ミゼルの野に向かったマーナ軍五万の将兵の内、マーナ領まで撤退出来たのは四万二千ほどであった。
 レーナ軍との交戦中盤、ケーデル・フェグラム将軍が討たれたとの誤報がマーナ中堅武官達の間を駆け抜け、危うく総崩れになりかけたのだが、前線の視察から無事に帰還したケーデルが姿を見せて冷静に撤退を指示し、しかも自身が殿《しんがり》として二千の兵を率いてレーナ軍の追撃を阻んだことにより、誤報による混乱は最小限度で済んだのであった。
 ところが──
 マーナ領に入り、ひとまずスクラの町へと撤収した日から、ケーデルが人前に姿を見せなくなった。
「まずは、兵を充分に休めよ。デラビダへの帰還は、その後《のち》のことである」
 という命令だけは残されていたが、幾ら誰がどんな理由で訪ねていこうと、急遽借り切って宿舎とした宿の一室に籠もり、全ての面会を拒んだのである。
「申し訳ございません。何方《どなた》も通してはならぬと、こればかりはケーデル様からきつく命じられております」
 その時々で相手は異なるものの、間に立つ侍者《じしゃ》や侍女は全員が全員、そう言って頭を下げるばかりであった。
 スクラに到着して三日目の午後、遂に副将であるノブリー・ハラージュ四等将官までもが面会を断わられた、という話が洩れ伝わると、流石に諸官は眉を顰《ひそ》めた。
「此度の敗戦で、陛下にどう申し開きをするかと呻吟しているのか?」
「しかし今回の戦は元々、カレー将軍の作戦を押し付けられた結果であろう? ケーデル将軍が愧《は》じることはなかろうに」
「いやいや、それでも一時《いちじ》は占拠したゾーリング城をあっさり放棄して撤兵したのは、やはり拙《まず》かったのでは」
「早めに陛下にお知らせした方が良いのではないか? 万が一、善からぬ事を企んでいたら……」
「善からぬ事? 何だそれは。ケーデル将軍が殿《しんがり》を務めてくださったからこそ、我らどうにか八千の犠牲のみで撤収出来たのだぞ。滅多なことを言うな」
「それとこれとは別だろう、もし此度の失敗で思い詰めて謀叛に走り、レーナかキャティラに寝返られでもしたら」
「寝言を言うな! ケーデル将軍はお前とは違うのだぞ」
「なに、それは小官に対する侮辱か!」
 たった三日間の面会拒否で早くも疑心暗鬼に駆られ始めた者が、同僚と言い争った末に自身の判断で都デラビダへ一報を飛ばした。……もしもケーデルが謀叛なり逐電《ちくでん》なりを本当に考えていたとしたら、その武官の行動は危険を未然に防ぐ役目を果たしたと周囲に称揚され、後の世の歴史書にも特に名を記されることになっていただろう。が、当然ながらそのような事実は存在しなかったので、彼の名前は全く後世に伝わらず、ただ『ミディアミルド史』で「疑心に駆られて讒言《ざんげん》に等しい誣告《ぶこく》を主君に為《な》す者が居たが」とそっけなく触れられるのみに終わっている。
 ──ともあれ。
 ケーデルが誰の前にも姿を見せなくなって、四日目が来た。
 グライン・マーリは、その日の朝も、訪ねてきた武官達を同僚モーラ・カイとふたりして退散させると、溜め息と共に主の部屋へ向かった。
 宿の中でも一番上等な部屋の扉を叩き、応答を待って引き開ける。……「一番上等」とは言っても、そもそもが最高級ではないどころか“中の下”程度の宿であったから、前室だの従者の間《ま》だのといった気の利いた部屋などは付いていない。スクラへの帰還途中、ケーデルが「警護の兵を建物の中に置かず、お前達五人で凌げる広さの宿を急いで借り切れ。相場より高くても、多少町外れでも構わん。他国の手の者のみならず、マーナのジャナドゥすら近付けてはならん。その点を最も優先して選べ」と命じ、その条件に辛うじて合致した宿である。
「トミィル、交代」
「ああ」
 寝台の横で水に浸した布を絞っていたトミィル・フィンが、難しい表情で顔を上げる。
「お熱は?」
「昨夜より明らかに上がっておいでの感じだ。……繃帯《ほうたい》は替えておいた。後は頼む」
「有難う。朝食、隣の部屋に用意しておいたから」
「済まんな」
 トミィルは、絞った布を、寝台に横たわる主ケーデルの額に当ててから、グラインの方へ歩み寄った。
「……発熱の原因がわからんと、迂闊に熱冷ましの薬も使えん。やはり此処の駐留軍においでの軍医殿にお願いして診ていただく方が良いと思うのだが」
 小声で掛けられた台詞に、グラインは表情を一層らせる。
「軍医殿には絶対に知らせるなと……」
「……ジャナドゥたる身では御下命に従わねばならんのが苦しいが、それがもしもお命に関わるようなら……敢えて主命に背き奉る、という選択肢もあると思う」
「聞こえているぞ」
 飛んできたケーデルの声に、ふたりはビクッとなった。
「余計なことを考えるな。疲労が重なって熱が出ているだけだ。大人しく休んでいればその内に下がる。心配せずとも、私は、或る程度の薬学も医学も学んでいる。軍医など不要。断じて知らせてはならん」
「……はい」
 トミィルはケーデルに向き直って一礼し、退出した。
 残ったグラインは主の枕許に向かうと、額に乗せられていた布に指を触れ、表情を変えた。この布は、ついさっきトミィルが水から引き上げて当てたばかりではなかったか。到底、水で冷やされたばかりの温度ではない。水が温《ぬる》くなっているのかと盥《たらい》の中に手を浸けてみたが、まだ充分に冷たさを維持している。
 グラインは、既に生温かいどころか仄かに熱くさえなってしまっていた布を取り、水に浸けた。……間違いなく、昨夜より更に熱が上がっている。スクラに到着し、宿舎に入った直後こうして床《とこ》に就いてしまった主の容体は、どう楽観的に見ても思わしくない。それでも昨日までは、微熱と呼ぶには高い、という程度の状態を辛うじて維持していた。しかし最早、高熱と称して差し支えないだろう。



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