霜月三日の午後、篠原さん達と出先から戻ってくる途中で、丁度ひとりで屯所を出てきたばかりらしい土方と行き会った。
 ……供もなしに徒歩で出掛けるということは、公用ではない。
「壬生ですか、土方さん」
 声をかけると、会釈のみですれ違おうとしていた土方は足を止め、振り返った。無表情を装ったまなざしが、私を、次いで同志達を、さらりと舐めた。
「……休息所ですよ、伊東さん」
 一瞬後に返ってきた穏やかそうな答に、ざわりと心が騒いだ。
 ほんの幾日か前の、あの雨の日の午後から夜のことが自ずと思い出され、知らず、掌に冷たい汗がにじんだ。
 
   ※※※
 
 朝方より雨模様だった空からとうとう雨が落ちてきたのは、正午を随分と回った頃合だった。
 篠突く雨とまでは行かずとも、短い時間でかなりの雨脚になっていた。
 私は、辿り着いたその家の軒下で借り物の傘を窄《すぼ》めながら、恨めしく空を眺めた。……そもそも、今日は、運の廻《めぐ》りが余り良いとは言えなかった。此処へ来る前に立ち寄った本屋から出ると、屯所を出る時にはぱらつく程度であった雨がすっかり本降りになっており、そして、私が外に立て掛けておいた筈の傘は姿を消していた。恐らく、不心得者に持ち去られてしまったのであろう。買ったばかりの書物を濡らすのも嫌だなと往来へ出るのを躊躇《ためら》っていると、明らかに他人様《ひとさま》の物とわかるのに盗む者《もん》がおるとは世も末どすなぁとの嘆き混じりに、店の主が傘を貸してくれた……いや、借してくれたこと自体は有難かったのだが、表へ出て開いてみると若干の破れがあり、余り恰好の良いものではなかったのだ。勿論、ちょっと借りるにはこの程度が却って宜しかろうと思い直し、そのまま文句も言わずに歩き始めはしたのだけれど……いよいよ強くなる雨脚と、破れ目から落ちてくる冷たい雨水に、すっかり閉口させられる羽目になってしまった。
 此処へ立ち寄ろうという気になったのは、そこから屯所に戻るよりはこちらの方が近いように思えたからでもある。
 しかし、私は、そもそもが此処では、招かれざる客であるどころか、どちらかと言えば、他聞を憚る訪問者。我が物顔で勝手に上がり込むわけには行かぬ。せめてひとことなりと、この家の住人の許しがなければ……
「──まあ、伊東はん。こないな日に」
 庭の方から届いた声に頭《こうべ》を回《めぐ》らすと、雨戸を閉めに濡れ縁へ出てきたらしい二十歳《はたち》になるやならずやの女が、驚いたような顔でこちらを見ていた。私は罪のなげな微笑みを浮かべると、軽く会釈した。
「相済みませぬ。今日の出先からだと屯所に戻るよりもこちらの方が近かったもので、つい雨宿りに参上った。どうか気遣いなく。小降りになるまで、このまま軒下をお借りします」
「そないな……軒下やなんて」
 女は、とんでもないと言わんばかりにかぶりを振った。
「どうぞ上がっていっておくれやす。そないに長うは降らしまへんやろけど、今は雨脚が強うおす」
 雨音に半ば掻き消されながらも届いた女の声に、私は、内心ほくそ笑んだ。わざわざ此処へ来たのは、この雨の中、軒下で遠慮したいと殊更に告げれば逆に招き入れてもらえるだろうという計算があったからでもあるのだが、どうやら、その見立ては誤っていなかったようだ。
(……この雨では、土方も訪れはすまい)
 そう考えれば、存外、今日の運の廻《めぐ》りは悪くないのかもしれぬ。
 内心に呟きながら、私は、雨に背を向けた。
 
 最初の最初から、この女に──土方の愛妾である君鶴《きみつる》殿に近付こうと企てていたわけではない。
 最初は本当に、壬生寺での調練帰りに土方が立ち寄っているのではないかと訪れてみたに過ぎぬ。休息所に押し掛けるなど野暮天の最たるものとわかっていても、土方が此処に来ている時なら他の者に邪魔されることなく色々な話が出来るのではないかと、愚かしいと自覚していてさえもどうにも抑え切れぬ期待を抱《いだ》いて。
 何しろ、江戸で徴募した新しい隊士達を引き連れて京へ戻ってからというもの、とにかくあの男は多忙を極めている。私に隙を見せたくないが為に、私の目の届く範囲でのみ努めてそう見せているだけなのかもしれないが、真相がどうであれ、他の邪魔者がいない場で一緒になる機会をなかなか得られぬことは事実なのである。だが、幾らあの男が多忙だと言っても、身請けした愛妾の許へまで全く立ち寄らぬ筈がない。この私とて、決して暇な身ではないけれど、馴染みの女や休息所に住まわせている女の許に通えぬほどではないのだから……
 が、豈《あに》図らんや、いつ訪ねてみても、土方は不在であった。
 想像するに、新選組を切り回すことに今迄以上に没頭していて、他の諸々事《もろもろごと》に気を向けることすら億劫になってしまっているのであろう。
 私が言うのも何だが、君鶴殿は、どちらかと言えば控え目な、おとなしい女である。少しぐらい放《ほう》っておかれても不満を言うような女ではなさそうだ。確かに見目形は美しく、十人並以上だとは思うものの、それ以上の何かを感じる女かと問われれば、当初は、やや首をかしげざるを得なかった。何度も言葉を交わしたわけではない私の目から見てではあるが、忙しい土方から関心の外に置かれても仕方のない、影の薄い女であるような気がしたのだ。
 しかし、一日《いちじつ》、彼女が三味線の音締《ねじ》めをしている姿を垣間《かいま》見た時に、私は、何故土方がこの女を求めて請け出したかを理解出来た気がした。
 ぴしりと心地好く張り詰めた、見ているこちらが思わず背筋を伸ばして瞠目してしまうような、そんな不思議な緊張感。
 その姿は、真剣勝負に臨もうとしている剣士のようにも見えた。
 普段は男からどんな我儘を言われても静かな笑顔で受け入れそうにしている風情なのに、いざ芸に臨まんとする姿は見る者をハッとたじろがせるほど厳しく、一切の妥協を許さぬ芯の毅《つよ》さが冒し難く漂う。……土方は、この女の、こんな姿に惹かれたのではあるまいか。
 やがて、音締めを終えた彼女は、はんなりとして柔らかく、そこはかとなく艶っぽく、聴く者を陶然とさせる色香を秘めた声で唄い始めた。
 私は、初めてまともに向かい合ったその声に、震えを覚えた。
 体を芯から妖しく揺り動かされるような、穏やかならざる震え。
(ああ……お前は……お前はその声で[#「その声で」に傍点]、あの土方の心を蕩《とろ》かしたのか……あの、私に対しては何処までも冷たくつれない、氷のような男の心を……)
 その甘やかな艶を秘めた声をこうして折々に聞かせ続けることで、あの男の情を一身に受ける光栄に浴したというのか……その、如何にも影の薄そうな、ほっそりとして見える貧弱な身に……。
 この妾宅の夜の床《とこ》で、その声をどんな風に響かせて、あの男と睦み合っているのか……。
 体の芯を疼かせる不穏な震えと、涌き起こる妄《みだ》りな思いは、唄声を聞けば聞くほど、いよいよ強くなりゆく。
 はっきり言ってしまえば、それは、目の前の女を組み敷き思うさま辱めたいという昏い欲望の衝動であった。
 気が付いた時には、足が勝手に庭先へと向いていた。夜の灯《ひ》に抗えず吸い寄せられる蛾のように。



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