモニター映像を見ると、無人なのだよ。ちょっと“目”を伸ばして管理室を覗いてきたから、間違いない〉
 コンミンの答に、俺は一瞬絶句した。
〈……だ、だって、こっちじゃ……非常灯まで死んでるぜ……監視カメラだけ動いてる筈がねえだろうが……〉
〈ふむ。そうだとすると、映っている画像が偽物なのは間違いなさそうだね。映っている画像では、非常灯が点いている〉
〈に、偽物の画像? んなモン出して、何の得があるってんだ? 人が乗ってるか乗ってねえかなんて、エレベータが動き出して地上に着いて人が降りてくりゃ一発でバレる嘘だろうが〉
〈……でも、エレベータは一向に動かない。それは何故だと思う? 人が乗っていないから公にせず済ませてしまおうということか、いきなり点検中の札が出てしまったのだよ。だから私は変だなと思って、残って調べているのだけれど。……多分、ビル管理側の企みではないだろう。第三者の関与が疑われるね。君、もしくは君達をいないことにしてしまいたい第三者の〉
 俺は緊張した。月石の民は──俺も決して例外ではないのだが──陽光の民にはなかなか自分の正体を明かさない。だが、実のところ、陽光の民の中には、月石の民の存在を何処でどうやってか知っている奴がいるのだ。今迄にも俺は、そんな奴らに狙われたことがある。自分の欲望の為に利用しようと近付いてくる奴もいたし、気味悪がって抹殺しようとしてくる奴もいた。どっちにしたってお断わりだから、全て返り討ちにしてきたが。
〈……コンミン、リンの奴は?〉
〈ひとまず、石の宮に送ったよ。石読みの婆が呼んでいるから、ということにしてね。彼女なら、事前の連絡がなくても、私の意図を酌んでくれる。……君も、少しは自覚が出てきたのかな。リンの後見役としての〉
〈ひとこと余計なんだよ、いつもっ〉
 俺は小さくふんと鼻を鳴らしたが、ホッとしてもいた。石の宮に送られたのであれば、かなり安心出来る。石の宮というのは、“この世の何処でもない場所”にある、概ね月石の民しか入れない場所だ。仮に、俺をリンと引き離した上でリンを狙おうとしている奴がいたとしても、月石の民の手引きがなければ、石の宮までは追えない……
〈……月石の民が絡んでる、ってことはねえだろうな〉
〈私が君を鍛えるつもりで起こした事故なら、陽光の民までは巻き込まないよ〉
 ふと不安を覚えた俺の呟きに、コンミンは微苦笑混じりに応じた。自分が企んだわけではないよ、と言うと同時に、月石の民の関与の恐れを否定しない答でもあった。……幸か不幸か、月石の民は一枚岩ではない。色んな考え方の奴がいる。中には、自分の信条(などと言えるような立派なものではないと俺は唾棄しているが)ゆえに陽光の民ばかりか同じ月石の民さえをも隷属させたり殺害したりしようとする、そんな奴らまでいるのだ。
〈……君は、月石の民にとって危険な連中から気に入られ易いからねえ〉
 コンミンは、俺の思考の流れを読み取ったのか、更に苦笑気味に呟いた。
〈仕方ないね、この上は、早々に脱出したまえ。もし月石の民が相手なら、こうして対話を交わしているのも察知されかねない〉
〈だ、だけど乗り合わせた母娘がいるんだぜ?〉
〈一緒に跳びたまえ。後で、私がその人達の記憶を操作するから。今は一刻を争う。──おや、電源が戻るらしいぞ〉
 彼の言葉が終わった途端、がくん、とケージが揺れ、ケージ内の照明が復活した。そして、何事もなかったかのように下へと動き始めた。
「あ、復旧した!」
 娘さんの方が、顔を輝かせてガラスに張り付く。
〈急ぎたまえ土方君! 私の“声”を辿って!〉
 胸裡に響いた切迫した“声”に反射的に従おうとした、その時──
「あっ、母さん、ほら見て見て、下でみんなが手振ってる」
「きゃーっ、馬鹿馬鹿、放してよっ、あたしが下なんて覗けるわけないじゃないのっ!」
「えーっ、みんな心配してくれてるのに、手ぐらい振ってあげようよぉ。さっき覗いた時だって、みんな、ずーっとこっちを見上げてたんだから。はーい、牡丹も有希も無事でーす」
 地上へ向かって明るく手を振り返す娘さんの台詞に、俺はぴくりとなっていた。
 このケージには誰もいないことになっている筈ではなかったか?
 それなら、下で手を振る「みんな」など、いない筈ではないのか?
 ──俺は咄嗟に、心のチャンネルを自分からコンミンを探す方向に向け、怒鳴るように言葉を叩きつけた。
〈コンミンっ! 何処にいるッ! 聞こえたら返事をしやがれッ!〉
〈……何だい、いきなり殺気立って。私が助けに動かなかったのを根に持っているのかな?〉
 さっきまでとは打って変わった、恐ろしくのんびりとした思念波が返る。
〈無事復旧したのだから、結果オーライじゃないか。大体、リンを放ったらかしてまで君の為に動く私ではないよ〉
〈……ちっ。どーせそーなんだよな。……リンは? 石の宮に送ったのか?〉
〈何を馬鹿なことを言っている〉
 コンミンは呆れたように返してきた。
〈原因はどうあれ、状況としては、後見役たる君がリンから引き離されたようなものだ。それによって何が起こるか予断を許さない時に、代わりの護衛も付けずに目の届かない場所に送るわけがないだろう、君じゃあるまいし〉
 ……よく考えてみれば、その通りだ。
 いや、「君じゃあるまいし」は除いてだが。
 コンミンの奴は、俺よりも遙かに用心深い。自分の身かリンの身か、どちらかしか護り切れない──というほどの危機が迫っている状況にでもならない限り、如何に石の宮であっても、まだそれほど身を守る“力”を持たないリンをひとりで送り込むことはあり得ないだろう。
 ならば、たった今さっき俺に接触してきた“コンミン”は……
 俺は、唇をかみながら確信した。
 それが、コンミンの思念波を騙った何者かであったことを。
〈どうしたの?〉
〈いや……帰ったら話すよ。悪いが、そのまま、リンを頼む。あと、出来れば、下へ着いた時に、此処の監視カメラの画像を乱してくれないか〉
〈監視カメラ? そのエレベータのカメラなら、ダミーだよ〉
〈ダミー?〉
〈……おや。私よりずっと長い時間乗っていたのに、気付かなかったのかな?〉
〈うぐっ……〉
 監視カメラの画像を乱してくれと、あれほど明確に言葉にして頼んでしまった以上は、気付いてたけどわざと言ってみたんだよ、などと取り繕うことすら出来ない。
 コンミンの奴がクスッと笑う気配が伝わってきた。
〈まだまだ未熟だね、君は。……まあいい、君が企図するところはわかった。私が“瞬間移動”の目印になろう。私の思念波は捉えられるね?〉
〈……ああ〉
 頷きながら、俺は思った。あのままあの“コンミン”の思念波の指示に従って“瞬間移動”していたら、今頃、何処へ誘い込まれていたのだろう。関係のない陽光の民を伴って跳んで、そこがもし、とんでもない死地だったら……。
「……畜生、相変わらず、いけ好かねえ野郎共だな」
 俺は、自分の耳にも殆ど聞こえない声でひとりごちた。何者かという特定までは出来ないが、恐らく……という推理は出来たからだ。俺とコンミンの間柄にも通じていて、しかもコンミンの思念波を俺に疑われないほど完璧に真似ることが出来るまでにコンミンのことを知っている相手なんて、そうそう多くはない。
 偽の“コンミン”の気配は、もう、探ってみても、全くつかめなかった。企みが頓挫したことを素早く察知して、身を潜めてしまったのだろう。きっと、エレベータを停める小細工をしやがったのも、その偽者か、もしくはその仲間かの仕業だったに違いない。
 がこん、と疲れたような音を時折たてながら、エレベータは、地上に降りてゆく。
「……宜しければ、後で、食事でも。お礼がしたいので」
 安堵したように言葉を交わしている母娘に向けて、俺は、おざなりでない声でそう言った。
 ふたりが、ちょっと吃驚したように俺を見上げる。
「あの、お礼って、迷惑をかけたのは私達の方で……」
「いいえ」
 俺は低く呟き、ふっと外したくなったサングラスを、片手でゆっくりと外した。
「あなた方の気付かないところで、俺は、あなた方に助けられている。そのお礼をさせてほしい」
 母親の方が、何かに驚いたように目を円くする。
「ひ……土方さんっっ?」
 俺は、黙って微苦笑した。
 その表情と、そのひとことで、充分だったのだ。
 この少壮の御婦人が、“生前”の俺のことをよく知っているのだなと察するには。
 だから俺は、彼女がそれ以上の言葉を発する前に、人差し指を彼女の唇の前に立て、無言でかぶりを振った。
 それと同時に、ガラスの向こうに見えていた光景が一階の壁に隠れ、エレベータが地上に辿り着いた。
「……では、今夕六時、このビルの向かいにあるデパートの正面玄関前で」
 開く扉の傍らに隠れるようにして“開”ボタンを押しながら言い、母娘を先に出す。
 そこへ向けて、ビルの関係者とひと目で知れる人間達が、焦り顔で殺到してきた。どうも、この事故の被害者を、自分達にとって都合の悪い人間達──野次馬だの、ひょっとしたらマスコミだの──とは一切接触させずにこの場から連れ出したいと考えているらしい。
 俺は、簡単な“隠形”で身を隠している俺にそんな浅ましい連中が気付くよりも早く“閉”ボタンを押すと、人の目から中の様子を遮断した。
 そして、間髪れず、本物のコンミンがリンと共に待っている安全な場所へと“瞬間移動”した。
 事故の際の事情を訊かれたり住所だ名前だと詮索されたりするのは真っ平御免だったし、何より、月石の民は、そんな機会からは逃げるに限るのだ。コンミンのように陽光の民と“すり代わる”能力を持っている奴は別として、詳細につつかれれば襤褸《ぼろ》が出る程度の素性しか持っていないのが、俺達月石の民なのだから。
 食事に誘ったあの母娘からは随分と不審がられるだろうが……まあ、その程度は、構うまい。コンミンも、話の流れで迂闊に正体を明かさないよう用心しろとは言うだろうが、一度きりの食事に反対まではしない筈だ。

 月石の民は、確かに、陽光の民に自らの正体を明かすことは殆どない。
 けれど……
 時々は、謎めいた存在として彼らの前を通り過ぎたくなることがあるのだ。
 そう、月が、陽光に満ちた昼の空を駆ける時であっても、ふと気付いてくれる人間の目にはきちんと見えるように。



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