亡霊さん達(!)の助けもあって(!!)、何とか死線を越え、会津若松へと辿り着いた土方さん。先行していた山口次郎――斎藤さんの改名後の名前――とも再会を果たし、療養生活に入るが……


 数日して少し熱が下がると、歳三は、鉄之助に頼んで、同じ宿に泊まっているという話を聞いていた旧幕臣を自室に呼び寄せた。相手の名は望月光蔵《もちづき みつぞう》。神奈川奉行所定役元締の職に在った人物である。歳三自身面識はなかったが、名前と役職ぐらいは知っていたので――いや、正しく言えば、知っていたからこそ[#「からこそ」に傍点]、敢えて真っ先に呼びつけた[#「つけた」に傍点]のであった。
 やがて部屋に姿を見せたのは、五十みと思しき男だった。
 先方が通り一遍の挨拶と見舞の言葉を口にするのを、歳三は横たわったまま聞いた。最初に「横になったままで失礼する」と断わった時、相手がわずかにムッとしたような目を見せたのを、彼は見逃していなかった。だから相手の見舞の言葉も、彼には、実《じつ》のない、慇懃無礼にさえ思える言葉として響いた。
(わざわざ会津まで来たからには、新政府とやらには従わん、抗戦しようという思いは、ある筈だ)
 なのに、目の前のこの男は、自分歳三よりも早くこの宿に入り、しかも自分のように深手を負って起つこともままならぬというわけでもないにも拘らず、何処の隊に加わるでもなく、ただ日々を送っているらしい。そのことが、歳三には不思議でならなかった。腹立たしく歯いとさえ感じられた。
「……貴殿が会津へ来られたのは、そも、何の為か」
 相手の実《じつ》の乏しい言葉が終わるのを待って、歳三は、口を開いた。相手は一瞬険しい表情を閃かせ、しかしすぐにそれを抑えた顔で答えようとした。
「それは無論、薩長政府の無理無体に抗さんが為――」
「ならば今すぐ剣を取り、我らの列に加わって戦うべきではないか」
 敢然と放った言葉に、光蔵は顔色を変えた。が、再びそれを抑え込んだ様子で、笑みさえ浮かべてかぶりを振った。
「私は文官だ。故に、会津侯のお膝近くでお役に立とうと思うておる。適材適所と申すを御存じないか」
「会津侯のお側回りなら、貴殿でなくとも藩士が務める。第一、侯は謹慎中の身、親兵を発する機にはない。今求められているのはひとりでも多くの兵士だ。その程度のこともおわかりにならぬか。わかっていながら敢えて起たぬとあれば、卑怯怯懦の誹りは免れ得まい」
 光蔵は笑みを消さない。まるで面上に貼り付けているような、薄く浅い笑み。
「……どうも、貴君とは話がかみ合わぬようだ。私も暇ではない。失礼する」
「逃げるか、臆病者」
 立ち上がろうとする光蔵目がけ、歳三は冷笑の刃《やいば》を浴びせた。相手の笑いが内心の不快感を隠し都合の悪い話題をやり過ごそうとする為の上っ面《うわっつら》に過ぎぬことなど、見えている。その作りものの笑みを引っ剥がし、反骨を呼び覚ましたかった。
「貴殿、志を立てて遠く会津まで来ておきながら、何たる臆病者か。身を捨てて忠義を尽くすのが武士《もののふ》ではないのか。文官で武事に疎いというなら尚のこと、我らの列に加わって鍛錬すれば良かろう。それもせず、ただただ後ろに引っ込んで、いつ発せられるかも知れぬ親兵に加わろうとは、何たる卑怯者、何たる臆病者」
 腰を浮かせかけていた光蔵が、耐えかねたように歳三を睨み据える。
 反発してこい。
 歳三は睨み返した。何の、臆病者ではないわと反発してくれれば、説得も不可能ではない。彼はそう考えていたし、だからこそ相当にきつい言葉ばかりを選んで相手に投げつけてきたのだ。
 光蔵は、ひとつ息を吸うと、ゆっくりと座り直して目を閉じた。
「……卑怯臆病者は、貴君の方であろう」
 いっそ穏やかな語調に、歳三は一瞬反応出来なかった。何か突拍子もないことを言われたということだけが先にわかって、言葉そのものが頭まで通ってきたのは、それより何秒か後だった。
 何と言われたかを理解した時、光蔵が目を開いて歳三を見下ろした。顎をわずかに持ち上げた、見下したような表情で。
「私は以前、少々兵書を学んだ。兵を勇猛たらしむるも怯懦に貶むるも、兵の勢いを生かせるか否かにかかっておる。そも、用兵巧者は、兵の勢いを利用する。怯懦の兵も、勢いに乗せれば用いるに足る」
「私は兵法談義を聞きたいのではない。貴殿が発せられる当てもない親兵に加わらんと卑怯怯懦の言を弄するを――」
「まあ黙って聞くが宜しかろう。……ちなみに申しておくが、会津が謹慎中であるなどと貴君が本気で信じているなら、おめでたい話だ。貴君も含めてこれだけ多くの幕府脱走兵を受け入れ養い、しかも越後方面へ出兵させたりしている、それの何処が謹慎中の藩の行いだと? 子供騙しも極まれりというものではないか? ……まあそれは置くとして、私が言いたいのは、宇都宮のこと」
 歳三は、ぴくりと眉を上げた。
「宇都宮?」
「会津にとって、白河と宇都宮、就中《なかんずく》、宇都宮は要衝の地。会津を守るには、これを押さえておかねばならぬ。そこを貴君、攻め落としたまでは上出来だったが、折角の兵の勢いを生かせず、意気地もなくあっさりと奪い返され、いまだ再び攻め奪《と》る兵も起こせず、ただただ寝転がって人に指図がましい口ばかり利いておる。これが卑怯臆病者でなくば、何が卑怯臆病者と申せよう」
 ざっ、と血の気の引く音が、耳に鳴った。
 抑えねば、と思う理性が、調子っ外れの高い音をたてて弾け飛んだ。
「臆病者が私に向かって臆病者と罵るなど、片腹――」
「黙れ!!」
 傷のことも忘れ、歳三は跳ね起きた。途端脳天まで貫いた激痛に敢えなく崩れ落ちながらも、彼は、怒号の剣幕に腰を浮かせた相手に炎のような怒声を叩きつけた。
「詭弁長広舌、聞く耳持たん! 胸が悪くなるッ、出ていけッ!!」
「言われなくとも」
 光蔵はせせら笑って、しかし慌て加減に立ち上がった。
「こちらから出ていってくれるわ。――やれ、俄侍に付き合《お》うて、無駄な時を使うたわ」
 後ろ半分は小声であったが、歳三にはしっかり聞こえた。
 結局それ[#「それ」に傍点]か。
 元からの侍でも幕臣でもない者と同じ列で戦っては、沽券に関わるということか。
 普段なら聞き流せたかもしれぬ。が、今は恐ろしく沸点が下がっていた。
 歳三は矢庭に箱枕をつかむや、出てゆこうとする光蔵目がけて投げつけた。ぎりぎりの寸前で理性が働き、重い枕は相手の体をわずかに外れた。ばしゃんと派手な音をたてて障子の桟が四、五本へし[#「へし」に傍点]折れる。紙を突き破った枕が外の廊下に転がる音が、乱暴に響いた。
「……ふン」
 一瞬引きつった横顔を見せた光蔵は、しかしすぐに冷笑を浮かべ、小馬鹿にしたように鼻を鳴らして出ていった。お前が何をしようと大したことはないぞと殊更に示そうとしている、そんな態度であった。
「……畜生……」
 障子が閉ざされ、相手の足音が遠ざかって場にひとりきりになると、歳三は、ぎりぎりと握り締めた両の拳を床《とこ》に叩きつけ、呻き声あげ、くずおれるように突っ伏していた。
「畜生……畜生……畜生ッ……」
 こらえ切れず、悔し涙がにじむ。奪われたくて城を奪われたのではない。寝転がりたくて床《とこ》に寝転がっているのではない。負いたくて負ったわけではない傷の故に、戦場を離れて退かざるを得なかったのだ。今もなお戦場に立てずにいるのだ。それをあの男は、如何にも歳三が卑怯臆病だからそうなったのだと言わんばかりの詭弁を弄して、己を正当化しようとした。
 だが、涙は単に、望月光蔵から不当に貶められた、という意識だけから涌いたわけではなかった。年幼い従卒の死を無駄にしてしまったという負い目、歳三自身の胸の底に拭い難く刻み付けられた、そして他の者が今迄決して触れようとしなかった、目に見えぬ傷――そこを、光蔵の言葉が、たとえ詭弁であれ、まともに抉ってのけたからこそのものであったのだ……
「あーあー、こいつァまた、派手にやりャアがって」
 床《とこ》に突っ伏して呻き泣く耳に不意に届いた余人の呆れ声に、歳三はぎょっとなって顔を上げた。
「よっぽどおめェさんを怒らせやがったね、あの御仁は」
「まっ……松本先生っ……!?」
 予期せぬ来客に、歳三は涙を拭くのも忘れて茫然と相手を見上げた。障子を開けて入ってきたのは、新選組在京の頃から懇意の幕医、松本良順であった。
「い、いつ、こちらへ……」
「ばーか。おめェさんが来るより前から、おいらは御城下に入ってたよ。ちと別用で若松を留守にしてたんだが、おめェさんが大怪我して担ぎ込まれたって聞いたんで、戻ってきてやったんじゃねえか」
 良順はニヤッと笑い、枕片手に障子を閉めた。
――「転地」より



 こうして訪れた松本先生に殆ど強引に引きずり出されるようにして、土方さんは、何処《いずこ》とも知れぬ土地へ湯治にやられる。そして、そこで、思いがけぬ出会いをするのだった……。



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