上野寛永寺で恭順謹慎中の前《さきの》将軍徳川慶喜の警護を終えて間もない新選組に、二月二十八日、甲州出兵の正式な命が下りた。
 この出兵は、月ば頃、局長近藤勇が副長土方歳三と共に陸軍総裁勝海舟と面談した折に願い出ていたものであった。その趣旨は、今まさに江戸を目指して進軍中の東山道軍に意を通じられる人物がいるから幕府の恭順の意向を伝えたい、無論、新選組自身も絶対に戦闘には及ばない──というものであった。
 海舟は、乗った。
 江戸総攻撃を回避する為に全力を払っていた彼は、江戸を恭順派で固めたいと考えていた。抗戦派の筆頭にも挙げられる新選組を江戸の外に出してしまえるこの申し出はある種願ってもないことだったし、新選組の恭順とやらに賭けてもみたかった。
「くれぐれも、本筋を忘れねえでくださいよ」
 席上、彼はそう念押しした。
「間違って戦になんかなっちまったら、上野に籠もっておいでの上様のお命にも関わるんだからね」
「承知しております」
 応じる勇の側で、歳三も一緒に頭を下げた。
 だが、戦にならないという保証はない、と歳三は思っていた。実際のところ、恭順を伝えるとは名目で、彼らの目的は、甲府城の接収であったのだ。幕府征討軍の主力部隊は東海道軍と東山道軍、その一方たる東山道軍を甲府で足止めすることが出来れば、東海道軍を幕府の陸軍が迎え撃ち、海軍がそれを援護する、という抗戦派の作戦が、俄《にわか》に現実味を帯びる。それは東山道軍とて承知していようから、恐らく彼らも、甲府城を押さえたいと考えているだろう。
(こちらが城に拠っていれば、それこそ「挨拶は鉄砲で」ってな具合に仕掛けられねえとは限らねえ。仕掛けられりゃ、受けて立たなきゃならねえじゃねえか)
 新選組と東山道軍、互いの目的が同じで利害が対立する以上、戦になる可能性の方が高いのではないだろうか……。
 命が下った三日後の三月一日、甲陽鎮撫隊と名付けられた一隊は、江戸を出立した。生き残りの新選組隊士達や急遽き集めた俄兵士達、合わせておよそ百七十名から成る部隊であった。
 道中は、ゆっくりとしたものであった。最初の泊まりとなった内藤新宿では、遊女屋を全部借り切ってどんちゃん騒ぎもした。
「もうちょっと早く動いた方がいいんじゃねえのか?」
 懸念する歳三に、勇は笑って応じた。
「甲府には人を遣ってある。寄せ集めの連中の気持ちを高めてひとつにしてやるが先さ」
「……しかし」
「大砲まで引っ張ってんだ、あんまり急いで動いたら、却って脱落する奴が出るよ。……総司の奴も、この速さだから保《も》ってんだ」
 歳三は黙った。黙るしかなかった。今回の甲州行きには、既に病い沖田総司も同行している。今度ばかりは絶対に付いてゆくと言い張って加わった総司だけに、ひとことも弱音は吐かない。だが、ずっと彼の側に付いていた歳三は、たった一日の行軍でさえ時間を追う毎に疲労の色を濃くしてゆく彼に、容易に気付いていたのだった。
 勇が、静かに盃の縁を舐める。
「明日は日野だ……素通りするわけにゃ行くめえ?」
「……ああ」
 歳三は頷きながら、思った──この人はこれでいいのだ。こういう考えで動くからこそ、この人なのだ。自分の役目は、そんなこの人を守《も》り立てることだ。
 しかし、思いつつも、歳三は不安だった。本当にそれでいいのだろうか……。まるでお祭り騒ぎのようにのんびりと行軍している内に、取り返しのつかぬことになりはしないだろうか……。
 自然、馬上でも無愛想な顔で黙り込む歳三であった。
 
 翌日、鎮撫隊は、日野宿の名主である佐藤彦五郎宅に、休息の為に立ち寄った。
 日野では、近藤先生が大層御出世なさってお通りだ、というので、近隣から大勢の人が集まっていた。
 勇は笑顔を忘れない。出迎える人達のひとりひとりに笑い掛ける。義理堅い彼ならではのことだ。だが、歳三は、彼のようには笑えなかった。心に懸かることが重過ぎて、どうしても難しい表情を解くことが出来なかった。それが、格式にこだわって権高に構えていると周囲に取られていることはわかっていたが、陰口を叩かれるのは鬼副長時代から慣れている。
(却って近藤さんの偉さが目立っていいさ)
 そんなことさえ思いながら、歳三は、赤糟毛馬早蕨の背から下りた。断髪洋装、膝まである革の長靴《ちょうか》、外套《マンテル》、といういでたち[#「いでたち」に傍点]も、恐らくは郷里の人達の目には奇異な、そして何処か気取った風に映っているのだろう。
 佐藤家には、勇や歳三の親類縁者の殆どが集まってくれていた。幹部達は酒肴でもてなされ、話に花を咲かせた。この席上、彦五郎が、自分の組織している日野農兵隊の同行を申し出、兵糧を管理する部隊として従軍することになった。勇も歳三も一度は止めたのだが、彦五郎はじめ農兵隊の面々の熱望に、折れざるを得なかったのである。
 ただ、やはり名主がそのまま率いて出るでは具合が悪かろうと、彦五郎が春日盛と名を変え、隊名も春日隊と改めることにした。
「……姉さんに止めてもらえりゃ、って思ったんだけどな」
 饗応の席から抜け出して、別室で姉ののぶ[#「のぶ」に傍点]に会った歳三は、困ったような笑いと共に義兄の話をし、最後にそうぼやいた。
 のぶ[#「のぶ」に傍点]は諦めたような苦笑を見せた。
「私には止められませんよ。今迄ずっと辛抱してきたあの人を見てますからね」
「辛抱?」
 怪訝そうに歳三が呟くと、のぶ[#「のぶ」に傍点]は頷いた。
「あの人はね、近藤先生や歳三さんが都で大層なお働きをしていらっしゃったのが誇らしくって、それと同時にね、内心羨ましくって仕方なかったんですよ」
 湯呑にお茶を注《つ》ぎながら、言葉を継ぐ。
「自分も出ていって力になりたい、そう思っても立場上此処を離れるわけには行かないでしょう? ……いつも、歳三さんから便りが届くのを楽しみにして、無茶してなけりゃいいが、って気に懸けて……そんなあの人だから、今度はもう居ても立ってもおれないんですよ。……私は、歳三さんの無事が何より嬉しいんだけど」
「……向こうじゃ、随分面白いこともあったけど、色々危ない目にも遭った」
 歳三は、のぶ[#「のぶ」に傍点]が入れてくれたお茶をひと口ってから応じた。
「まあ、それでも何とか生き残って、戻ってきて……今回、大分出世しちまったわけだけど」
「本当にねえ……でも、これから戦で手柄をお立てになったら、もっと出世なさるでしょう?」
 何気ない言葉に、歳三は目を伏せた。
「……これから先のことなんて、どうなるやら」
 低く呟き、乾いた笑いに紛らせる。
「だから、義兄《にい》さんを巻き込みたかねえんだけどなァ……」
「心配いりませんよ。源之助が今、枕も上がらない状態ですから」
 歳三は目を上げ、姉の落ち着いた顔を見やった。二、三度まばたいた後で、苦笑する。
「……粕屋の兄さんに頼んだのかい」
「ちょいとだけね」
 のぶ[#「のぶ」に傍点]は小さく笑った。粕屋の兄、とは歳三やのぶ[#「のぶ」に傍点]のすぐ上の兄で、医者に養子に出た良循のことである。恐らく、病気は本当だとしてもそれほどでもないものを、絶対安静が必要だと言ってもらったのだろう。源之助は彦五郎の長男、彼も農兵隊の一員だが、病気で床を離れられないのであれば従軍出来ない。つまり、万が一の時でも、家督を継ぐ人間は大丈夫、ということだ。
「こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、いざという時には家族それぞれ別の所へ身を隠そうって話してるんですよ」
 その程度で安心出来るわけもなかったが、歳三は頷いて笑顔を見せた。余り自分の不安を表面に出せば、姉は心配するだろう。もう戦の話はやめよう、そう思いながら、彼はまた湯呑に唇を当てた。
「……話は変わるんだけどね、歳三さん」
「うん?」
「おこと[#「こと」に傍点]ちゃん、来てますよ」
 不覚にも歳三は、飲みかけていたお茶にむせてしまった。
「お話が出来なくてもいいから、お姿だけでも見たいって」
「……会えねえよ」
「……そりゃ、無理にとは言いませんよ」
 のぶ[#「のぶ」に傍点]は嘆息するように言った。
「おこと[#「こと」に傍点]ちゃんは、歳三さんの迷惑にはなりたくないから、自分が来てることは歳三さんには言わなくていいって、言ってますしね。だけど、折角わざわざ訪ねてきたってのに知らせないなんて、あんまりな気がしてね」
 歳三は無言でお茶を飲み干すと、ひとつ息をついた。
 そして、暫く障子の方を眺めていたが、やがて、何かを吹っ切るように大きく肩を揺らし、湯呑を置いた。
「……そうだ、これ、置いていくよ」
 殊更に何気ない口調で言いつつ、傍らに置いていた包みを姉の方へ滑らせる。
 包みの中には、見事な縮緬仕立ての母衣《ほろ》が入っていた。母衣とは、騎馬武者が鎧の背中に着けて流れ矢を防いだり旗指物(戦場で目印にする小旗)代わりにしたりする、袋状の大きな布である。
「拝領の品なんだけど、この恰好じャア使いようもないから」
「歳三さん──」
「ああ、そういえば作兵衛の奴、こっちに来てなかったな。ちょっと会いに出てくるよ。──また後で」
 何か言いかける姉を遮って、歳三は立ち上がった。軽く頭を下げて部屋を出る。殆ど逃げたようにも見える席の立ち方ではあった。
 長靴《ちょうか》に足を入れて厩へ行くと、小姓の市村鉄之助少年が駆け寄ってきた。
「副長、お出掛けですか」
「古くからの友人に会いに行く」
 馬丁の沢忠助に言って早蕨に馬具を置かせ、その手綱を取りながら、歳三は応じた。
「お供します」
「……いいだろう。轡を取れ」
 鉄之助少年の張り詰めた表情が、驚いたように緩む。
「よ、宜しいのですか、副長?」
「何が」
「今迄は、お供を許していただけることは──」
「付いてきて構わん時には許す。それだけのことだ。──来るのか?来ないのか?」
「はっ、はいっ、参りますっ!」
 嬉しそうに頬を紅潮させて、鉄之助は早蕨の轡を取った。
 
 歳三が訪ねていったのは、祖母の実家である平《たいら》であった。此処の作兵衛とは、年が近いこともあって、昔から親しくしている。皆は呑気に騒いでいるが、戦になる可能性も大きいこの先、再び郷里の人と見《まみ》える命があるかどうか……別れを告げるとまでは行かずとも、会っておきたい人には会ってゆきたい。そう思っての訪問であった。
 だが、作兵衛は他出していた。佐藤家に来られなかったのも、そのせいらしい。
「わざわざ来てくれたのに悪かったねえ。どうでも先延ばしに出来ねえ用だとかでよ」
 家にひとり留守番をしていた作兵衛の祖母が、ボタ餅を拵える手を休めて、申し訳なさそうに言う。歳三は微笑を覗かせてかぶりを振った。
「いんや、構わねえだよ」
 つい、地言葉で応じてしまう。傍に鉄之助少年がいるのを失念していたわけではなかったが、老婆の言葉に釣られたのだ。ちらっと少年の方を見やった歳三は、少年が何も聞いていないような顔でいるのを見て、微苦笑した。
「ちょっくら挨拶しとこうと思っただけだし……知ってるかもしんねえけど、戦ァ、行くからよ。……宜しく、伝えといてくれ」
 そう告げて踵を返そうとする歳三を、老婆は呼び止める。
「何だい、もう帰《けえ》るのかい? 折角来たんだ、今ボタ餅作ってっから、食べていきな」
「いや、嬉しいけんど、急ぐから……」
 歳三が曖昧に笑ってそう断わると、老婆は小さく鼻を鳴らした。
「なァにせかせかしたこと言ってんだ。ボタ餅が出来る間ぐらい待って落ち着いてなきゃ、戦に勝てねえぞ」
 歳三は咄嗟に返す言葉を思い付けず、困惑の表情を浮かべてしまった。
「ほれ、いいからそこに座って待ってろ。たいした時間じゃねえ」
「……わかったよ」
 ようやく、嘆息と共に答を返す。苦笑いして縁側に腰を下ろすと、鉄之助少年が寄ってきた。
「副長──お時間の方、本当に宜しいのですか?」
「構わん」
 小声の問に、またぞろ苦笑して、歳三は応じた。
「そう長くもなるまい。……君も座れ」
 確かに、待つというほどのこともなかった。程なく出来上がったボタ餅を頬張りながら、歳三は、先刻の老婆の言葉を思い起こした。考えてみれば、急ぐと言ったって今すぐ出立するわけではなし、ボタ餅が出来る間ぐらい待ったところで、何ということもなかったのだ。
(……兵は拙速を尊ぶ、と言う……だけど、急ぐのと焦るのとは、別、なんだな……)
「遠慮はいらねえ、好きなだけ食べていきな」
「済まねえな。……市村君、君も遠慮せずに頂け。此処の婆様のボタ餅は美味《うま》い」
「は、はい」
 それまで物欲しそうな顔ひとつせずに正面を向いてきちんと腰掛けていた鉄之助だったが、歳三がそう声を掛けると、照れたような表情で頷いた。どうやら、内心では食べたかったらしい。何と言っても、まだ十五歳の少年である。
「行儀のええ男の子だ。わしらの目をかすめて盗《と》って食べよった誰かさんとは大違いよな」
「……放っといてくれ」
 歳三はぼそっと呟くと、ボタ餅のふたつ目に手を伸ばした。



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